“――総悟はな、”

 ふと、眠りの底に沈んでいた意識が浮上する。夢の中に、以前土方さんが言っていた言葉が出てきた所為だ。しかしその先を思い出すのは止めた。思い出そうとして脳が活性化したら、きっと眠れなくなる。


――コンコン

 ふと寝返りを打った瞬間、木材に何かを打ち付けるような軽い音が聞こえる。先ほどの音は屯所の廊下を叩いた音だと確信があったため、目線は自然と目が覚めた原因であろう方向へ動いていく。月明かりで淡く照らし出された障子がまるで提灯のようにぼんやりと白く光っていた。そしてその白に映るしゃがんだ体制の黒い人影がゆっくり動いた。

「…起きてやす?」
「…寝てたけど、今ので起こされちゃったわよ」
「……すいやせん」
「いや、いいよ。…入りなよ」

 そう言うと片方の障子が動き、その代わりに直の月明かりと共に茶色の髪をした青年が現れる。髪の毛の先が光に照らされて、透き通った色をしていたのがとてもきれいだ。

「珍しいね、こんな時間に」

 「どうしたの」とは訊かなかった。今までこんな時間に総悟が訪ねてくることはなかったし、それを今実行しているということは、必ず何かしらの理由はあるのだろう。しかし、敢えてこちらから訊くのは何となく躊躇われた。これから総悟が理由を話せば全く問題ないし、話さなかったとしたらそれは言いたくない事柄なのだから、敢えて私が訊くのは邪険だと思ったのだ。
 しかし、もしそれは私が総悟の答えを何となく察していたからなのでは、と問われれば、私はすぐに首を横に振ることは出来ない。
 そして、総悟は少しだけ口元を緩めて言った。

「ちょっくら付き合って欲しいんでさァ」







「月、明るいね」

 総悟に言われて中庭に来てみれば、月は丁度真上で皓々としていた。どうやら今夜は満月らしい。そのお陰で中庭の闇は薄く、月の白い光に紺と濃紺の色彩がとても美しかった。総悟は私の数歩後ろで微笑んでいる。

「付き合って欲しいって、夜の散歩のこと?」
「ええ。まァ」
「ふーん?」
「でもそれだけじゃないんでさァ」
「え…?」

 ふと総悟の意味深な言葉につられて振り向いた。途端、一瞬自分の動作が不自然に止まってしまったのが嫌でも判った。先程と変わらず私の数歩後ろで微笑んでいる総悟。しかし明らかに異なる事がある。その、白い手が握っているそれは。

「……総悟…」
「俺と手合わせしてくれやせんかねェ」

 総悟の白い手に握られているのは2本の竹刀。総悟がそれを握る事が何を示すのか、私は痛いくらい知っている。

「え…そんな、だめだよ…あ、ほら、夜だから足元見えにくいし」
「夜目がきかねェなんて見え透いた言い訳、有能な副長補佐にゃ相応しくありませんぜ」
「いや、…だって小石に躓いたりしたら危ないし、」
「そうならないために月の明るい今夜にしたんですぜ?」
「うっ…」

 何か他に良い言い訳はないかと思考を巡らしている間に総悟はゆっくりと私に近付いてくる。

「みんな俺と手合わせするの嫌がっちまって、もう、あんたしか頼める人いないんでさァ」
「…」
「別に足腰立てなくしようって訳じゃねェのになァ…」

 私は動けなかった。否、動こうとすれば動けた。やろうと思えば、苦笑する総悟の白い手が私の右手に竹刀を握らせるのを拒むことだって出来た。
 しかしそう考える間も無く、私の右手はすでに竹刀を握っていた。

「――お願いしやす」

 なまじ総悟の気持ちが判ってしまっている所為に、彼のその眼が私に竹刀を拒むことを余計に許さなかった。

「手ェ抜くなんてこと、しねェで下せェね」

 総悟のその言葉に深く息を吐いた。真夜中に寝間着のまま中庭で竹刀を持った男女の姿を想像すると何となく滑稽だった。もちろん、それは客観的視点からの情景に他ならないからで、当の私たちは、笑ってなどいられないのだが。

「うん…」

 目の前にいる竹刀を構えた総悟は綺麗だった。それでいて、白い寝間着が月明かりでぼんやりとしていて、ものすごく儚げだった。
 なんてことない、ただの仲間と稽古だ。ただ場所と時間帯が違うだけ。そう自分に言い聞かせなければならないほど、私は緊張していた。らしくもなく、微かに手が震えていた。少しだけ鼻の奥が痛い。

「いきやすぜ」

 その声と同時に私たちは動き出した。互いに少しずつ距離を見て間合いをとる。ドクドクと激しく脈打つ音が聞こえる。手首に関してはまるで丸ごと心臓に成り変わってしまったようだ。じりじりと詰まる間合いの向こうに総悟の眼が見えた。出来れば反らしてしまいたかったが、今、視線を反らせば確実に一本とられてしまう。私が手を抜けば、総悟がそれに気付くのは明らかだった。そして竹刀を握り直した後、私は踏み込んだ。ドッと竹刀が総悟の籠手に当たる音がした。情けなくも、緊張のせいで息は上がっていた。そう思うのと同時に次の間に来るであろう、真撰組随一を謳われる腕の攻撃に備え素早く身を躱す。
 しかしその打撃が私を打ちに来ることは無かった。私を目掛けてくるはずだったその竹刀の先はだらりとした右腕に習うように地面に垂れ、当の総悟は攻撃をしてくるどころか、ただ己の左腕を見つめていた。

「う…、」

 次の瞬間、けほっという渇いた軽い音とともに視界に入る鮮やかな赤。左手と白い寝間着はわずか一瞬にして赤く染まっていた。

「総悟っ!!」

 その赤が視界に入った瞬間から私の全ては総悟でいっぱいだった。泣きそうになる自分を懸命に叱咤した。泣いていいのは私ではないことは明白。一心不乱に総悟の元へ駆け寄ると、それと同時に総悟は力無くずるずるとしゃがみ込む。

「総悟っ総悟、大丈夫!?しっかり…、」
「…な、で……かり…」

 総悟の微かな声はとても細いもので、まるで息の下に言葉が消えてしまいそうだった。しかしその言葉は妙にはっきりと私の鼓膜を振るわせた。

“なんで、俺ばっかり”

 私にはどうすることも出来なかった。「ごめんね」と言ったところで所詮それは自己満足で、総悟の辛さから逃げようとしているのに他ならない。ただ謝ったところで総悟が患者で私は健常者という現状は変わらないのだ。そんな事をされたら煩わしいという事くらい私にも判る。だからと言って「大丈夫だよ、きっと治るよ」などと綺麗事を並べる程私は愚かでもない。
 結局私は総悟にかける言葉を見つけれないまま、何も言わずにただ彼を抱き締めている事しか出来ないのだ。

「総悟、総悟っ…」

 こんな状態の総悟に向かって手合わせをしてくれる人間はもういない。みんな総悟が安静に過ごし、少しでも同じ時間を過ごせるようにと思っての配慮なのだ。もちろん私だって、総悟には例え1秒であっても長く生きていてほしいと思っている事は言うまでもない。
 しかし、あからさまな病人扱いをされ、自らの生きる意義を取り上げられた総悟が――みんなの好意と知りつつも――それを望んでいないという事も私は知っていた。それ故、私の右手は総悟からの竹刀を受け取ったのだろう。

“――総悟はな、”

 先程夢に出た土方さんが脳裏を支配する。その苦い表情から発せられた言葉が頭の中で鳴り響く。

“あいつはもう、ながくはないらしい”

 総悟は赤く染まったその左手をぼんやりと見つめていた。私はその隣で何も出来ず、ただ目の前が滲みそうになるのを必死で堪えようとする。その姿のなんと情けないことか。
 現実を一番受け入れ難いのは総悟だ。私だって、この受け入れ難い現状を甘受することが出来ないでいる。しかしその赤く染まった左手を目の当たりにしながらも、まだ悪足掻きをする私たちを、人は愚かだと笑うのだろうか。

いつだって世界切る

20100711