寝坊した。手元にある目覚まし時計の針の位置を凝視してみるものの、時間が巻き戻るはずもなく、カチカチと無機質な音が部屋に響くだけ。瞳孔が開いていないか切実に心配だ。おそるおそる携帯に手を伸ばし、バイト先から連絡があるかを確かめてみる。も、もしも連絡がなければ人が足りているという事だし、仮に9時出勤なのに12時に起きてしまった馬鹿野郎がいたとしても仕事には大して差し障りなかったということなのだから、そうなってしまえばこのまま何かしら理由をつけて休んでしまえばいい。だって元々今日は休みの予定だったんだもん!なんて言い訳をしてみる。携帯を握りしめて「そうだよね絶対そうだよね」と思い切って携帯を開いてみた。ないよね、私1人が行かなかったくらいで別に仕事には何も支障はない私が行ったとこ、ろで‥‥、べ、つ‥‥に、


「っ、うわぁぁあ!?」


危うく落としかけた携帯を寸前のところでキャッチする。佐伯先輩、佐伯先輩佐伯先輩佐伯先輩佐伯先輩佐伯先輩‥‥エンドレス。ひたすらスクロールしても終わりが見えない恐怖。ていうか3時間の間に着信58件?先輩こわい。めっちゃ怖い。約3分に一度の間隔で電話してきていた。仕事は?先輩、仕事は?メールに関してはもうどこから突っ込めば良いのかもう分かりません。


「と、とりあえず行った方が‥‥い、いのかな?‥‥うん」


メールと着信履歴は、見ないように静かに電源を落としました。ご臨終。








「では、10分間の休憩挟みまーす」


スタッフのその一言で、現場の雰囲気はフッと軽くなった。張り詰めていた緊張感が無くなり、それは電池の切れた玩具のようにも見える。それぞれが肩の力を抜いて気を抜いているようにも見えたが、そうやって休憩出来るのはスタッフの方だけであり、厨房側は相変わらず忙しなく動いていた。休憩なんか無いといってもいい。むしろ人気モデルの取材に来られているというプレッシャーが、"休憩与えてやるから良いもの作れ"と言われているような気さえする。
所詮は気持ちの持ちようなのだが、それにしても新店舗であるこの店は従業員が少ない。普段接客を担当しているものまで今回は厨房に回されているし、スタッフのお昼まで用意しなくてはならないとなれば、猫の手どころか子猫の手を借りたいくらいだ。いっそ子猫の尻尾でも良いと、従業員Aは思った。あの柔らかく可愛らしい尻尾なら、見るだけで癒されそうである。


「佐伯!名字はまだか」
「‥‥連絡はしてるんですけど返事ないです」
「はぁ?ったく……全員スピード上げろ!」


名前の存在さえも今は必要不可欠だ。はい、とまばらに聞こえる従業員達の言葉を聞きながら、佐伯は店内を一瞥する。すっかり撮影の現場となっている店内は、スタッフ達がチラチラと時計を確認していた。つられて佐伯も自身の腕時計を確認すると、午後12時20分。ああなるほど、どうやら昼食を気にしていたらしい。お腹が空いたら人間誰だってイライラしてしまうものだなぁ。はぁ、と小さく息を吐いてポケットからスマホを取り出した。遅い、あまりにも遅い。着信も新着メールも無いのを確認すると、顔が引きつりそうになるのを抑えて、手慣れたようにアドレス帳からとある人物の名前を探し出す。短い文章を打ってメールを送信すると、初々しい手つきでスタッフの昼食用意に取り掛かった。とりあえず、寝坊する後輩にはお仕置きが必要である。








「ひぃ!また来た!」


ピロリン。
可愛らしいメロディと一緒に表示される佐伯先輩の文字。内容はもう見なくても分かるため、ただただ携帯を握り締めてクッパへと向かっていた。大して体力もない人間がいきなり全速力で約1km走るなんて無茶すぎる。はぁはぁと息を乱して走っていれば、赤信号に引っ掛かって余計苛々した。楽しげにキャッキャとデートしている高校生が憎たらしい。べぇぇと内心舌を出しながら中々青にならない信号に体を小刻みに揺らす。急いでいる時の赤信号ほど苛々するものはないと私は思う。


「あの、」
「ひぁぁ!?」
「え?」


突然控えめに叩かれた肩と声にビクゥ!と過剰反応してしまう。驚いて振り向けば、向こうもまた驚いたようで、薄い水色の目をぱちくりと開いてきょとんとしていた。だ、誰ですか。


「あ、ごめんなさい、びっくりしちゃって‥‥あはは」
「いえ、僕も突然声をかけてすみませんでした」
「いやいや、全然大丈夫!で、あの‥‥何か?」


チラリと信号を見れば、パッポーと気の抜ける音を鳴らしながら青に変わっている。驚かせたのは悪いけど、あまり時間はない。そわそわとしながらそう尋ねれば、彼は「すみません、」ともう一度謝罪を口にした後「クッパってどこにあるか分かりますか」と首を傾げた。クッパ?と今度は私がきょとんとする番で、確か今日はどっかの事務所が貸し切っているんじゃなかったっけ‥‥と同じく首を傾げてしまった。向かい合って首を傾げているというのは中々見ない画である。どちらにせよ今の私には時間がない。少し疑問点はあったものの「今からクッパ行くんですけど一緒に行きますか?」と聞けば、彼はコクリと頷いた。慌てて信号を見ると、チカチカと点滅していたので急いで駆け出す。すると後ろの彼も着いてくるような気配がしたので、なんだか不思議な気持ちになった。







「ちょ、ごめんなさい!急いでるんで先行きます!真っ直ぐに見えるあれがクッパなんで!」


互いに猛ダッシュで走ったせいか、息が荒い。上半身を折り曲げながら無言で手を上げる彼に負い目を感じながらも、向かうのはただ1つ、クッパである。その間もピロリンと定期的に鳴る携帯はもう鞄の奥底に仕舞い込んだ。


「‥‥ふぅ」


そして、クッパの入り口なう。
本日貸し切り、と書かれた看板が控えめに貼り出されており、それでいて妙な存在感を湧き立たせていた。やっぱり貸し切りだ。ふと、まだ私の後ろにいるであろう彼の顔がシャボン玉のように脳裏に浮かび上がったが、それも突如として開かれた自動ドアに意識が持っていかれる。え、と顔を上げれば少し陰のかかった彼は驚いたように目を大きくした。ここから出てきたって事は今日貸し切りしたモデル事務所の関係者?しかし、どっかで見たことある。
暫く時間も忘れて見つめていたせいだろうか。気まずそうにする金髪の彼は「あー、今忙しいから従業員なら早く入った方が良いっスよ」と道を開けてくれた。その声に、慌てて視線を逸らす。


「す、すみません!それじゃあ!」


寝坊で減給なんてされたらたまったもんじゃない。いや、既に補えない程の時間を過ぎてしまっているんだけど、それは置いといて。閉まりかけている自動ドアに身をすり込ませようと足を動かした時、グイッと強く腕を引っ張られて体が後ろに傾いた。は、え?転けなかったのはヒールではなく運動靴だったからなのだろうか。「うわっ!」と女子力の欠片もない声を上げながら、腕から伸びる手の先を辿れば困惑したような顔をする彼。困惑したいのはこっちなんですけど、え?


「え?あの‥‥え?」
「‥‥な‥‥スか?」
「は?」


早く入った方が良いッスよって言ったの‥‥え?貴方じゃないですか、え?何、え?あからさまに挙動不審になる私に、彼は口を力強く閉じるとソッと腕を離した。え‥‥え!?何故かそのまま背中を押されたので、喉元まで出た声を飲み込むざる得ない。

「え、あの」
「‥‥名字」
「ヒィ!?この声は!」


バッと声のした方へ振り向けば、言葉に出来ない怖さを含んだオーラを撒き散らしてる佐伯先輩にピシィと体が固まる。その手には何故か皮剥き器が握られていた。先輩、それ、凶器です。


「えぇぇ!ちょっ、落ち、落ち着いて下さい!あの、確認!それ凶器ですか?え!?凶器!?」
「連絡、ぐらい出来たよな」
「うわぁぁ!?ごめんなさい!怖い!置いてください!それ!警察に迷惑かけちゃいけません!めっ!」
「‥‥‥」
「ひぃぃい!?」


閉まった自動ドアから、感じた視線は、

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