時給1200円というのは高校生の私からすると、とても魅力的な数字だ。

けれど、時給5000円級のバイトとともなると魅力的を通りすぎて少し、というよりなんかめちゃめちゃ怪しく感じるのは私だけではないはず。ううん、やっぱり怪しいにしても時給5000円は凄い。仮に4時間働いたとすると、もうその時点で2万円越えなのだ!とどこかの誰かに向かって熱弁してみた。今のバイトが決して安いというわけではないけど、この話が本当なら美味しすぎるバイトである。怪しいけど求人チラシに載っているくらいだし、怪しかったらその時どうにかすればいい。というわけで、明日はバイトが始まってから初の休日なので、気になるバイト先の面接に行ってみたいと思います。控え室でそう思案していれば、休憩終了のアラームが鳴ったので慌てて散らばっていた求人雑誌を片付ける。面接時の電話番号さえ分かれば良いので、適当に四つ折りにして適当にバッグへ詰め込んだ。急いでヨレていた制服を着直して、慣れ始めた店内へと向かう。
1週間。
ちょうどあたしがここで働き始めてから、既に1週間という月日が過ぎていた。学校は休んでいるし、1日大体5時間は働けている。元々1ヶ月は休もうと思っていたのだけれど、もしかしたら近々通えるかもしれない。お昼は失敗した大量のポテトやハンバーガーを食べていたらお腹は膨れるからお金はかからない。何より時給1200円のここでほぼ毎日働いていたら、段々と生活にほんのちょっとだけ余裕が出てきていた。その表れとして誇れる事が1つとしては、お菓子が買えたこと。もちろん普通のお菓子じゃない。中々手を伸ばせなかった298円のお菓子を。しっとりとしたチョコで包みました、のトリュフチョコレートを。ええ、包まれてました。お口の中でとろけちゃいました。そもそも日給制というのが凄くありがたい。とりあえずガス代水道代は払えたし、残るは己の生活費だけなのです。


「名字、8番テーブルお願い」
「はーい!」


佐伯先輩と入れ替わるように店内に入り、8番テーブルへと足を運ぶ。営業スマイルを即座に貼り付けて「いらっしゃいませ!」と言った時だった。そこに座るお客さんを見て、一瞬それが崩れる。いや、待て我慢だあたし。仮にも相手はお客さんなわけで私に払われる給料に彼の財布の中身も含まれているかもしれない。ピクピクと口元が思わずひきつる私とは対称的に、彼はニヤァと頬杖をつく。


「よ、1週間ぶり?」
「‥‥ご注文はお決まりですか」


おおっと、危ない。お決まりですよね、と確定させてしまうところでした。危機一髪。内心ホッと一息吐いて、改めて目の前の彼をじっと見つめる。そして一種のトラウマでもあろう光景が頭に甦り、慌てて顔を左右に振った。そう、あの人ある。バイト初日において初の接客相手だったあの人だ。緑の眼鏡君にメニューで殴られて「お前を殴るための存在意義なのだよ」とか言われていたあの彼が、どうしてか前回と同じ8番テーブルに座り、私に笑いかけている。以前と違うのは向かいに眼鏡のお兄さんはいなくて、彼一人といことくらいだろうか。しかし何でだ、何でまたお前がいるのだよ‥‥って違う。この喋り方は違うぞ落ち着いて。


「気になったからまた来ちゃった。あ、真ちゃんのこと気になるんだったら今あいつテーピング買いに行ってんだよね。なんなら呼ぶ?」
「結構です呼ばないでくださいお願いしますありがとうございます。ご注文はお決まりですか」
「ちぇっ。んじゃこのセットで」
「かしこまりました」


そそくさと彼に背を向けようとすると「待って」と腕を掴まれる。ガシッと効果音がしそうな行動にビクゥ!と肩を揺らせば、奴はさも楽しそうに笑った。怖い。何この人怖い。


「名前」
「は?」
「名前教えてよ!」
「……え」
「ちなみに俺は高尾ね」
「……名字です」


しぶしぶそう口にすると、高尾さんとやらは嬉しそうに口角を上げた。それが不覚にも少し可愛く見えてしまい、ボッと顔が熱くなる。な、何なの本当に!


「バイトって何時に終わんの?」
「……チャラ男」
「え?」
「はっ」


慌てて口を塞ぐように手を当てれば、彼はキョトンと動きを止めた。やっばい‥‥!何言ってんだ私!相手はお客様なのに!ついつい本音が出てしまった……!内心ダラダラと冷や汗をかきながら「し、失礼しましたぁ!」と今度こそ逃げるように背を向ける。そのまま仕事中なのも忘れて更衣室に駆け込もうとドアノブを掴むと、もう片方の腕を思い切り引っ張られて体が傾いた。なにごと!?驚いて首だけ振り返ると、ピシッと体が固まる。まるで筋肉や関節までもが石になったような感覚に襲われながらも「‥‥さ、えき先輩」と苦々しく口にした。しかし一方の佐伯先輩はというと、それはそれは見事な無表情で。これほどの無表情を私はかつて見たことがありません。


「仕事中にどこ行くの」
「え、あの‥‥これはその、」
「バイト1週間でもう仕事放棄出来る程偉いんだ、へえ」
「いや‥‥、これには事情があって、えっと」


と言いつつも、大した事情なんてありもしない。高尾という高校生にうっかりトキメキかけて挙動不審になった結果更衣室に駆け込もうとしてました!なんて言えるはずがない。チラリと8番テーブルに目を向けると、爆笑していた。確実にこっちを向いてこっちを指差して腹押さえて爆笑というより、ゲラゲラと馬鹿にしている。なんだか無性にムカついたので私も無言で親指を立てて地獄に落ちろポーズをしてみた。ら、佐伯先輩にペチンとおでこを叩かれたので反省したい。


「ったく‥‥もう明日も仕事にするから。決定。朝9時」
「あ、明日休みじゃないんですか!?」
「仕事を放棄しようとする店員に与える休暇はありません」
「そんなぁ‥‥!」


明日はあの怪しくも魅力的な給料のあのバイトについて調べようと思ってたのに‥‥!分かりやすくショックを受ける私に、それでも先輩は言葉を続ける。


「明日は絶対に遅れないように」


しかし、先輩に逆らえるほど私は偉くない。渋々「‥‥はぁい」と項垂れると、佐伯先輩は満足そうに少しだけ微笑んだ。そんな顔をされては断るものも断れなくなってしまうものである。ポンポン、と数回私の頭に手を乗せる佐伯先輩から目を反らし、全ての元凶である高尾を見れば、彼は相変わらずニヤニヤと笑っていた。とりあえず、もうアイツはお店から追放してやろうと思いました。


「(ププ)」
「(あやつ許せぬ)」








黄瀬涼太は明らかに疲れていた。
いつもはテンションが高くファンサービスも高い黄瀬だが、今ばかりは顔にまで疲労が表れてしまっている始末である。モデルとして、このような姿で街を歩くのはあまり良くないというのは本人も分かっているものの、流石にこの状態でニコニコと笑えるかと言われれば答えはノーだ。相手、しすぎちゃったッスかねえ。思い出すのは先程までの光景。そう、黄瀬をここまで疲れさせたのは紛れもなく彼のファン達だった。学校帰りに偶然サインを頼まれた1人の女子を筆頭に、次々とサインを申し込まれたのである。いや、そこまでは良い。今までにも何度かあった出来事なのだ。そう、そこまでは。ただ、今回は場所が悪かった。人間というのは人だかりが出来ていれば気になってしまうというもので、大して黄瀬に興味がない者まで「芸能人ならサイン貰っとこ」のノリで参加しだす始末である。
もうまるで何かのイベントじゃん‥‥と顔を引きつらせる黄瀬が、やや強行手段で人混みから抜け出すまで約4時間。


「はぁぁぁぁぁ」


盛大な溜め息を吐く黄瀬の足が向かうは、とあるファーストフード店。某ハンバーガー店とあまり変わらないのにも関わらず、テーブルで注文可という珍しい方式を取るチェーン店だった。ちなみに中高生には親しみを込めてクッパと呼ばれていたりする。
が、とりあえず黄瀬はあまり気が乗らなかった。しかし、明日はその店でモデルの撮影があるため、下見をしなくてはいけない。チラリと時間を確認すると夜の9時。
人、多いッスかねー。時間帯的には大丈夫そうな気もするんスけど。またファンの子いたらどうしよう、と悩む黄瀬は至って真面目なのである。クッパはもう目の前。入るか入らないかをという選択肢に迫られている時、何故か自動ドアが開いた。

え、と驚く黄瀬を余所に、中からは黒髪の女の子が出てくる。見た目だけを見れば、自分と大して変わらない。不覚にも、うげ!と上げる黄瀬。失礼すぎる。そんな失礼な声に気付いた彼女は、ゆっくりと顔を上げた。やっべ!と焦る黄瀬に反して彼女の口から溢れた言葉は、


「うげっ!」


だった。思わず「は?」となる黄瀬に、少女はハッと口を塞ぐと、次は何やらぶつぶつと独り言を言い始める。これは接客しないといけないの?でも仕事の時間外だし良いのこれ無視していいのていうか私今私服だ!無かったことにして良いんだ!いやでも!ほとんどがあまり聞き取れはしなかったものの、察しの良い黄瀬はすぐに彼女が店の従業員だということに気が付いた。従業員が客を相手に「うげっ!」はどうなのだろう、自分の事を棚に上げてボーッと考えていると不意に少女がバッと顔を上げる。何故かその目は血走っていた。


「めちゃくちゃ悩みましたが一応お客さんなのでどうぞ中へ」
「へ?」
「入らないんですか。ああ、私は別に良いですよチップくれるなら」
「チップってここ日本ッスよね!?」
「暫くお待ちくださいね、それでは失礼します」


ほぼ強制的に座らされた黄瀬は、勝手に頼まれたセットに突っ込む間もなかった。殴り書きしたメモを他の従業員に渡してさっさと自動ドアへと足を進める彼女に、ただただ視線を奪われる。


「‥‥何なんスかあの店員」


小さく呟いた言葉は、店のBGMに掻き消された。

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