「あねさまぁ」
「うん?」

 うららかな春の午後だった。空は淡い水の色を映し、雲は綿毛のようにゆっくりと空を流れていく。花の香りが鼻を掠める。新緑の草の上に寝転び穏やかな空を見上げているとこのまま目覚めなくてもいいのではないかと思ってしまう程の心地よさだ。そんな穏やかな昼下がり、寝転んだ俺の隣で花輪を編むあねさまは、ゆっくりとこちらを振り返る。そのすらりとした華奢な背中と無駄のない物腰の美しさについ見とれ、頭から消えかかりそうになった疑問を投げかける。

「おれさまって、いつになったら一人前の忍になれんの?」
「師匠からの最後の仕上げの課題を無事やり遂げたらだねぇ」
「いつもそればっかり。その最後の仕上げってのは一体いつになるのさ?」
「師匠が良しとする頃合さ。佐助が一人前として働けるだけの業を身に付けたらだね」

 あねさまは俺の師匠の弟子、つまり俺の兄弟子にあたる。
 師匠の元で忍の基礎を学んでいた俺は、ある日突然あねさまの所で修行するようにと師匠から言い渡された。俺が「最後の仕上げまで後は任せた」とだけ書かれた師匠からの文とその身一つで転がりこむまであねさまもこの事は知らなかったようで、当時はあねさまも大変驚いたのだという。しかし師匠の奇行を反面教師としてきたせいか、もしくはただ単に面倒見の良いだけか、俺があねさまの元に来てからもう三度目の春が過ぎようとしていた。

「って言うわりに、基本以外にあねさまからこれといった忍の業を教わった記憶がないんだけど」
「忍の業は教わるものではなく盗むものだよ、佐助」
「またそればっかり!でもさぁ、あねさまのとこで修業し始めてから結構経つよ?このままじゃ課題が来る頃にはおれさま、師匠みたいな爺さんになっちゃうよ」
「まぁそう言うな。最後の仕上げの機会は一度きりなんだから、早まって未熟なまま挑戦しない方がいい。急いで下手を打ったら後は死ぬだけだぞ」

 そう言って笑いながらあねさまは俺の頭をやさしく撫でた。子ども扱いが悔しい半面、実際に自分はまだ九つの子どもであるし、厄介ではあるがその反面、少し嬉しい気持にもなるので、あねさまに頭を撫でられるときの気分は正直複雑だったりする。

「あーあ。早く一人前の忍になりたいよ」
「……。なぁ、佐助。私がこんなことを言うのも何だけれども、お前はどうしてそんなに早く一人前の忍になりたいんだい?」
「うん?」
「お前はまだ幼いが忍の素質は充分にあるのだから、そんなに急くことは無いように私は思うよ」
「そんなの決まってるよ。早く一人前になれば、その分早く一流の忍になれるし。そしたらそれだけ雇い主が付くのも早いし食うのに困って野垂れ死にすることは無くなるからね。おれさま、死にたくないし」
「ほう…。それは全くの正論だな。死にたくないという思いも一流の忍には欠かせない活力だ」

 忍として生きるには、その肩書きに見合うだけの仕事が無くてならない。元より忍とは表舞台で生きる存在ではないのだから、己の実力を買ってくれる雇い主を見つけ、その業を活かせる陰での仕事が無ければ生きることは困難であることを俺は師匠に口酸っぱく言われてきた。忍として生きるためには、忍として生きるだけの環境が、またそれに見合うだけの実力が必要なのだ。

「まぁ、理由はそれだけじゃないですけどね」
「おやおや。そんな言い方をされると気になるじゃないか」

 くいっとあねさまが俺の顔を覗き込む。優しく澄んだ瞳。それ見ると俺はいつも師匠に言われた言葉を思い出す。
 ――一流の忍は皆、その業に似つかわしくないひどく澄んだ目をしている、と。それは人の命を絶ち、人の成り替わりをする“忍”という自身の存在になんの疑問も持たず、その心に人に備わっているはずの情や葛藤、迷いをその心に持たないからなのだそうだ。故に鋭い刃を握るその手には微塵の迷いもない。一流の忍とは、言わば、ただの容れ物。あねさまの目もまさにそれだった。

「一人前にならなきゃ、あねさまはずっとおれさまのこと半人前扱いだし、守ってくれるだろ?」
「当然だろう。お前は大事な弟弟子なんだから」

 どうして一人前の忍に拘るのか。それは忍になるために生まれ、忍になるために生きてきた俺には、ただの愚問である。しかし、それを凌ぐような理由があることも俺は幼心にぼんやりと自覚もしていた。

「だから早く一人前になりたいんだよ。そんですぐに一流の忍になって、今度はおれさまがあねさまを守れるようにさ」

 些かの照れがあったものの、俺は一人前への拘りの理由を打ち明けた。その言葉にあねさまは一瞬その澄んだ目を丸くしたあと、ふわりと笑った。優しく、澄んだ瞳。

「おやまぁ。こんなに逞しい弟弟子に慕われて私はしあわせ者だな」
「ちょっとあねさま、話をはぐらかさないでよね」
「ふふっ、悪かった。わかっているよ」

 そしてもう一度、俺の頭を優しく撫でた。

「佐助。お前は真っ直ぐで優しい子だ。きっといい男になるよ」
「なんでそうなるのさ。おれさまはいい男よりもいい忍になりたい。一流の、完璧な忍に」
「……」
「あねさま?」

 急に黙ってしまったあねさまを不思議に思い、今度は俺があねさまを覗き込む。その顔に先ほどの笑顔は無く、澄んでいたはずの瞳は微かに揺いだように見えた気がした。

「あのね佐助。一流の完璧な忍というのは心を失い、情を棄てた者のことだ。謂わば、ただの容れ物だよ。成り代わりをするのが忍なのだから中身が無いに越したことはないさね。しかし、それは最早、人ではない。私のようにね」

 するといつの間に出来上がったのか、先ほどまで編んでいた花輪をあねさまはゆっくりと俺の首にかけた。ふわりとあまい花の香り。

「だから、お前はずっと半人前でいればいいのさ」

 そう言ってまたあねさまは笑った。







 修業が始まって三度目の夏が終わろうとしていた。

 ――彼奴を殺せ

 と、届いた文には何度見返してもそう記してあった。師匠からの最後の仕上げの文が届くのを今か今かと待ち望んでいた俺はその課題にまさかと己の目を疑った。

「なんだよこれ…」

 最後の仕上げは文が手元に届いてから迅速に遂行すること。証拠にその肝と得物の小刀を手に入れ、その肝が腐らないように小刀と共に三日以内に師匠の元へ持ち返れとの事。一筋縄ではいかない相手なので心して掛れということ、そして良い結果を待っているとの事。そして震える手で何度も読み返したその文末には、この仕上げから逃げること、またどんな理由があれ果たせなければ俺の命は無いということが書いてあった。
 ――俺の最後の仕上げは、あねさまを殺すこと。

「嘘だろ、…こんなの…こんなっ…」

 俺の言葉は形も成さずに宙へ消えた。







 納屋の近くで蝉が鳴いていた。その声は自分の最期を必死に伝えるようとしているような精一杯な悪あがきのようで、夏の終わりに随分と様子が似ていた。
 武器倉庫の代わりに使っている納屋の中は昼間だというのに窓が無いために暗い。とは言ってもその暗がりは夜の連れてくる淑やかな闇ではないので、夜の闇に慣れている俺にとって昼間の暗がりは白々しく軽薄な偽りの皮を被った偽物にすぎない。その違和感の中に戸口の形に差し込んだ陽の中に浮かびあがったようにその中央に立つあねさま。周りの軽薄な暗がりと差し込む陽の光との錯覚でその白い肌は少しぼやけて見える。

「佐助?」

 気配を殺すのは得意だ。呼吸を消すのも、頭から足の先まで脈打つ鼓動の音を消すことも、身体中の血が逆流して迫り上がって来るような興奮を隠すことだって。苦手だった殺気を隠すこともあねさまとの修行の中でやっとの思いで習得した。今の俺は忍の業において満遍なく巧くやれる。
 ――それは全て、この瞬間に使うためのものだったのだろうか。

「あねさま…、」
「……」
「おれ…」

 蝉の声が遠くに聞こえる。顔が熱い。口が乾く。かさつく唇を舌で舐めた。消したはずの浅い呼吸音が脳内に聞こえる。クナイを握る掌に一筋の汗が流れるのが分かった。

「佐助」

 しかし、不思議とその手は震えてはいなかった。

「お前、いい目をするようになったね」

 その時もあねさまは笑っていた。それなのにその声は少し震え、目元は少しだけ赤らんでいた。それは揺らぎ、澄んでいた瞳は霞がかかったかのようにぼやけている。まるで自身の中の感情が堰を切ってしまわない様、懸命に耐えているように見えた。
 あの日、俺は忍の澄んだ瞳に人の情の揺らぎと翳りがはっきりと映るのを初めて見た。それはとてつもなく美しいものだった。







「佐助!佐助はおらぬか!」

 日々はいたずらに、あっという間に駆け抜けていってしまう。

「はいよ、旦那。お呼びですかー」

 あの穏やかな春の日、あねさまは俺にずっと半人前でいればいいと言った。忍を目指すのなら、いずれは否応なしに、また一流の忍であるなら数多の人を殺すことになる。だから下手に生き急ぐなと、つまりは、己のようになるなと。しかし、あねさまも一流の忍である傍ら、忍を目指す半人前の俺に人を棄てるなと暗に吐露してしまった事に戸惑ったのだろう。人の心を持った一流の忍という半端な存在の自分に。

「仕事だ。少々頼まれてくれるか」

 忍は自分のものであれ他人のものであれ、誰かの命を使ってその業を全うする。そのための覚悟と度胸を審査するのに最後の仕上げはこれ以上ない良質なものに出来上がっている。そこには情けの欠片が入り込む隙間さえ存在しない。その審査で、俺は忍になることと人でいることのふたつを天秤にかけたのだけども、生来、忍になるために生まれ忍になるために生きてきたのだから、もとより人でいられるわけがない。
 そしてあの夏の日、俺は自分の命を選んだ。一流の忍がそうであるように。

「しかし、この度の任務はやっかいでな。酷なものとなるが、それでも頼まれてくれるか?」
「ちょいと旦那。見縊ってもらっちゃ困りますよって」

 早く一人前の忍になること、そして一流の忍になること。それはあの頃も今もこうして生きる俺にとってはそれが全て。そのために、人で在ることを棄てることも。それは全て自分で選んだ道だ。悔いはない。死にたくないなら生きるしかない。

「俺様、一流の忍だぜ?」

 しかし一流の忍として任務をこなす傍ら、在るはずのない心のようなものが擦り切れて生きる意味が分からなくなる時。そんな時に思い出すのは、あねさまと過ごした修業の日々。早く一人前の忍になりたくて毎日必死に生きてきたあの頃のこと。人で在ることを棄て、容れ物となった俺の心を満たすのは、今となっては白々しくとも、何物にも代えられない美しい日々の記憶。
 それに想いを馳せる時、俺の瞳は少し濁っているように思う。


裸足で駆け抜けた
あの白々しくも
美しい日々よ




20130611