『スノードーム』(3年目)
屋敷内に走る殺気。遠く聞こえる物の壊れる音。普段は静かな屋敷に響く騒音。
肩を竦めたアスヒは厨房に集めたメイドと使用人に溜息混じりに声をかけた。
「お聞きの通り、クロコダイル様はご機嫌は『あまり』よろしくありません」
彼女の会話の最中にも物の壊れる音が響いてくる。
音が響くたびに話を聞いている2人の部下は同時に肩を震わせていた。
クロコダイルが急に不機嫌になることにはもう慣れきっているアスヒは、なんてことはないように言葉を続ける。
「本日は屋敷ではなく、カジノ側のお手伝いをしてください」
屋敷内の人数が少なくなる分、自分の仕事が倍に増えることを意味していたが、可愛い部下達が腹いせに殺されても困る。
こういう時に限って、クロコダイルと近い立場で会話できるロビンは不在で。
クロコダイルの暴れように、長年この屋敷にいるコック長すらも困惑の表情を浮かべていた。
また響いてきたガラスの砕ける音に、再び溜息をついてから、アスヒは不安がる部下達を送り出した。
彼が部屋で暴れているうちに彼女達をさっさとカジノへと避難させてあげなくてはいけないのだから。
「…さて、私も行きますね」
コックに声をかけてから、アスヒは背筋を伸ばして、厨房の扉を開けて仕事に向かった。
†††
「おい」
急に掛けられた声にアスヒは一瞬だけ肩を震わせる。書類整理をしていたアスヒは持っていた羽ペンをおいてクロコダイルに振り返った。
ようやっと部屋から出てきたクロコダイルは、思ったよりも静かな口調でアスヒに声をかけていた。
返事をしたアスヒは立ち上がり、ぺこりと頭を下げて彼からの命令を待つ。彼は頭を下げるアスヒを見下ろしながら言葉を履いた。
「部屋を片付けろ」
「かしこまりました」
大人しく答えながら、荒れ果てているであろう部屋を思って、彼女は内心溜息を付いた。
そしてクロコダイルの私室に入ると、やはりそこは嵐が通り過ぎた後のように荒れ果てていた。
真っ二つになった机や崩れた本棚。前面に広がる水槽だけは流石に無事だったが、それ以外に無事なものは片手に数えるぐらいしかなかった。
荒れ果て、破壊された家財達を見て、アスヒからは溜息が溢れる。
高価なものや稀少なものに溢れるクロコダイルの部屋は、すっかりガラクタ塗れになってしまっていた。
ひとつひとつを拾い集め、片付けているうちに、クロコダイルがふらりと部屋に戻ってきた。
彼の片手には空の珈琲カップが握られていて、アスヒの視線が部屋にあるはずの備え付けの珈琲セットに移った。
それももちろん悲惨な壊れ方をしていたのだけれども。
「少々お待ちください」
アスヒはクロコダイルの元に近づき、空の珈琲カップを受け取る。
棚の中にいて辛うじて無事だったドリッパーを取り出し、部屋の片付けを後回しにして手早に珈琲を淹れ始める。
静かに執務椅子に座るクロコダイルの気配を背後に感じつつ、アスヒは少しの疑問を感じていた。
(思ったよりも落ち着いている)
彼がこれだけ暴れたにも関わらず、怒りに満ちた様子はもう、ない。
殺意に包まれながら後片付けをするものだと思っていたアスヒは、彼の様子に拍子抜けしてしまう。
疑問を抱きつつも、それを問いかけることなどせずに彼に珈琲を出して、後片付けを再開するアスヒ。
片付けをしている途中、ふいにアスヒは前に贈ったスノードームがないことに気がついた。
それも壊してしまったのだろうと結論付けるが、すぐに違和感を覚える。
スノードームを壊したにしては辺りにガラス片すらも見つからないのだ。
(…大した問題でもない、か)
あっさりと贈り物の行方を探すのをやめて、執務席の周りを片付け始めるアスヒ。
しゃがみこんで散らばった資料を纏めていると、ふと机の上に砕け散ったスノードームが纏められていることに気がついた。
(………え?)
黙り込んだクロコダイルの視線がスノードームの破片に固定されている。
彼はいつものように葉巻を咥えることもなく、何もしないでその破片を見つめていた。
疑問を抱いたアスヒの視線が数秒クロコダイルに向かっていると、彼は壊れた破片から目を離さずに言った。
「壊れた」
数瞬停止したアスヒ。だが、その次に怒り狂っていたクロコダイルが落ち着いたのではなく、落ち込んでいるということに気が付いた。
落ち込んでいるのは、メイドから贈られた小さなスノードームひとつが壊れたから? たったそれだけ?
思い至ったひとつの仮定にアスヒは思わず微笑みを浮かべた。
「暴れるからですよ」
微笑みを浮かべたまま一言だけ言葉を返す。
机から落ちたであろう資料を膝に乗せたままクロコダイルを見上げると、クロコダイルはアスヒを見下ろしていて、視線のあった彼女は目をぱちくりとさせる。
クロコダイルの視線が怒られた子供のように見えて、アスヒは思わずクスクスと笑った。クロコダイルの口元がムスと歪む。アスヒが先に口を開いた。
「仕方のないことです。形あるものはいずれ壊れるもの。
またお作りいたしますね」
「いらねぇ」
クロコダイルはようやっと少しだけいつものような態度へと戻った。素直に礼のひとつも言えば可愛いものを。
ふいと顔を背けたクロコダイルの横で、アスヒは微笑んだまま立ち上がった。
彼の横から机の上に手を伸ばし、粉々になったスノードームを回収する。中に入っていた小物は再び使うことも出来るだろう。
「私が贈りたいだけですので」
素直ではない彼に言葉をかけ、アスヒはガラス片をゴミ箱へと捨てる。
彼を数瞬でも止めることができるのならば、彼女は何度だって『海』を作るだろう。
「…ん」
差し出された空になった珈琲カップをおかわりで満たして、アスヒは再び部屋の片付けを再開した。
(スノードーム)