おおかみと平凡


何にも使われていない教室群のひとつに足を踏み入れる。この前入った時と同じく、若干ほこりっぽく薄暗い。____ああ、本当に、気が進まない。

「待ってたよ、リーマス」
「…………何か用かな」
「当たり前でしょう。そうでもなきゃ、わざわざ呼びつけたりなんかしない」
「手短に済ませてもらえると嬉しいよ」
「君次第かな」
「そうかい」

リズは最後に見た“いつも”と寸分違わぬ様子でそこにいた。僕に話しかけてきた。明らかにそっけない僕の態度に腹をたてる様子もない。リズを突き放さんとする僕の最後の虚勢一つ、今の彼女の前に意味をなしていないような気がした。

「それで?」
「告白の返事をしなきゃいけないでしょう?」
「……告白なんてした覚えはないよ」
「へえ、私にはそう聞こえたんだけど、勘違いだったかな」

言うつもりなんかじゃなかったのだ。だから、あのお粗末な愛の言葉は____僕が生まれて初めて理解して、それから、口をついて出た彼女への恋愛感情を思わせる言葉は、告白なんて崇高なものではなかった。醜い怪物である僕の、一種の願望であり、妬みだった。押し黙る僕をリズはどんな顔で見ているのか確認する勇気もない。視線は交わらない。彼女もまた、じっと言葉を口にしないまま、静かな時が流れた。

「……怖いだろう? こんな化け物と、丸3年も仲良くしていたなんて。優しい男だなんて言って、友だちだなんて呼んで……後悔しただろう……」
「リーマスが時折ひどく卑屈な態度をとるのは、そういう理由だったんだなって思った。どうしても私に話そうとしなかった秘密だったのも、納得した」
「卑屈なんかじゃない。本当に悍ましい生き物なんだ! 君だって怖いと言ったろう! 僕がここにいられたのは、ダンブルドア先生のご慈悲のおかげだ。僕は、幸せだった……」
「怖いところしか知らないのに、怖がるなって方が無理な話だ! それで? 君は私を理由に学校をやめるとでも言うつもり!?」

虚をつかれた、という顔をしてしまった自覚があった。リズは普通の、化け物を怖がる感性のある女の子で、僕はそんな君のことを好きになってしまったから。君を怖がらせることは本意ではないから。

「馬鹿にするのも大概にして……! 私はそんなに信用されてなかったんだ!? 君と仲良くしていたと思っていたのは全て私の勘違いだったわけだ!」
「っえ、」
「私は確かに君の言うように、恐ろしい生き物を怖がる普通の人間でしょうよ! あの三人とは違う! 勇気だなんて、勇敢さだなんて、持ち合わせてない、けど!」

呆然とする僕の胸倉をリズが掴む。僕より随分と低い位置にあったはずの彼女の顔の側へ、僕の上体ごと顔が引き寄せられる。ゴッ、と鈍い音が響いて、次第に額に走る痛みに一瞬遅れて気がついた。

「ッいっ〜〜〜っ!」
「友だちの重大な秘密ひとつ守れないほど馬鹿なつもりなんかなかったのに!」

上からの衝撃を受けている分彼女の方がよほど痛いはずなのに、狼狽える様子も身を引く様子もなく、リズは言い放った。久しぶりに彼女の顔を正面からはっきりと見た。キッと吊り上げられた眉も、目尻も予想通りだったけれど、まさか瞳が潤んでいるなんて思いもしなかった。毅然とした態度で彼女を跳ね除けるつもりだったのに、その意思は早くも揺らぐ。

「ちが……君が、人に言いふらすとか、そんな風には思ってない。ただ、君は、」
「今は_____今だけは、「君は"普通"だから」なんて言わないでよ! それは、それは、私を“リーマス・ルーピンを友人と呼んでいながら秘密を知った途端掌を返して君を差別するような人間だ”と言っているのと同じだ!」

違う。君のことをそんな風に思ったことは一度もない_____と言えば、嘘になった。僕は少なからず、リズは僕の正体を知ったら怖がるんだ、嫌うんだ、って。それが普通なんだって、自分を諦めさせてきたから。僕が人狼だと告げた時の君の表情は、恐怖に慄いていたから。

「…………ッ、だって、きみは、普通の女の子、じゃないか……! 君を怖がらせるのは、脅かすのは、嫌だ……!」
「今、私は、ホグワーツで自分の身を守るために学んでるの! そんなのってお門違いだ!」

リズが僕の服を手放して、今度は優しく僕の頭を自分の肩口へ引き寄せた。されるがままにリズに抱きとめられる。頭を預けた彼女の肩も、眼下の彼女の背中も、小さくてあたたかい。

「わたしは、人狼を怖いと思うよ、リーマス」

僕の肩のあたりで、リズが喋る振動が伝わる。

「でも、それ以上にリーマスとこんな別れ方をするのは嫌だ。リーマスともう話せないのは嫌だ。リーマスが、いなきゃ、いやだ……!」

じわり、何かあたたかいものを制服越しに感じた。だらりとぶら下げていた腕を、おそるおそる彼女の背中へ回す。何も知らない友だち同士でいた頃の距離感がいやに近く思えた。彼女に触れて、拒絶されるのも、傷つけるのも恐ろしい。リズは僕から逃れようと身を捩ることもなければ、僕の腕の中で気を失うこともなかった。ぎゅう、と力を込めると、僕の背中に回った彼女の手も、布地を握る力を強くした。すぐそばで聞こえる嗚咽がひどくなる。思えば、リズが泣いてるところなんて初めて見た。泣かせたのは僕だ。彼女の強さを知っていながら、見なかったことにした僕だ。

「…………リズ。そのままでいいから、聞いてくれるかい」

こくり、頷いたようだった。泣きながら激しく呼吸をする彼女の背を撫ぜる。できるだけ、聞こえるように、届くように、僕は口を開く。

「ごめん。僕は君のことを大事な友達と、大切な女の子だと呼んでおきながら、すごく君を馬鹿にしてしまった。本当に君を信じきれていなかった」

リズの息が落ち着いてきて、それから、僕は軽く背中をつねられた。そのくらいの報復、甘んじて受けよう。君に言葉を伝えることが許されるのならば。

「まずはきちんと謝りたい。ごめん。そして、改めて君のことを一人の女の子として好きだと言わせて欲しい。……それでも、僕が、汚らわしい生き物である事実もすべて、変わらないことなんだ」
「私、は」

ゆっくりと体温が離れていく。リズと正面から顔をあわせる。

「リーマスのこと、恋だとか、愛だとか、そうやって見たこと、なかった」
「……うん、知ってる。僕だってそうだった」
「でも、少なくとも、リーマスが人狼なのは、私にとってはきっとマイナスになるはずのことなのに、それでも君と一緒にいたいと思う。リーマスとアメリアの間に、私の知らない秘密があった時、嫌だって思った。きっと嫉妬した____これが恋なのか私はまだ、わからないでいるんだ」

言葉を選ぶリズを待つ。こうやって、真摯に人と向き合えるところに、友だちを大事にしてくれるところに、僕は惹かれたんだと今なら言える。

「だから、その、今更こんなことを言うのも変だけど、お友だちから始めませんか」
「…………いいのかい? 僕をまた、友だちだなんて呼んでくれるの?」
「何度も言わせないで。私は、そんなことよりずっと、私と仲良くしてくれたリーマス・ルーピンの方が大事なの。それにね、」

それに? 僕が聞き返すより先に、リズは空き教室の出口へ歩き出す。「リズ?」呼びかけると、扉に手をかけた彼女がふわりとローブを翻して振り返る。

「ね、それなら、リーマスの秘密がなんだったって気にならないくらい、私をリーマスに夢中にさせてよ!」

にっこり、微笑んだ。顔立ちもなにもかも普通だと称される彼女のその笑顔に、僕はくらりと眩むものを感じる。もう、どうしようもないくらい可愛らしく見えるのだから、相当末期なのだろう。_____なるほど、ジェームズがエヴァンズに首ったけなのも納得する。恋とはあまりに人を見る目を変える。

「……うん。リズ、君ってやっぱり、最高だ」

完敗だ。どうやら僕は、この普通の女の子に、すっかり頭が上がりそうにないらしい。