「どうしても行くの?」
「どうしても何も、俺様は旦那直属の忍びだからねぇ」

 そう言ってにっこりと笑う佐助。その姿はいつもの飄々とした態度と何ら変わらない。それがこれから戦場に向かう人間の発するものとは到底思えないくらいさっぱりした物言いであったので、私はなんと声をかけたらいいのかますます分らなくなった。実際に私は戦に行ったことがなく籠城の経験のないので、戦場の血生臭さだとか四面楚歌の恐怖やひもじさなども分らない。しかし、戦というものが、少し引いただけで解けてしまう紐のように締りのない精神で生き残れるほど甘いものではない事くらい知っている。あの暑苦しい兄さまだって戦の前となればいつもの猛進的な昂りも厳かな凄味に変わるというのに。
 なのにこの忍びに限っては、戦前の昂りも勢いもましてや恐怖や苦悩さえも、いかにも貼り付けたように飄々と笑うその表情をのぞいては、一切の感情の気配さえも微塵にも滲みさせないのだから、余計に私は困惑してしまう。

「旦那が行くと決めたからには地の果てまでだってお供しますよってね。関ヶ原の地なんて朝飯前さ」

 私が思うに、佐助は兄さまがだいすきなのだ。だいすきと言う言葉の中には、慕情も忠義も憧憬も愛情も、他たくさんの人間が抱けるあたたかな感情の全てが詰め込まれている。佐助は、兄さまに対して親がわが子を思うような、友情のような、男女の慕情のような、とにかくあたたかでやさしい気持ちを抱いていると私は感じている。

「だから姫さんは安心して待ってて欲しいんだよ」

 そうして笑顔を崩さぬまま、佐助はゆっくりと私の頭を撫でる。いつもはいい加減に子ども扱いは止してほしいと思うこの動作も、今は甘んじて受け入れる他ない。よく考えれば兄さまにでさえも時折子ども扱いをする佐助なのだから、そんな佐助から見た私など、まだまだ赤子に等しい存在なのかもしれない。

「俺、姫さんのことだいすきだからさ」

 以前、まだ私が髪上げもままならぬ頃、まだあどけなさの残る兄さまが意図せず零してしまった言葉がある。 兄さまはひどくお疲れであったのか、私が側にいることを忘れ、うっかり口を滑らせてしまったのだろう。

―― 佐助はどうあっても切り離せぬ一物をその肢体の中に抱えている

 と、至極厳かな口調で一人言葉のように零したことがあった。故に、その直後にはっとした様子で、普段の兄さまとは似ても似つかぬ渋いお顔で「先ほどのことは忘れてくれ」と暗に他言しないようにと釘を刺されたことがあった。その後にも先にも、佐助の抱え込んでいる一物について、それ以上を語る事はなかった。兄さまの様子からして深追いしてはならぬと私は直感的に感じていたため、その事について特に詮索をするつもりは毛頭ない。
 しかし、今になって思うのだ。あの時兄さまが話していた佐助の一物とは、佐助自身の闇ではないかと。私は真田の家の姫に生まれたために城の外にいる佐助を知らない。けれど、どんな仕事をこなし、そのような役目を任ぜられているのかは、時折血の臭いを隠し切れていない佐助を見ていれば薄々見当がつく。いくら優秀な忍びと言えども、人間のものである佐助の心に傷がつかないはずがない。故に思うのだ。否応にもそのしなやかで強靭な肢体の中に闇を抱えざるを得ない佐助は、これまで押し殺してきた自身の持つ人の心の部分が光りや炎など明るく輝かしいものに触れることによって、より一層その魅力に惹かれているのではないのだろうかと。そしてその光りの象徴が、兄さまなのではないかと。

「早く帰ってきてね」
「…。行ってくるね」

 そして、私の言葉に適当な返事もしないまま、佐助は背を向けて行ってしまった。その後に、彼の顔がいつもの飄々とした笑顔ではなく、切なそうに笑っていたことなど私が知るはずもない。
 それが、佐助との最後になった。



 結局、佐助の亡骸は見つからなかった。聞くところによると、兄さまも佐助を見つけるために随分駆け回られたようで、その姿は言葉の通り一心不乱。まるで鬼や羅刹のようで、最早狂っているようにしか見えなかったという。血の海と化した何百もの屍の中を駆けずり回り、掘り起こし、何度も何度も自身の忍びの名を呼ぶ姿はそれはもうおぞましいものだったと。しかし、流石は忍びと言うべきか、数多の屍を掻き分け何度その名を呼ぼうともそれらしい甲冑の欠片や指の一本でさえ見当たらなかったという。
 生きていれば、必ず兄さまの元に馳せ参ずる忠義をその鋭利な鎧の奥に持ち合わせていた兄さまの忍びだ。それが、あの兄さまがそれだけ関ヶ原の地を駆け回って探しても見つからなかった。そんな忍びが未だ姿を見せずにいるのだから、そのままどこかで生きているなどとは、きっと誰も思うまい。

「空蝉のような姿を見つけるよりかは、行方知れずの方がよいのかもしれぬ」

 と、小さく呟いた兄さまのお顔は、佐助は死んだのだと己に言い聞かせているようで、憔悴した横顔はひどくかなしそうであった。







 今思うと、当時の私は傲っていたのだと思う。佐助がその身体に抱えている一物は闇だとばかり思っていたが、真意の程はやはり佐助自身にしか分からないものである。私は、佐助は兄さまを慕っているとばかり思っていたが、もしかしたら、元々佐助は兄さまに尽くす忠義など持ち合わせてなどおらず、戦が始まる前からあの混乱に乗じて姿を晦まそうと考えていたのかもしれない。もしかしたら関ヶ原の動乱を機に自らの主を変えたのかもしれない。いや、そもそも忍びという己に嫌気がさし、天下分け目の戦を舞台にその道と決別し、これまでのしがらみから解放され、自由に生きているのかもしれない――。
 とにかく、佐助が消えた理由を考えだしたら埒があかない。そしていくら私が憶測を重ねたところで、その答えは佐助にしか分からない。
 それにもし、あの関ヶ原の戦が佐助に心変わりを齎したと聞いても、それが理由だとしたのならあまり驚く者は居ないのかもしれない。なんと言っても、あの戦は、参戦していない私までもが疑いたくなるような結末であったから。

「ここに居ったのか」
「兄さま」

 佐助が消えて何度目かの夏。あの頃と比べ、兄さまは精悍で厳かな雰囲気を纏う殿方に、かくいう私もあれよあれよと言う間に、嫁入りの話をもらうような年頃になった。しかし、未だ私は真田の家で過ごしている。あれから、兄さまは佐助は死んだのだと言い聞かせ、拭いきれぬ望みを消そうとしていたが、やはり私には、あの飄々とした忍びがあの戦場で事切れたとはどうしても信じることが出来なかった。佐助というあの忍びは相変わらずあの飄々とした物腰を携えて、私たちが知れぬ場所で自由に生きているのではないかと。
 ある頃から兄さまは佐助が消えた頃に川に一つの灯籠を流すようになった。兄さまから、佐助への贐であろう。そんな兄さまを後目に、自分でも愚かだと呆れるが、こうして真田の家に居れば、ある時、何食わぬ顔をした佐助がひょっこりとここへ帰ってくるのではないかと思っているのだ。随分と未練がましい話だが、実は佐助はまだ生きているのだというあの日に抱いた希望を未だ棄てきれずにいる。

「政宗殿から文が届いておる。色良い返事を、との事だ」
「まあまあ。流石は兄さまの好敵手。先日、何度もお断り申し上げるのも心苦しいので穏便にとお返事を差し上げたばかりですのに。まったく、これではもう龍というより蛇のようですわねぇ。素晴らしい執念と根性を持ち合わせておいですわ」
「お前も茶化した返答をしてくれるな。このままではいずれ行き遅れの冗談も笑えなくなる」
「政宗さまもこんな荒んだ女を嫁にだなんて、それが特異な趣向だといつになったらお気づきになられるのやら」
「いい加減、お前も身を固めたらどうだ。政宗殿は真、良い殿方であるぞ」
「そうですわね。考えておきます」
「いつもそればかりだな」

 溜め息をつき諦めの色を滲ませた兄さまの背中を見送りながら考える。
 何故自分がここまで佐助の生死に拘泥しているのかはそれなりに検討はついてはいる。家中では幼い私があの忍びに恋慕の情を抱き、それが忘れられぬと考える者も多い。世の理を考えればそれが最も理に適っているとは思うのだが、残念ながらそれとはまた違うのだ。
 きっと、私はあんなに親しかった人間が別れの言葉もなく、その姿の欠けらなくも言葉の通りに消えてしまうことが信じられないのだろう。幼い日の記憶というのは恐ろしいもので、関ヶ原の戦の前、最後に佐助が私のことをだいすきだと言った言葉に私は未だ縛られているのだ。それが口先だけの建前で、心などこもっていなかったものであったとしても、私のことがすきであると言葉にしたからには、どんな形であれ私のところに現れると疑わずにいられない私は、どうにも佐助が死んだとは信じられないのだ。
 故にどうしようもないさみしさだけが心にこびり付いて剥がれなくなってしまった。

「…早く帰ってきてね」

 それでも、本当は分かっているのだ。生きていようが死んでいようが、佐助はもう私の前には現れない事を。しかしそれでも佐助への気持ちを消すことの出来ぬ私は、きっと白髪となった髪を結い、深く皺の刻まれた顔に、骨張った手を組みながら己の命運が尽きるその日まで。現れもしない忍びの飄々とした姿を待ち続ける事だろう。
 何と哀れな最期かと、自分でも少し笑ってしまった。





20121230