それは、耳をつんざく下卑た笑い。脳裏を掠める、苦い記憶。 「まじザマァってかんじだよねー」 「今回のは流石のあいつもキツいんじゃないー?」 「でもさー、やっぱリアクション薄かったよねー」 「だから!ゴミ箱にジャージ入れられたらフツー泣くよねー」 「あたしだったらソッコー泣くわー」 「えーなになに?何の話ー?」 「あっ、佐助ぇ!」 「佐助くん!」 「みんなお揃いでもうおかえりー?」 「うんっ、あ、よかったら佐助くんも一緒に帰らない?気になってるクレープ屋さんがあるのっ」 「あーごめん俺様まだ用事あるんだよねー」 「そっかぁ…。じゃあまた今度一緒に帰ろっ。おいしいクレープ屋さんらしいからっ」 「そーなんだ。じゃあ今度行こうか」 「わーいっ、約束だよぉ?」 「うん。じゃあ俺様はここで」 「じゃーねーばいばい」 「また明日ねー佐助くん」 一瞬にして下卑た笑いを素早く猫の皮で隠す。しかし、その割にそれは中途半端でひどく醜い。見え透いていて、胸くそ悪い。 「っつーかあんな汚ねーとこにジャージ突っ込んだこっちの身にもなれっての」 「あははっそれ言えてるー」 「なのにずっとすました顔しやがって。存在自体がむかつくんだけど」 「あいつまじで本気で泣かせたいよねー」 「“ごめんなさい許して”って言わせたーい」 「“お前の席無ぇから”ってやるー?」 「それライフじゃーん」 教室の前のドアから溢れ出たキャハハハと廊下に響く笑い声達は、教室から遠ざかるにつれて小さくなっていくにも関わらず、やけに鼓膜にこびり付く。そんな後ろ姿を見届けて俺は教室のドアを開けた。今し方彼女たちが出て行った方ではない、ロッカーに近い後ろのドアだ。 そして大抵の人間ならドアの開く音に反応して振り向いてしまうにも関わらず、黒板の脇で中腰になっている彼女はその音に見向きもしなかった。 「手伝おうか?」 そう言うと一瞬ピタリと動きを止めて、彼女はゆっくりと振り向いた。右腕のブラウスの袖は汚れないように捲られている。チョークの粉だと思われるそれが、足元に置かれた学校指定ジャージのハーフパンツ、制服のスカートと紺色のソックスに張り付いていた。 なんとも言えないその姿に昔の自分の断片を見たような気がして、どうもやるせない。 「何を?」 俺が何を手伝おうかと言ったのか彼女が一番判っているだろうに、敢えて彼女はそれを俺に問うたのだと思った。それはきっと、今までのやりとりを見ていた人間なら誰でもそう思うだろう。しかし言葉を発した彼女は、敢えて判らないふりをして惨めな自分を隠そうとしたり、同情を買うような口調でもなかった。ただの日常会話のような、まるで今晩の夕飯を尋ねるかのような、ひどくさっぱりとした言い方だった。 「ジャージ探すの、手伝おうか」 今度はぼやかす事はしなかったが、“ゴミ箱から”とは言わなかった。“ゴミ箱”という言葉が彼女を傷付けるかどうかは判らない。しかしもしそれを口にしたら、何だが自分が惨めになりそうだった。 「いいよ。汚いけど狭いゴミ箱の中だし。すぐ見つかるよ」 “ゴミ箱”という言葉は、いとも簡単に彼女の口から飛び出した。またしても、あまりにさっぱりとした返答。これがいじめを受けている人間の返答なのだろうか。 そして彼女は再び中腰になってゴミ箱の中に右手を入れた。施錠された教室に鼻をつく臭いが僅かに漂い始める。チョークの粉、誰かの昼食だったミートスパゲッティの容器、中身が少し残ったままのリプトンのパック。掃き掃除で集められた1日分の教室のゴミだ。彼女は今、自分のジャージを探そうと、その中に手を入れて探している。 「いつもこうなの?」 申し出を断られたので手伝いはしない。その代わりに彼女の斜め後ろにある机の椅子をひいて横座りをした。 彼女の右手は相変わらずゴミ箱の中だ。 「さすがにゴミ箱にジャージ突っ込まれたのは初めて」 「“は”って……」 「上靴隠されたり大声で悪口言われたりは普通だよ。前はクラスの女子にハブりメール回ってたらしいし」 「…そーなんだ」 「まぁ、ジャージは洗濯すればいいし。破かれなかっただけマシだよ」 「…そう…」 「もう、あの子らのやる事幼稚すぎてリアクションする気にもならないんだよね」 ふと先ほどの集団が彼女のリアクションが薄いと言っていたのを思い出す。やはりと言うか、いじめる側はいじめられる側のリアクションを楽しんでいる気配がある。しかし彼女はすでにそれを見越しているのだから、集団の人間はなんとも残念だと思った。 「ま、あたしの場合小・中学校もこういう事あったら、免疫のせいって言った方が正しいかもしれないけど。流石にもう慣れた」 「なんで…そんな事…」 「さぁ?昔はいじめられる原因考えた事もあったけど、無駄だからやめたし」 「…」 「仮にあの子らに聞けたとしても期待する答えは返ってこないよ。存在自体がむかつくって言うだけだから」 ――存在自体がむかつくんだよ 先ほどの集団から聞こえたその一言が脳内で激しくリフレインする。 どうして彼女はいじめられるのだろうか。確かに髪は黒くはないが、ダークブラウンと言った落ち着いた色合だ。何かいじめの原因になるようなコンプレックスが顔にある訳でもないし、だからと言って妬まれる程の美人でもない。成績も普通。英語は出来る方。脚だって典型的な細さ。俺の知る限り、性格は女子にしては少しサバサバしているけれども。そんな普通の女の子の彼女にいじめられるような理由なんて、あるはずがないのに。 「いじめるのに理由はないとか言うけど嘘。絶対理由はあるんだよ。ただ第三者から見られたときに“そんな事か”って、自分が小さい人間だって思われるのが嫌だから魔法の言葉に頼るんだよ。存在自体がむかつく、ってね」 そう言う彼女の口調に嫌味っぽさは微塵もない。淡々と的確に事実を口にしている、そんな感じだ。 そんな事を考えているうちに彼女はジャージを全て救出したらしい。ゴミ箱の横にはお世辞にもきれいと言えないジャージが汚れが床に付かないよう、汚れを上にして畳まれていた。 「猿飛はさー、優しいよね」 「えっ、」 「今もさ、自分がとばっちりでいじめられんのは嫌だけど、見過ごすのも出来なかったからこうして誰も来ない時間に来てくれたんでしょ」 図星だった。まさに彼女に言う通り。彼女に関わる事で今まで築き上げてきた“人気者の佐助くん”から“いじめられっ子の佐助くん”へ陥落する事はどうしても避けたい。しかし彼女を前にして見て見ぬ振りも出来なかった。中途半端なのは自分の方なのかもしれない。 「珍しいよ。普通の優しい人間でもゴミ箱漁るの手伝うなんて言わないし、ましてこんな空間で一緒にいてくれたりしないよ」 「……そうかな」 「ま、それ以前に今のあたしが昔の自分と被って放っておけなかったってのは、あたしにも覚えがあるから」 彼女のさっぱりとした口調から紡ぎ出されたそれに、喉から胃にかけてひどく冷たい何かが素早く落ちていく。冷汗三斗とは正にこの事。“人気者の佐助くん”の土台がガラガラと音を立てて崩れ落ちる。全身から冷や汗が噴き出すと言っても過言ではない。心臓がドクドクと脈打っている。奥歯が僅かにカチカチと鳴った。脳にリフレインするのは彼女の言う魔法の言葉――。 「あっ、…あのっ…!」 「大丈夫。猿飛がいじめられてたなんて言わないよ。昔の話なんでしょ」 「………、…」 柔らかい表情で彼女は言う。やはり、同じ境遇人間には判ってしまうらしい。息が上がり呼吸が浅い。ひどく焦った自分が惨めで情けない。 「いじめられた子ってさ、そのままいじめられるかいじめる側になるか優しくなるかじゃん」 そうして彼女はふと窓の外に視線をずらした。その横顔は、ジャージをゴミ箱に捨てられても平然としている彼女からは想像も出来ない程哀しい顔だった。 「きっとあの子たちの中にも昔嫌な思いした子がいるんだろうなぁ…」 彼女の言葉は無情にも悲しい現実を言い当てていた。その言葉がやけに重たく鼓膜を揺らしたのがいけなかったのか。彼女から紡がれた言葉にどうしようもないやるせなさを感じて、俺は泣きそうになった。 哀れな結末を笑わないでね 20100804 |