※単行本ネタバレ…?
(あるかもしれないifの話)

 誰に頼ることもなく、黒き獣が真っ暗な空に向かって吠える姿に憧れていた。

 仲間を必要とせず、一人で闇を歩くその姿は誰よりも、そしてなによりも気高く美しいと思っていた。
 あの様になりたい。あの様に生きたい。同じ存在になりたいと黒き獣と共に生まれた、獣になりきれない紛い物は黒き獣を真似するかの様に空に向かって吠えた。

——憧れていた。望んでいた。それなのに、それなのに…

 芥川ふみの目の前に立つ、鎖に繋がれた一匹の黒獣が唸る様に吠える。
 白虎を逃す為に自らを囮にして敵に立ち向かい、そして地に堕ち、人々を恐怖に陥れる愚者の鎖にまで繋がれた己の片割れである黒獣…芥川龍之介の姿をふみは目を逸らすことなく、真っ直ぐ見つめていた。

 ふみは、ずっと龍之介に憧れていた。

 同じ胎で十月十日共に過ごし、そして生まれ、共に育った。同じ様に異能力を持ち、同じ時を過ごしてきた大切な片割れだが、ふみにとって異能力、気高さ、心の在り方など全てに置いて龍之介の方が素晴らしいものを持っていると感じていた。
 実際、ポートマフィアの一員として働く今、龍之介の方が役職は上だ。任される任務の重さも龍之介の方が重い。また、人の集まる多さも龍之介の方が多く、信頼も厚い。そして何よりも元ポートマフィアの幹部だった太宰治が自身の部下として最初に選んだのも龍之介の方だった。

 所詮、ふみは【紛い物】だった。
 芥川龍之介になりきれない【紛い物】だった。
 故に太宰は、ふみには何も与えなかった。
 自身の纏う外套も片割れの外套と似ているがそれは所詮、片割れを真似して自身で用意したものである。
 ふみには何も与えられなかった。——…唯一、与えられたものを挙げるならば、それは【芥川くんの紛い物】と云う、一生心に深く傷を負う言葉だけだった。
 誰もが芥川龍之介には慣れないのだとふみに告げ、嘲笑った。それでもふみは片割れに憧れていた。

「私は龍之介になりたかった」

 ふみは鎖に繋がれただけの獣と成り果てた片割れに向かって呟いた。
 悲しみや苦しみ、そして憧れていた黒獣が鎖に繋がれたと云う事実に対する喪失感。紛い物と呼ばれた獣は唯、静かに目の前の獣を見つめた。

「気高く強い、芥川龍之介に憧れていた。そうなりたいと私は強く願っていた」

——だけど今のお前は何だ。

「他者の楔に繋がれたお前は、私の憧れていた【芥川龍之介】ではない」

 ふみは許せなかった。
 憧れていた。片割れになりたいと思っていた。手を伸ばしても届かなくて、苦しくて何度も泣いた。
 ひとつのものを分け合って生まれてきたのに行き着く先は別々で…同じものは手に入らない。憧れは憧れのままなのだと、わかっていた。
 ならば、せめてその背中を見ていたいと思っていた。
 憧れである、あの存在の行先を片割れとして見ていたいと思っていたのに…それを、その思いを壊した人物が許せなかった。
 そして…今、目の前に居る【芥川龍之介の在り方】を忘れた片割れが何よりもふみは許せなかった。

「お前は【芥川龍之介】と云う、在り方を忘れたのか?」

——気高い、孤高の在り方を…

 ふみの腹の底からぐつぐつと煮え滾った怒りと云う感情が湧き上がる。大声で唸り声を挙げ、相手に飛び掛かりたいのをぐっと拳を握りしめて堪える。それでもお構いなしに吠える黒き獣にふみは重い空気を吐いた。

「【芥川龍之介】と云う在り方をお前が忘れたのならば、これ以上その在り方を穢す訳にはいかぬ」

 眉を歪ませ、黒真珠の様な瞳をスッと細めた。

「お前を倒して、私が……」

 言葉が不意にふみの喉の奥に詰まる。
 この言葉を口出したら、もう引き返せないと引き止められている様な気がした。
 【芥川ふみ】が今まで見たもの、聞いたもの、感じたもの、全てが塗り替えられてしまう、そんな気がしたのだ。
 だけど、もう、引き返せない。憧れていたものは、なりたかったものは崩れ落ちて無惨にも他者に踏み潰された。
 残ったのは己の在り方を忘れた悲しき獣と化した片割れの姿をした何かのみ。
 それが、許せなかった。
 何処からふみの名を呼ぶ幻聴が聴こえる。自身の名を呼ぶ、月に愛された白い虎の声…
 でも、もう振り返ることはできない。その名の人物は、この場で死ぬのだ。己の在り方を忘れた獣から憧れの座を奪い取り……

——私が【芥川龍之介】と云う存在になる。

 真っ直ぐに一点の曇りも迷いもなく告げる。

 目的に向かって突き進むその姿にふみと云う存在もまた【芥川龍之介】と同様に誇り高く、孤高の存在に見えた。
 だが、それをふみに教える者など、この場には誰も居ないのだ。
 いつも、ふみは大事な戦いの時は一人だ。【芥川龍之介】であれば、きっと側には人虎が居た。負傷しても心配性で優秀な部下達やぶっきらぼうだけど優しい上司が駆けつけてくれただろう。
 でも、ふみには誰も居ない。そして、これから先もきっと…【芥川ふみ】の側には誰も居ない。

 この戦いでどちらにしても【芥川ふみ】は死ぬこととなるのだ。

 勝てば【精神的な死】負ければ【肉体的な死】が【芥川ふみ】に訪れる。
 悲しくはない。苦しくもない。きっと【芥川ふみと云う存在】が消えたところで世界は変わらない。誰も悲しむ人はいない。

 【芥川龍之介】…唯、その名と存在さえあれば世界は回るのだ。

 そのことにふみは思わず笑みを溢した。
 所詮そんなものだと心の中で呟くと唸る黒獣に向けて言葉を放つ。

「【紛い物】と呼ばれた私が【本物】となる」

 その言葉に迷いはなかった。

——…ただひとつだけ、思うことがあるとするならば

「……人虎は、きっと怒るだろうな」

 自身を好きだと言ってくれた、あの、アメトリンの様な瞳を持つ少年のことを…少しだけ…最後に思った。