「喜べよ。お前が俺の独身時代、最後に二人きりで呑んだ女だぜ」

 「私のこと女として見たこともないくせに」という自虐を、とっくの昔に押し込んだ慕情の欠片と共に喉に流し込む。他人の機微には人一倍敏感で鋭いくせに、私の気持ちには全く気付いていないのだから、本当におかしな人だと思う。
 徳利から注がれる透明な液体は、とくとくと耳辺りの良い軽快な音を立てふわふわとした雰囲気を一層かきたてる。個室ではなく敢えて勘定台の隣のカウンター席というのも、開放感があって私はすきだ。土方さんによく連れてきてもらうこの店は程よい賑わいと灯籠の灯りを彷彿させるあたたかな橙色にあふれ、酒の席という雰囲気も相俟ってとても心地良い。

「てか、今更ですけどいいんですか?部下とはいえ、結婚前に奥様以外の女と二人っきりで呑んだりして」
「あいつにはちゃんとお前と呑みに行くって伝えてあっからな。最後の独身記念にせいぜい楽しんでこいってよ」

 どうしてこの人なんだろう。どうして、この人じゃなきゃだめなんだろう。さっきの台詞だってこの人以外に言われたもんなら気持ち悪過ぎてセクハラで訴えるところだ。独身最後に二人きりで酒飲んだ女認定とか、ハッキリ言ってキモすぎる。それなのに、不快さよりも悲しさが先立つ自分が情けない。

「――奥様、良い人ですよね、ほんと」

 絞り出した台詞の言葉尻が震えたような気がしてハッとしたが、酔っ払いには気づかなかったらしい。わざわざ私のお猪口に酒を注いでくれる土方さんはいつものストイックな表情とそう変わらないのに、そこはかとなく浮かれた雰囲気を纏っているものだから少しおかしかった。あの総悟でさえ毒気を抜かれかねないほど、しあわせそうな顔をした土方さんがそこにいる。
 ゆっくりと酒を煽る土方さんはいつもより饒舌だ。もともと、私も土方さんも酒が強いわけではない。特に土方さんは普段の接待などの場所では呑まない風を装ってはいるが、不調法という言葉がぴったりなほど、実際は嗜む程度にしか呑めない。けれど今夜はあくまでも信頼できる部下の私と二人、更に私も酒があまり強くないことを知っているためか、気兼ねなく自分のペースで存分に酒を味わうことが出来る。
 だからではないだろうか。今夜の土方さんは程よくアルコールがまわり、とても気持ちよさそうに見えるのは。





「補佐、こちらです!」

 雨が、降っていた。もう梅雨は終わっていたとばかり思っていたのに。部下の後を追い、走る度に併せて跳ね上がる泥水の飛沫。前髪を滴る雨水。纏わりつく湿気と妙な冷気を孕んだ空気が、まるで食い散らかした残飯のように辺りに散り散りになってこびり付いているみたいだ。独特な重さと倦怠感を感じずに入られない。
 梅雨の雨は大嫌いだ。





「まさか、この俺がなぁ」

 私が枝豆をちまちまとつついていた際に土方さんがぽつりと呟いた。それは普段だったら聞き逃してしまいそうな(そもそも普段の土方さんだったらこんな意味深な発言はしない)、まるでまだ言葉になりきれていないような音声の欠片のような言葉だったが、それが何を指しているのか既知している私は小鉢に残った実の小さい枝豆を頬張りながら仕方なく返答を行う。

「まさか、あの女っ気皆無な鬼の副長がねぇ」
「明日命があるかも分からねェ身なのに、本当に何やってんだかなァ」
「なに不謹慎なこと言ってんですか。それに顔ニヤけてますからね」

 桜が咲き始める春の候、土方さんは結婚する。
 お相手はお上の遠い親戚にあたるお人で、率直に言ってしまえば正真正銘の政略結婚というやつだ。真選組では周知のことだが、土方さんには全く女っ気がない。接待でもこれでもかというほど素っ気なく、吉原にだって通っている素振りは微塵もない。最早総悟にホモ疑惑までかけられたことのある土方さんなので、今回の話を持ちかけられた時は当然断固拒否の姿勢を貫いた。明日命があるかも分からねェ身なのに、ましてやそんないいとこのお嬢さんをこんな自分が幸せにできるはずがない、と。





 重い鉛色の雲はいよいよ厚みを増して、既に夜明けの時刻だというのに辺りは黎明の気配さえ感じられず、疎らな街灯だけが弱々しく灯っている。道端の水溜まりには激さを増す雨粒だけが写り込んでいる。最早雨具は本来の役目を果たしていなかった。皮膚に当たっては弾ける雨粒がじんわりと痛い。川の水嵩が普段と変わらないのが不思議なくらいだ。

「局長!」
「あぁ…、着いたか」

 そう言って振り向いた近藤さんの顔も、雨で濡れていた。





「そんなに締まりのない顔してるか?」
「最早超プレミアが付くくらいデレた顔してますよ。ふふっ、総悟が見たら気持ち悪がるかも」
「まじでか」

 しっかし意外や意外、お偉いさんのお嬢さんと土方さんの政略結婚は、これがまた政略結婚とは程遠い、なんとも仲睦まじい、誰もが羨む夫婦像にまで発展したのである。もちろん土方さんに至っては直属の上司であり、信頼し尊敬すべき対象で、それに見合うだけの力量を兼ね備えた、正に武士の鑑と形容するに相応しいお人だ。それに対し、土方さんの奥方になるお方は常識知らずの箱入り娘かと思いきや、これがまたひどく可愛らしくまた素敵なお方でいらして、土方さんをからかいがてら総悟と共にいちゃもんの一つでも付けてみようかと試みてみたのだけれど、早々に不可能だという事を悟ったので計画はほぼ中止に終わったほどだ。
 そんな真選組幹部とお上の血を引くお嬢さんの婚姻。体裁・風采ともに誰もが羨む男女の婚姻。そんなお二人は実にしあわせそうだった。





「奴らは過激派の攘夷志士の一派だと思われます。近頃は目立った攘夷活動は皆無でしたが、水面下で何か大掛かりな計画を立てていたようで…。それを嗅ぎ付けた副長が、個人で極秘裏に捜査をしていたようです…。そして……」
「それに感づいた奴らに奇襲をかけられた、と」
「…その可能性が極めて高く、現在調査中です」

 近藤さんと監察のやりとりが雨音に混ざって聞こえてくる。
 遺体は、まるで打ち上げられた魚のように河原に棄てられていた。その土方さんの周りには攘夷志士の死体が七。実際はもっと多かったに違いない。真選組・鬼の副長と恐れられる男だ。少なく見ても十はいたに違いない。それをたった一人で七人もの攘夷志士を斬り捨てた。
 流石は真選組・鬼の副長と謳われたお方。





「なぁ」
「はい?」
「ところでお前は、いい奴とかいねーのかよ」

 お猪口をつまみながらほろ酔いで話題を振る土方さんは部下を気遣う少し世話焼きな上司の顔をしていて、それでもってその言葉にはからかいだとか、ましてやのろけなんか一切感じさせない私への優しい気遣いの言葉だったので、私は滲み始める視界と歪みそうになる口元を隠すためにグラスに残っていたアルコールを一気に飲み干した。グラスには融けて角の丸くなった氷と薄いブルーの液体が残っている。

「生憎仕事が忙しくてですね。コイバナのコの字も程遠いです」
「そうか…、そうだよな。悪ィな…」
「いやいや、なんで土方さんが謝ってんですか」
「お前にはいつも仕事をさせてばっかりだからなぁ。悪ィとは思ってんだ。だからいつも、」

 視線の先にある土方さんの顔を見て、こんな顔はきっと金輪際見ることができないものだと思った。私の隣で話をするこの人は、鬼の副長からは程遠い穏やかな目をしていて、口元はゆるく綻んでいて。

「お前は感謝してんだ」

 それでいて、ひどくしあわせそうだった。その顔は奥様に向けられるものとそう違わないのに。私にだってこの人にこんなにやさしい顔をさせることが出来るのに。
 それでも、この先この人に寄り添って生きるのは私じゃない。きっと私はずっとこの人の背中を追うことしか出来ないんだろう。

「お前は俺の自慢の部下だ」

 大きくて無骨なてのひらがやさしく私の頭を撫でる。つくづく私は心の底からこの人の補佐になれてしあわせだと思う。真選組を思う気持ちは誰よりも強く厳しく、一途でストイックなくせにひどく仲間思い。謂わば、武士の鑑。随分と前に、芽生えるより先に摘み取った慕情の念を除いても、上司として、またひとりの人として敬い慕う気持ちはこれっぽちも変わらない。これから私は一生をかけてこの人に忠誠を誓う。

「うれしいです、すごく」

 要するに、私は土方さんがだいすきなのだ。きっと今の私はとてもきれいに笑えている。だいすきな、だいすきな土方さん。
 世界で、一番にしあわせになってほしい。





 血みどろで冷たくなって動かなくなった土方さんを見たとき、何よりも先に湧き出たのは恐怖や悲しみ、怒りでもなく、尊敬の念だった。最期まで武士として生きた敬愛すべき我らが副長。
 しかし、私の中にもまだ女としての感情が機能しているようで、次に沸き上がってきたのは数ヶ月前に見たばかりの華奢な体に白無垢を纏った土方さんの奥様の姿だった。
 奥様に対して、ざまぁ見ろなんて思わない。だって、今更みっともなく、そして無様に嫉妬したところで、土方さんがいなければ、何の意味も無い。

「……土方さんのバカ。素敵な奥さんを残してなに勝手に死んでんですか」

 雨に濡れた土方さんからの返事はない。





「結婚おめでとーございます。どーぞしあわせになってください」

 大半の本気と、若干の照れくささと本当に僅かな嫉妬を含んだ結婚祝いの常套句を、ネタに聞こえるように出来るだけ棒読みになるように発してみた。
 そういえば、私は土方さんに世界で一番しあわせになってほしいと思っていたけど、よくよく考えてみれば、本当に一番しあわせなのは、そんな土方さんと結婚するあのお方なのかもしれない。あーあ、いいなぁ。羨ましいな、ほんと。

「ばーか。なに言ってんだ」

 その時、やっぱり土方さんは気持ちよく酔っていたのだと思う。土方さんが私の頭を優しくを撫でる。私の僅かな気持ちなど、お構いなしに。

「俺はもう、充分しあわせだよ」




 そう言って笑った土方さんの顔が、忘れられない。


gosh, I bit cry somehow.


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title:toy
20120309