チリン、と部屋に呼び鈴が鳴り響く。
ポオが顔を上げると時刻はお昼を少し過ぎた所だった。
(…あぁ、今日もであるか)
彼が溜息を吐くのと、部屋の鍵がカチャリと音を立てて解錠されるのはほぼ同時だった。
パタパタと足音が聞こえ_ポオの居る書斎に、小柄な人影が飛び込んでくる。
「ポオさんこんにちは!今日こそ外に出てもらいますよ!」
「嫌である」
後ろも見ずに答えると、その人物はずかずかと部屋に上がり込み_ポオの手から、羽ペンをするりと奪った。
取り返そうと、ポオは仕方なく顔を上げる。そこに居たのは、やはり組合に所属していたみょうじなまえであった。
ポオと目が合うと、なまえは嬉しそうに人懐っこそうな笑顔を向けた。
「こんにちは、へへ」
「……」
無言で羽ペンを取り返す。
何故こんなにも彼女に好かれてしまったのか。
ポオには一つも思い当たる所がない。
それどころか、初めてなまえと出会った時、ポオはろくに顔も合わせずに挨拶をした。
普通の相手ならばその時点でポオとあまり関わろうとしなくなるものなのだが_
「あ、カールにおやつ持ってきたんです!あと玩具も!」
それどころか、なまえはポオにしつこい程に構ってくる。
最初の頃こそ組合の仕事で近くに寄っただとか、様子を見て来いと言われただとか理由をつけていたものの、組合が解散した最近はもうそれもやめたのか当たり前のように乗り込んできては好き勝手して帰ってゆくようになっていた。
目の前でペットショップのロゴが入った袋からカール用のおやつや玩具を取り出すなまえを見て、ポオは思わず追い払うように手を振った。
「我輩は君に構っている暇など無い…」
「えぇ、ちょっとだけ出かけましょうよ、今日はいい天気ですよ?」
カールもきっと散歩したいと思ってますよ、等と呟きながらなまえは玩具を手にしゃがみこんだ。カールはすっかりなまえに懐いてしまったらしく、楽しそうになまえの手にした玩具とじゃれている。
カール、と呼んでみるもポオの声が聞こえていないのか無視されているのか、カールはなまえの手にすり寄るばかりだ。
「はぁ…飽きたらさっさと帰るのである」
「はーい」
外に出ろと言いつつも、なまえはポオの事を無理矢理外に連れ出そうとはしない。
こうやってやって来ては、ポオが執筆している後ろで本棚の本を読んだり、カールと遊んだり。
夕方頃になると、ポオに一声かけて帰ってゆく。
一体何がしたいのか、さっぱり分からない。ポオがチラリと後ろを見ると、楽しそうにカールにおやつをあげているなまえの姿が目に入って_
ポオは、もやもやとした気持ちのまま羽ペンをインク瓶に沈めた。
*
「好きなんじゃないの?」
「え」
カラン、とポオが手にしていたグラスの中の氷が音を立てる。
ひやりとした水滴がポオの指を伝っていったが、ポオの意識は全くそちらに向いていなかった。
或る甘味屋の一席。
乱歩から新作原稿の催促の電話を受けたポオは、乱歩に呼び出され甘味屋へと出向いていた。
指定された時間から乱歩は随分遅れてやってきた挙句、目の前で楽しそうに高そうな甘味を食べ始めたのだが_まあ、それは置いておこう。
乱歩が原稿を読み終え、ポオにアドバイスと言う名の一方的な意見を告げる。
それをポオは必死に聞き取っていたのだが、ふと乱歩がポオに問いかけたのだ。
「ところで君、最近何か変わったことでもあった?例えば_誰かが家に来るようになったとか」
その言葉に、ポオは大いに動揺した。
そんなポオの様子を見て、乱歩は何やら面白そうな話の匂いを嗅ぎつけたのか、矢継ぎ早に質問をしてきて。
それにポオがしどろもどろになりながらも何とか返答し終えた、その直後の言葉だった。
「なまえ君が、我輩を…?」
「それ以外に誰が居るのさ。あ、僕これおかわり!」
餅だけが残った善哉の椀を持ち上げて、乱歩が店員を呼び止める。
既に乱歩の目の前には椀が五つほど並べられていた。
「…彼女が我輩のことを…我輩……?」
ポオは必死に考えてみるが、自身が誰かに恋心を持たれるなど想定をしたこともない彼には、それは全く想像し難い考えであった。
分からない。分からない。これが謎解きならば、たちどころに解いてしまうと言うのに。
ポオが唸りながら顔を上げてみると、幸せそうに善哉を頬張る乱歩の姿が目に入る。…彼にならば、分かるのだろうか?
「ら、乱歩君には分かるのであるか…?」
「さあ?僕は僕がよければすべてよし、他の事なんてどうでもいいね!」
カラン、と音を立てて彼が善哉の椀を机に置く。
そして、御馳走様!と言いながら立ち上がると、椅子に引っかけていた帽子を手に取り_それから、ポオの方を見、少しだけ目を開くと愉快そうに笑う。
その目は、まるで全てを見透かしているようだった。
「まあ、その話が解決したら僕にも聞かせてよ!後、次の作品も頑張ってね!」
そう言って、じゃあね、と乱歩はポオに手を振る。
ひらり、と羽織っていたコートを翻しながら、乱歩は甘味屋を出て行った。
ポオは暫くぼんやりと告げられた言葉を反芻していたが_ふと、気がつくと顔色を悪くしながら、呟いた。
「…乱歩君、支払いしていないのである…」
*
夕刻。
すっかり軽くなった財布を抱えて、ポオはがっくりと肩を落としながら歩く。
あれからずっと乱歩に言われたことについて考えていたものの、結局ポオの中で結論が出ることはなかった。
ぐるぐると頭の中を巡る考えを追い払いながら、ポオは足を進める。
きっと乱歩は気まぐれであんなことを言ったのだろうと、思いたいのだが。残念ながら、乱歩の意見が的外れだったことなど一度もないのだ。
ポオは何度吐いたか知れない溜息を、また一つ吐く。
そして、自身の拠点が見えてきた所で_ピタリと、立ち止った。
「っ、…」
声を出そうとしたのに、出てこなかった。
それも仕方のないことで。何故なら、ポオは今まで一度も_視界に映る彼女のことを呼ぶ時に、名前で呼んだことがなかったからだ。
少し遠くに映る少女_なまえは、不安げな表情でポオの住む建物を見上げている。
それから少しだけ泣きそうな、怒ったような顔をすると、建物に背を向けて歩き出そうとした。
夕焼けが、彼女の顔を赤く染める。
いつも日向の様な笑顔を見せている筈のなまえの表情は、今は強張っていて。
ポオは思わず、その背中に声をかけた。
「なまえ、君」
小さな声だったが、なまえの耳にはしっかり届いたらしい。
ピクリと肩が揺れて、声の主を探してくるりとした大きな目がポオを捉える。
「…ポオさん、?」
「…こんな時間まで何を、」
と、続けようとして。突然飛び込むようにポオに抱きついてきたなまえに、ポオは大いに狼狽した。
「ポオさんの馬鹿!阿呆!どこ行ってたんですか!私凄く心配、して」
そう言うなまえの目から、ポロポロと大粒の涙が零れ始める。ポオはますます混乱して、頭が真っ白になる。
「お、落ち着くのである…一体どうしたというの、だ、」
ポオがそう問いかけてみても、なまえはただ俯いているだけだ。
肩が僅かに震えている。まだ泣いているのであろう、腕の中に居る少女をどうしていいか分からず、ポオの両手はなまえの背中に触れるかどうかの空中を彷徨う。
今までずっと話してきたが、こうやってお互いが面と向かい合うことは殆ど無かった。
自身の体にすっかり隠れてしまいそうななまえの頼りない身体に、ポオは胸が締め付けられるような感覚を覚える。
(…こんなに小さかったのだろうか)
ポオの部屋に来る時は、いつも笑っていて。
一人でも生きていけるだろうと思い込んでいたのに。
もしかすると、組合が解散してから、なまえは一人でずっと不安だったのかもしれない。
このまま組合に残って、スタインベックについていくことも出来た筈だ。…彼女がそれをしなかったのは、何故だろうか。
やはり、分からない。けれど_
ポオはなまえの背中におずおずと手を回す。なまえがそれに反応して、ポオの方を見上げようとしたが、ポオはそれを許さずそのまま彼女を自身へと引きよせてしっかりと抱きしめた。
「……すまない、のである」
何に謝ったのか。口から零れた言葉の真意は、ポオにも理解し難かった。
ただ、腕の中でなまえが小さく「_はい」と呟いて。
この選択はきっと間違っていなかった、とポオはそんなことを思いながら、背中に回された小さな腕の温もりをぼんやりと感じていた。
*
あの後。
結局外で大泣きされても困る、とポオはなまえを仕方なく自室に入れた。
たどたどしい手つきでお茶を淹れ_なまえが落ち着くまで、散らかった自室を片づける。
暫くすると、なまえはすっかりいつもの様子に戻って、ポオにあれこれと質問をし始めた。
今日はどこに行ってたんですか、だの、どうしてこんなに部屋が散らかっているんですか、だとか。
ポオはそれに一つ一つ返答する。
乱歩君に新作原稿を見せに甘味屋に行っていた、外に出るのが久し振りで部屋中の物を引っ張り出して準備したから汚くなった。
それ以外にも数個質問をし、ポオが全て答えた後_なまえは、安堵したかのような息を吐いた後、ポオにじとりと恨めしげな目線を向けた。
「抗争が終わったと言えど、組合の残党狩りがここ最近多いんです、ポオさんがそれにあったかと思ったじゃないですか!」
「そ、そんなの知らなかったのだから仕方がないではないか…!」
「今日ここに来たら部屋の鍵は掛かってないし、書斎は物盗りにあったみたいに散らかってるし、私残ってる組合の人全員にポオさんの行方知らないか聞いて回ったんですよ!」
結局見つけられなくて、帰ろうとしたらポオさんが急に現れたから、夢じゃないかと思って_
「…さっき抱きついたことに関しては謝ります」
思い出したのか、なまえはポオから顔を逸らすと気まずそうに頬をかく。
夕陽のせいか、その顔はいつもより赤く見えた。
そんななまえの様子を眺めているうちに、ポオはふと乱歩の言葉を思い出す。
(_好きなのか、と)
目の前の少女に聞くつもりはなかった。というより、到底聞けるとは思えなかった。
けれど、ポオの頭には今まで頭の片隅に追いやられていた言葉が次から次へと浮かんでくる。
「……聞きたいことが、あるのだ」
「?何ですか?」
恋だとか、愛だとか。はたまた、それ以外のものなのか。
ポオには未だ、彼女が持つ感情を理解できそうにない。
それならば、まず彼女自身を知らなければ。
「何でも構わないのである。君の話を、我輩に聞かせてくれ給え」
_そうして、彼女を知ることが出来たのなら、自身の話を少しだけしよう。
コンツェルトを奏でるには、まだ音が足りないのだから。
なまえが不思議そうに目を瞬かせた後、今日のポオさんは何だか変です、と困ったように、でもどこか楽しそうに笑った。
夕陽が、二人の足元に長い影を映しだしてゆく。
ポオの肩の上で、カールが小さく鳴いた。
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