夏の夕暮れの匂いがした。
 藍色に染まった空間にシャワシャワと虫の鳴く声が響く。夏の蒸し暑さの間を縫うようにぼんやりとした橙色がぽつぽつと灯っていた。それは道端に沿って、と言うほど揃えられたものではなく、かと言って規則正しくと言うほど精密に並んでもいない。ただ灯りの大きさから見るに、随分と遠くまでそれは続いているようだった。
 ゆらゆらと光る灯籠の灯りが、まるで己を招くように揺れていた。時折、穏やかな風が灯りの形を変容させている。まるで夢でも見ているような、そんな情景。

「坊。坊、や」

 俺の前で手招きをする若い女。艶やかな黒い髪を結い、桔梗柄の紺色の浴衣を着ていた。肌は白く、赤い紅がよく映えている。笑った顔は大層美しかった。
 しかし、その外見とは裏腹にその口調は妙に老巧したもので、その隔たりが印象的だった。

「こちらにおいで」

 何の躊躇いもなく、誘われるままに女の後を追う。するとさらさらと水の流れる音が聞こえてくる。先程までせせらぎなど全く聞こえなかったのに、と思っている間に女は川岸にしゃがみ込み、再び手招きをした。いつの間にかぼんやりとした灯りの灯籠が女の手に乗っている。

「おいで、坊」
「…某は弁丸と申しまする」
「おや、これは悪かった。それじゃあ、弁丸。これを見たことがあるかい」
「…これは?」
「精霊流しに使う」
「しょうりょ…?」
「あぁ、この辺りではあまり馴染みがないのかもしれないな」

 そう言うと女は持っていたそれをそっと水面に浮かべた。ゆらゆらと灯籠は流れていく。

「こうして故人の魂を乗せて弔う儀式の事を言う。初盆のときは船を流したりもするのだよ」
「そうなのですか…」

 正直“初盆”とは何を指すものか判らなかったが、それを訊き返しはしなかった。この雰囲気の中ではなんだか愚かな質問のような気がして、ひどく無粋のような気がした。
 灯籠はゆらゆらと川下に向かって流れていく。それを見ながら女はぽつりと呟いた。

「…こんな事をしても、己の罪が流されることなどないのだがな」
「…?」
「生きて償うことが最も辛い事だと、それが己を戒める」
「…それは…どういう意味にござりますか?」
「お主も、武家の子ならばいずれ知るだろう」
「え…?」
「今はまだ、主は知らなくてよろしい」
「…?」

 そして女は美しい顔を綻ばせてにこりと笑った。

「ただ、それを解してしまった頃には、既に手遅れであろうからな」

 そして女の横顔は、美しいにも関わらず、何故か泣き出してしまいそうなくらい哀しいものだった。







 瞼の裏には燃え盛る炎と煙。鼻腔を刺激する鉄の臭い。耳をつんざく交わう刃の音が耳に痛い。人の断末魔や助けてくれと叫ぶ声。僅かであるが時折聞こえる子どもの泣き声。その土煙の中にはためく赤い旗の模様を、俺は知っていた。そしてその旗の下に何万という屍があるのかということも。
 あぁ。俺は――。







――チャプン

「何やってんのー旦那。川に灯籠なんか浮かべちゃって」
「…佐助」
「あー…これ灯籠流し?いや、精霊流しってやつだっけ?なんかの文献に載ってたような…」
「そうか」
「なんでまた、こんなこと?」
「…俺はもう手遅れらしい」
「え?」
「いや、…故人の冥福を祈っていた。戦場では、志半ばで三途を渡った者も多かろう」
「……。せめてもの供養ってわけね」
「あぁ」
「全く旦那らしいよ」

 夏草の匂いが鼻を掠め、蒸し暑さの残る夏の夕暮れ。足元を流れる川の上を橙色の灯りがゆっくりと揺れている。そのぼんやりとした儚い灯りは川下へ進むのと同時にだんだんと小さくなっていく。
 それを目で追っていた佐助がぽつりと呟いた。

「……兵どもが夢の跡、ってね」







20100818