今宵の闇は薄く、天上のまばらな雲さえも月明かりに照らされその姿を見て取る事が出来る。室内の奥はともかく、眼下に佇む自慢の庭は月光に照らされぼうっと白く滲んでいる。池の水に映る明月は紺色一色に染まっている視界の中で唯一光を放ち、時よりどこからともなく吹いてくる風が水面を擦る度にその美しい姿を水と融解させていた。 「おい。いるんだろ?」 ふと布団から起き上がると、政宗さまはどこに投げかけるでもなく言葉を紡いだ。 「そばに来いよ」 自身の体が畳に着地する一瞬、室内の空気が僅かにふわりと動く。そして主の数歩後ろに片膝を立て頭を垂れる。ふ、っと政宗さまが微かに頬を緩めるのを感じた。いつもならばこの体を包む紺色は闇夜と同化し見極めにくいものとなるが、今夜のように月の明るい夜はその濃紺が最も闇夜に近い色をしていた。反対に僅かに露出した襟元や腕は酷く明るい。 「如何致しましたか」 「Now now.もう就寝時間は過ぎた。忍だからって堅っ苦しいのはなしだ」 「しかし、」 「口答えもなしだぜ。you see?」 ふう、っと思わず漏れた溜め息が漏れてしまう。そしてそれを予想していたのだろう。政宗さまが私が溜め息を漏らすのと同時にくつくつと喉で笑った。月明かりを背にしているため、肩が揺れているのが嫌でも判ってしまう。今宵はそんな溜め息さえも聞き取れるほどの静かな夜だ。 「今夜は月が明るいな」 「…左様に御座います」 「ったく、もっとfrankになれよ。そんなんじゃあ小十郎みたいに眉間の皺がとれなくなっちまうぜ?」 「その原因を作られているのは、一体いずこの独眼竜なのでございますかね?」 「…Ha.俺だな」 緩やかな風がさぁっと木々を揺らす。室内に入り込んだ風が僅かに髪を梳き、寝衣も揺らした。さらりと肌に感じる温度が気持ちよい。その風に誘われるように政宗さまはふと部屋の外へ顔を向けた。 「…寝付けねぇんだよ」 ぽつりと、月明かりに照らされたその精妍な横顔が零した言葉は静寂な闇夜にゆっくりと溶けていった。しかしその言葉が僅かに不安を孕んだ色を醸し出していたので、溶けたと思われたその言葉の名残がまだ辺りにふわふわと揺蕩たっているようにも感じられた。 「月が明るくて寝付けねぇんだ」 「…白湯でも召し上がりますか?」 「いや、用意しなくていい」 「では香でもお炊きしますか?」 「いや。香もいらねぇ」 「…では、如何致しましょう」 「俺は、」 そこで言葉を切ると、政宗さまはこちらに向き直る。月の逆光で認識出来ないはずの、今宵の白い月とは違う満月のような金色の瞳が一瞬だけ輝いて見えた。 「お前がいればいい」 呼吸をするためにいつもと同じく息を吸い込んだつもりが、胸のあたりで支えてしまったようで僅かな苦しさを覚えた。どくん、と左胸が一際盛大に外界への壁を叩く。 「そばに来いよ」 向かって差し出された手に惹かれるようにして私の足はゆっくりと畳を蹴る。布団の上に鎮座し私を見上げる政宗さまの角張った手に触れる。そして自分のではない体温を指先に感じた瞬間、いきなり強い力で手を引かれた。身体が反転しバランスを崩したと頭で認識する頃には、私は政宗さまの膝に乗り後ろから抱きすくめられていた。 「ま、政宗さま…?」 「お前肌白いのな。真珠みてぇ」 「…畏れ多いことに御座います」 「今夜の月の色と同じだ」 そう言うと政宗さまは私を抱きすくめたまま布団に横になった。そのため今まで屋根に天井に遮られていた天上の紺色と白い月が視界に入る。相も変わらず今宵の月は白く明るい。 月光を遮るように政宗さまは私の首筋に顔を埋めた。皮膚越しに伝わる温度はひどく優しい。 「あったけぇ」 「ふふっ、左様にございますか」 返事をした私を抱きしめ直すと、政宗さまはその項に唇を寄せた。ちゅ、と小さくも柔らかな音と共に思わず笑みがこみ上げてくる。 「…今夜はずっとここにいろ」 「承知致しました」 そして政宗さまは私の項の辺りに自らの額を寄せ、一度だけ深い吐息を漏らした。今宵はもうその唇から言葉は紡がれないらしい。ぴたりと重なった背後に体温と鼓動を感じて間もなく、緩やかな寝息が聞こえてくる。暫く背中越しに感じるそれらを少し堪能した後、手を引かれるようにして私の視界も微睡みの中へとゆっくりと沈んでいった。 うつくしい夜 20100304 |