土曜日の夕方。今日の日本は全国的に快晴で家の窓から見た西の空は絵の具を零したといわんばかりの鮮やかな橙色だった。
 最後は美しく散る、などという言葉をよく耳にするけれど、地球も最後の日ぐらいは美しく終わりたいと思っているのだろうか。

「自分から誰かに会いに行くのは面倒だけど、トシがこうやって会いに来てくれたのはすごく嬉しい」
「ったく…。そんなんだからお前は男ができても長続きしねェんだよ」
「ははっ、そうかもね」

 どうやら今日の6時きっかりに、地球は滅亡するらしい。隕石が地球、しかも運の悪いことに江戸に真っ逆さまに落ちてきて、恐竜の絶滅した中生代のように落下地点から炎だかマグマだかが溢れて地球を覆い尽くすのだと、テレビの中の美人なアナウンサーが言っていた。
 なんだかいつかのアメリカ映画みたいだ。確か新約聖書での読み方はハルマゲドンといったか。

「今日で最後だってのに相変わらずお前はマイペースだな。最後に会っておきたい奴の一人や二人、いねェのかよ」
「うん。だって今会ったとしても、どうせすぐにみんな消えちゃうもん」
「意味がねェってか」
「ふふっ。わざわざ自分から動くのも面倒くさいしね」

 今の笑みはもちろんトシの質問に対しての肯定である。今日で地球は終わる。それなら今さら焦って人に会う必要もないだろう、と思う。例えば今まで長年想っていた人がいたとして、今日で最後だからと想いを伝えたとする。そこでもし両想いだという事が判ったとしても、すぐに消えてしまっては意味がないと私は思うのだ。確かに少量といえど想いが通じ合った時間はしあわせな気持ちに溢れるだろう。しかしそれと同時に残された時間の少なさに憂い嘆き悲しむ気持ちは嫌でも意識しなければならない状況である。そんな不安を抱いたまま、果たして人間はしあわせな気持ちを持続させる事が出来るものだろうか。私個人の答えは否だ。なぜなら、私は不安も悲しみも甘受して目の間のしあわせに浸れるほど大きな器を持った人間ではないからである。悲しみや不安、焦燥に駆られるくらいならいっその事、抵抗などせずにあるがままの現実を受け入れた方が私には容易いのだ。
 しかしこれはあくまでも私個人の意見であって、先ほどの例を見てもしある人が“死ぬことによって2人の愛は永遠となるのだからいいじゃないか”と主張したとしたらそれもそれで良いのではないかと思う。
 思う事は人それぞれであり、それは縛られることなく自由であるべきなのだから。

「ずっとこの日を待ってた」

 窓の外の夕陽を見ながらぽつりと言葉を零すと、隣でトシが微かに動いたのを感じた。顔を左側に向けるといつもよりも瞳孔の開いた彼がこちらを見ている。どうやら手に持っていた煙草を落としたらしい。先程、手のひらサイズの小箱から取り出された火のついていないそれが畳の上に転がっている。きっと少なからず動揺している。それはそうだ。普通に考えれば地球が滅亡する日を待っていたと吐く生き物がこの地球上で生きているわけがない。そういう奴は大抵はもう自ら命を絶ってここに存在しているわけがないのだから。

「生きるのって面倒くさいんだもん。でも自殺は苦しそうだし、行方不明になろうとしても誰かが捜索願いとか出して見つかっちゃうでしょ。それに運良く死ねたとしても普通に考えたらあたしのためにお葬式してくれる人がいるわけで。その人にお金遣わせちゃうもんね。そんなの申し訳ないよ」

 今まで誰にも明かさなかった思いを吐き出すと胸の奥につっかえていた物が溶けたようでらひどく清々しい気分になった。今から死ぬというのにこんな気分になる自分は本当にどうにかしている。

「だから誰にも迷惑をかけないで死ねるこの日をずっと待っていた」
「…。厭世主義者かよ」
「それとはちょっと違うかも。この世界は嫌いじゃないのよ」

 窓際に移動して窓から空を見上げる。そこから見える空は先程よりもほんのりと赤く染まっていて、相も変わらず美しい姿を惜しげもなく晒していた。

「ただ私が生きるのには合わなかっただけで」

 視界に入る夕焼けは美しいと思えるし、私に笑顔であいさつをしてくれる人には暖かい気持ちで返事が出来るし、好きなアーティストの音楽を聞くのはとても楽しい。
 しかしこの世界で私が生き続けるという理由にはそれらは見合わないものなのだ。生きていく中で楽しい事も嬉しい事もある。だがそれにも増して辛い事や悲しい事が多すぎるのだ。人間関係のこじれは全く持って面倒くさいものであり、疲労や苛立ちは途絶えることを知らない。いくら過去を顧みても結局のところ殺人や戦争は消えず人は何度も過ちを繰り返す。安らかな気持ちで過ごせる時間や手放しで笑っていられる時間もある。だが、その時間が過ぎてしまえば、また不安や辛さと共に生きていかなくてはならい。生きている間は辛さや苦しさからは、決して逃れられる事が出来ないのだ。故に大抵の人間は苦しみや矛盾の中で葛藤を続けもがいた結果、安心と不安、幸せと不幸を両方合わせ持って生きていく事を決断する。
 しかし、何か不安を抱えながら生きる事は、残念ながら私には合わなかったのだ。

「お前は、本当に最後まで掴めねェ奴だな」
「そう?」
「賢いのか馬鹿なのか判んねェよ」
「ふふっ。そんなのどっちでもいいよ。もうすぐ消えちゃうんだし」
「ったく、一般のそれとは一線を画してやがる。お前が言う通り、ここはお前が生きるには合わなかったのかもしれねェな」
「うん。でもね。今はトシが会いに来てくれたから、もう少し長く一緒にいたいと思ってる」

 そう言うとトシはもともと開き気味の瞳孔をますます開いた瞳で私を見た。どうやらひどく驚いているらしい。早く死にたいと零していた私がこの状況で少しでも長く生きたいという言葉を口にしたのだから、トシの驚きようも判らないでもないのだが。
 私にだってなぜあんな言葉が口をついて出たのか判らない。しかし先ほどの言葉は嘘などではなく真実であるという事だけは知っていた。それはいつものように口を開き素直に言葉が飛び出してきたに過ぎない、ごく自然な流れであった。

「…さっきまでと言ってる事違うじゃねェか」
「そうだね。でも、今はトシと一緒にいたい」

 そう言葉を紡ぎ終わった瞬間、私はトシに抱きすくめられていた。唇には自分のではない暖かな温度を感じる。先ほどまではふわりと漂っていた煙草の香りが今は近くで香っていた。
 数秒間重なっていた唇を離すと夕陽を背負ったトシが困ったように笑っている。黒い髪の先がオレンジ色に透けてとてもきれいだった。

「…お前なぁ…。この状況でそういう事言うんじゃねぇよ」
「……あたし、今トシのことすきになったかも」
「ばーか」

 ふと視界に入った時計を見ると見事なまでに短針は6を、長針は59の数字を指していた。
 どうやら、お喋りが過ぎてしまったようだ。

「俺はずっと前から惚れてたっつの」

 そう言いながら笑うトシが私の見た最後の風采。白い光で視界がいっぱいになった刹那、高熱で融けて液体となった私たちは一瞬だけ混ざり合ってひとつになったのかもしれなかった。


20090926