私はサンドフォード・ストリートの長い道を走る。

私の視界は霧に覆われ、霧の中からは気味の悪い呼吸音が聞こえる。最悪。最悪だ。本当に最悪だ。
走り続けた足が悲鳴を上げる。ヒールなんか履いてくるんじゃなかった。でも、でも走らなければ、

あいつに殺される。

「は…っ……はぁ…」

どこに行けばいい。どこにも行けない。霧が深い。気持ち悪い。なんだここは、なんなのここは。怖い怖いどうして私が、なんで、ここには。誰か、助けて。
ストリートの先にうっすらと遊園地が見える。道に人がいない。あそこに行って誰かに助けを求めなければ。誰かいるはずだ。誰か、居て欲しい。

先程から霧の中で蠢いている何かが見える。何かを確認してしまう訳にはいかない。
だってあれは、人なんかじゃない。あんなものを人とは呼ばない。あんなもがき苦しんでいるような肉塊が、人であるはずなんかない。

なんなんだ、ここは。

「誰か…! 助けて…!!」

遊園地に入った私は金網の床を走り、人を探す。生きている人を探す。いない。どこにもいない。

「ねぇ! 誰かいないの…!?」

遊園地のベンチでは口元を真っ赤な血で濡らしたウサギの着ぐるみが横たわっていた。反対の床にもう1体。中に人が入っている気配はない。
ただ血生臭かった。全体が血生臭い。吐き気がする。気持ち悪い。なんなのよ、ここは。

人なんていない。ここに、私を助けてくれる人なんていない。

絶望に満ちた私は「staff only」と書かれた扉を開いてそこに身を隠した。
狭いスタッフルームには、あの口元を汚したウサギがいたが、なりふり構っていられない。ウサギの背に隠れるようにして、私は身を縮こませる。

何にせよ、もう走り続ける体力がない。逃げるにせよ何にせよ、一旦体力を回復させて、それからあの…、あの恐ろしい三角頭から逃げなければ。

悪臭に鼻が既に麻痺している。吐き気を必死にこらえて、私は膝を抱えるようにして座り込んだ。もう、もう嫌だ。

「なんで…、こんなことに…」

言葉を零すことが危険だとはわかっていた。でも、そう言わずにはいられなかった。

「ねェねェ、どうしたんだい? セニョリータ?」

突然、近くで返された言葉に、悲鳴を上げかけた私の口が、もこもことした着ぐるみの手に覆われた。
動いている! ウサギが、ウサギの着ぐるみが動いている! 人が入っていたのか! そんな気配なんてなかったのに!

そのウサギの着ぐるみが、口元の血液を除いて、マスコットキャラクターよろしく可愛く小首を傾げる。
見開いたプラスチックの目に私の恐怖に満ちた表情がぼんやりと映りこんでいた。

今までなかったウサギの気配に、私は恐怖しか感じない。
ウサギは着ぐるみに最初から貼り付けてある笑顔のまま、もこもこの手で私の頭を撫でていた。その安心させるような仕草に、やがて私は静かに長い息を吐く。

「静かにしないと駄目だよ。セニョリータ。
 あの三角頭が僕達に気がついちゃうだろォ?」
「さ、んかくあたま…」
「ほら、もう近くに来た」

ウサギはそう言うと、もこもこの手で自分の長いその耳の横に手を当てた。自然と私の耳も、辺りの音を聞き逃さないように研ぎ澄まされる。

すると、確かに聞こえる恐怖の音。

重い、あの重たそうな金属の大鉈を引きずるギィーギィーという音が、ゆっくり。ゆっくりと。それでも確実に私達の側に近付いて来ていた。
私の息が止まる。ウサギは私の隣で着ぐるみの笑みを浮かべていた。

ギィ…。ギィ…。音が近付く。冷や汗が流れる。

ギィ…。ギィ…。音が更に近付く。もう、もう…すぐ側にいる。

ギィ…。ギィ…。…ガタン。今のは金属が段差を跳ねた音だろうか。このまま居場所がバレないで欲しい。

自分の口を両手で覆い、恐怖で早くなる呼吸を必死に止める。
一切の音を立てないように努力をするが、ばくばくと鳴っている自分の心臓が煩すぎて、あの三角頭に聞かれるのではないのかと、更に恐怖を倍増させる。
見つかったら、死ぬ。殺される。死ぬ。死んでしまう。

どれくらい身を縮こませていただろうか。隣で一切の気配もなく黙っていたウサギが、不意に動き出し、私の目元に伝う涙を拭った。
私は驚いてウサギを見つめる。ウサギは両手を広げると、不気味な、変わらない笑みを私に見せていた。

「もう大丈夫。あの三角頭は遠くに行ったみたいだよォ、よかったねェ。セニョリータ」
「……本当…?」
「暫く、ここに居れば大丈夫。ここは僕のテリトリーだからねェ」

ウサギはそう言うと、血塗れの口元にもこもことした手を当て、キャハと短く笑った。

その血塗れのウサギを完全に信用した訳ではなかったが、私はもうまともな思考が出来ないくらいには満身創痍だった。

レイクビューホテルに突然現れた三角頭の化け物は、私の目の前にいた男を文字通り真っ二つに切り、私は命からがらここまで逃げてきたのだ。

霧に包まれた町の中はいつの間にか全身をゴムで覆ったかのような肉塊が蔓延っているし、それらは全て殺意を持って私を追いかけてくる。
助けてくれる人は誰もいなく、恐怖で何度心臓が壊れそうになったか。

「…ありがとう」

私はそのウサギに礼を言う。ここに隠れることが出来なければ、私はあの男のように真っ二つにされてしまっていただろう。
ウサギはまたキャハハハと以外と甲高い声で笑った。

「大変だったねェ、セニョリータ。
 でも、どうして三角頭に追いかけられてたの? どんな悪いことをしたの?」
「どうして、って…。私が知りたいよ…。私は何もしてない」
「ふーん。そうなんだァ」

ウサギはどうやら私の言葉をあまり信じてはいないようだった。
本当に私が三角頭に追われる理由なんてない。今まで、普通に、普通の人間として生活してきた。

それなのに、どうして。

「ねェ、なんで君はサイレントヒルに来たのォ?」

ウサギが私の横で再び小首を傾げていた。一難去ったからこその安堵なのか、私はウサギに微笑みかけた。

「………長くなるよ?」
「大丈夫だよォ、セニョリータ。もしかしたら助けてあげられるかもしれないからねェ」

笑顔を何一つ変えないままのウサギが、私のすぐ隣、肩を並べるようにして座る。
心身ともに疲れていた私は、休憩の意味も込めて、膝を抱えて座り込んでいるこの体制のまま、このサイレントヒルに来た理由を話し出した。全ての元凶を。

「私ね、ここには元彼に連れてこられたんだ。『君と寄りを戻したいから、一緒に観光地に行って話を聞いて欲しい』って」

おかしいとは、変だとは思った。
でも、それでも私は、私をふった彼のそんな在り来たりな言葉を信用して、一緒にサイレントヒルの、レイクビューホテルに向かった。

私はサイレントヒルという場所を知らなかったが、彼に言わせれば有名な観光地らしい。
綺麗な湖の見える畔にあるホテルという事を聞き、私は結局ここに来てしまった。

「町に入っても誰にも会わないから、凄い不気味だった。ホテルに入っても従業員1人にも合わないし、彼に聞いても首を傾げるばかり。
 ………それでもホテルから見える景色は確かに綺麗だった。
 私は彼が話し出すのを待つためにも、ホテルの3階から見える景色をずっと眺めてた」

部屋に入っても一向に話し出す気配のない男に、私はだんだん呆れてきた。私はそこまで大人の女じゃなかった。
痺れを切らした私は、外を眺めるのを止めて、男に振り返った。

「そしたら…男は…、私の元彼は、手に包丁を持って私を睨んでいたの」

男は私が振り返ったことに気が付くと、ニヤニヤ笑いながら私に近付いてきた。

男は私と別れたあと、私の友人と付き合おうとしていた。
でも、その友人は、私を捨てたその男に心を許そうとはしなかったらしい。

それでも男はしつこく私の友人に告白した。
何回目かの告白が失敗したときに、男の思考が歪み、それは責任を私に押し付ける思考になった。

「『お前がいるから、俺はあいつと一緒にいられないんだ』って。笑っちゃうわ。
 それで私を殺そうとまでするんだもん。馬鹿じゃないのと思った。彼は狂ってしまったんだと思った。
 …そうは考えても、やっぱり怖かった。私はその場から動けなくなってしまった」

私はどこまでも普通の女だった。自分の命が危険とわかっていても、刃物を持った男から逃げる算段が思いつかなかったし、怖くて足が震えてしまっていた。


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