―――ごつん

 ひどく鈍く重たい音が夜の静寂に響いた。いや、もしかしたら“ごちん”かもしれないし“ごつ”かもしれない。ただ硬く分厚い壁に投げつけられて、それに私の頭がぶつかったというのは紛れもない事実である。そしてそれを脳みそが理解し終えた頃には後頭部を打った瞬間特有の何ともいえない、敢えて言うなら鼻から眉間にかけてのじぃんとした衝撃がたどたどしく横行していく。

「まさか孕んじゃあいないだろうね?」
「毎度…鬼灯の灰汁を、飲んでおりましたので、……それは無いかと…」

 そう言うが早いか、本日何度目か分からない激しい衝撃が腹部に走る。生憎ほとんどの人間がそうであるように私も無痛症なんて言葉からはそれなりに遠い人間であるため、いくら忍とはいえどほぼ常人と同じように痛みを感じるように出来ているのである。腹部を殴られれば苦しくなるし鳩尾を蹴られれば息が詰まり、頭を硬い何かにぶつければ痛いのだ。
 しかし今の私にとってはその痛みはほんの一瞬で過ぎ去り、私の脳内では身体への痛みを遥かに越える目の前の恐怖に侵食されていくのだ。ヒュウヒュウという情けないほどか細い己の呼吸音がやけに耳に痛い。

「なにこれぐらいでへばっちゃってんの?忍としての基礎体力足りないんじゃない?」

 ひたり、と妙に冷たい汗が背中を伝う。目の前の恐怖、もとい私の上司、真田忍隊の長・猿飛佐助隊長はその澄んだ瞳に絶対零度を浮かべながら私を見下ろしたのだと思う。ここでの描写が推量であるのは、あくまでも私が頭部を分厚い壁にぶつけてしまった反動で長の瞳を窺うことが出来なかったためだ、という事とにしておく。仮に長が恐ろしくてその顔を一瞬でも視界に入れる事が適わなかったのでは、という意見が挙がったとしても私が真実を口にする事はないからである。
 しかし直接、長の顔色を窺わなくとも彼が冷たい眼で私を見下ろしている事など火を見るよりも明らかであった。何故なら腐っても私は忍であり、また読心術は私の十八番であるからだ。正直、今の今までこの特技を持って生まれた事を恨んだ日はない。

「たった三月奥州に潜伏してただけなのに平和ボケしちゃった?」
「…、そんな…ことは、」
「そんな事ないって?どの口がそんな冗談言うわけ?」
「……っ」
「二月で女中として信頼を得て、二月半であの警戒心の強い独眼竜と同衾するようになったのは褒めてあげるよ。元々期待はしてなかったんだ。まさかお前にそこまで出来るなんて思ってもみなかったよ」
「…、」
「だけど甲斐の忍である事がバレた上に、大した情報も得られないまま情けをかけられて逃がされたってどういう事?」
「も、申し訳ござい、」

 パンッ、と妙に小気味良い音が一瞬室内を満たして消えた。その衝撃で私は畳に突っ伏する。左頬がじぃんと疼く鈍い痛みを持っているのは残念ながら気のせいではない。きっと、長は加減などしなかったに違いない。口内にじわりと広がる鉄の味が私の仮説が外れてなどいない事を見事に証明していた。

「謝罪なんかいらないんだよ。そんなものより奥州の内部情報が欲しいんだ」
「…」
「なのに何なのお前は?収集した目ぼしい情報と言えば奥州の人事配置と騎馬隊の数だけ。交友関係や武器の所有数においては既知の情報ばかり。結局お前は独眼竜の下でアンアン啼いてただけじゃないか」
「………」

 返す言葉も見つからない。それは私を諫めてあるのが上司であるというばかりではない。事実、私は奥州の潜伏密偵に失敗した。
 この度の私の任務は女中として伊達内部を観察し、また、あわよくばあの独眼竜・伊達政宗と同衾の関わりを持つ事だった。特に独眼竜と関係を持つ事はあくまで“あわよくば”の任務であり、先ほど長が零したように短期間でそこまでこぎつけた私の働きは評価に値するだろう。手前味噌じゃあないが、よい働きぶりだったと思う。従って少なからず己の実力に陶酔していた私は、独眼竜と同衾する事がまさか自らの正体を暴露する事になるとは夢にも思わなかったのだ。

「まぁ…流石は独眼竜だよ。身体の肉付きで忍だってことを見抜くんだからねぇ」

 同衾する、という事は互いに裸身になる事を指し、当然男は一糸纏わぬ女を手を触れ愛撫を施す。それは即ち直接肌に触れることであり、鍛錬を行っているものであれば身体の肉付きで相手がどれほどの力量の持ち主かを推量する事が可能になる。つまり独眼竜は愛撫の際に私の腕や腹、脚の筋肉に触れるうちに気付いてしまったのだ。私の身体が女中のそれとは全く異なる造りになっているという事に。
 また皮肉にも私と彼は肌の相性が良く、彼は度々私を呼んだ。彼は他国の忍である私に心底惚れていたのだ。まぁ、私も死に物狂いで房術を学んだにも関わらず、それを使う暇もなく彼の手によって絆されてしまったのだからおあいこなのかもしれないが。

「流石の俺もそこまでは気が回らなかったよ」
「……」
「ただお前はそれが判るくらい何度も独眼竜に抱かれたみたいだけどね」

 長がそう言い放った瞬間、いきなり強い力で胸座を掴まれ上半身を起こされ壁に押さえ付けられる。目の前には長の煌々たる瞳が鎮座している。その輝きが私に与えるのは恐怖以外の何物でもない。長の指が私の忍服の襟元を乱暴にはだけさせる。鎖骨の辺りを這う長の指と外気に晒された首元がひどく冷たい。それにも関わらず、私は長から視線を逸らすことも、襟元を外す事も適わなかった。もちろん、それが可能だった場合でもそんな愚行を行った暁には、私は生命体としての存在意義を失っているかもしれないが。

「あーあ。こんなに口吸いの跡付けちゃって。他国の忍に骨抜きにされるなんて独眼竜の名が泣くよ」
「あっ、…お、長っ…」
「ま、だからこそ一国の主が他国の忍に惚れたっていう粗相を冒してまでお前を逃がしたんだろけどねぇ」
「んっ…あっ、」
「へぇ、鎖骨弱いんだ?なぞってるだけなのになぁ」

 すると長は背後の壁にちょうど私の顔がその両手に挟まれるような位置で両手をついた。長の両手が完全に私を包囲していると理解した瞬間、もう出尽くしたと思われた冷や汗が再び背中を伝う。恐怖のあまりに速くて浅い己の呼吸音が情けなくて仕方がない。
 長の顔が近づいてくる。白い犬歯が妙に目につく。もしかしたら私はここで長に舌を食いちぎられるのかもしれない。

「お前が独眼竜を骨抜きにした女か」

 一瞬、長の瞳が見えなくなったのは長が瞼を閉じその唇が私のそれとぴったりと重なったためだった。初めこそ唇を重ねるのみであったそれは次第に乱雑なものとなり、私の口内を犯す。長の舌から逃れようにも頭部と顎を固定され逆に巧いように捉えられ舌を吸われる。時折カッ、カチッと互いの歯が当たる音とだらしのない水音が酸素の足らない脳みそに沁みては消えていく。

「んっ、…く…、っ…」
「…くそっ」
「…あっ…長っ……ぐっ!」

 長の唇が離れ私が言葉を紡ぐのと同時に鳩尾に最大の衝撃が走る。誰がやったかなんて、考えなくとも判る。ただ私は極度の緊張と恐怖、それに加え酸欠状態であったためついにその一撃で気を失い再び畳に突っ伏した。

「ねぇ。お前、独眼竜に惚れてんの?」

 その問いかけに意識を失った私が否定の言葉を紡ぐ事など到底出来るはずがない。だから長が苦虫をすり潰したような表情でこちらを見下ろしていたことも私は知らない。

「お前を独眼竜のところにやるんじゃなかったよ……」

 もちろん、長が私への殴る蹴る罵るといった行為が、まさか独眼竜に寵愛された私に対する嫉妬だという事も、私が知るはずもない。






20100311