「佐伯先輩。外に女の子達数人が店入らせろって言ってますけどどうしたらいいですか」
「断って諦めてもらって」
「はーい」
「先輩ー、また外に女の子達数人いるんですけどどうしますかー」
「諦めてもらって」
「せんぱーい、外にクーポン持った小さい子供がいるんですけど、」
「飴玉あげて帰らせて」
「先輩、外に女子高生が数人」
「帰ってもらって」
「せんぱーい、外に女の子がいま」
「帰らせて」
「先輩、なんか外に」
「帰らせて」
「先輩、」
「帰らせて」


パキィン。佐伯先輩の手の中にあったはずの卵が、物騒な音を立ててあらゆる方向に跡を残した。幸い、周りの人達は自分の事にいっぱいいっぱいなためか、モザイクのかかってしまいそうな光景に気付いていない。幸せな人達だ。指の隙間からドロリと溢れ出す黄色い液体は、まるで佐伯先輩の怒気を具体化したようにも見え、不覚にもぶるりと背筋に冷たいものが走った。……あんなドロドロしたものが怒気の具体化されたものなんて考えただけで嫌だけど。
というよりも、相変わらず少し眠そうな目で卵を握り潰してしまうのだから、見た目とは宛てにならない。無害そうな顔しやがって実はラスボス級モンスターである。ていうかボスである。むしろ全クリして初めて戦えるシークレットモンスターである。真っ直ぐこちらを見つめる漆黒の瞳には、ゆらゆらと負の感情が揺れていた。漫画でいう、憎しみで目の色が赤く変わっちゃった超現象だね!みたいな感じなのだけど、佐伯先輩の場合周りの人が真っ赤になっちゃったよ殺人現場だねワオ!みたいになりそうなので、機嫌を戻すことが一番大事だ。彼に関しては洒落にならない。


「か、帰らせてきまぁす」


そろりそろり、一歩二歩と後退しつつ、やがて思い切り背を向けて出入口へと走り出した。ら、何やら黒い物体に足が絡んで思い切り床に転がり込んだ。「ぅ、え?」べちゃあ、とそれこそまるで漫画のような転け方をしてしまい、幸いと思えたのは撮影のため綺麗なマットが引いてあったということ。‥‥恥ずかしすぎる。慌てて立ち上がろうと床に手をつけば、目の前に差し出された手。妙に白いその手の先を辿ると「大丈夫ですか」と、水色の髪をした彼は微笑んだ。


「‥‥え?あ、君は‥‥!」
「さっきぶりです」
「外、貼り出してたんだけど‥‥あれ?」


混乱する私に彼は「とりあえず、ほら」と言って私の手首をグッと掴んだ。そのまま勢いよく体が引っ張られて、チクチクとしたマットから離れていく、けれど彼は大事な事を忘れていた。私は何かに引っ掛かって転んだのである。そう、引っ掛かったのだ。視界の端に見えたのはカメラマンさんだったから、恐らくそれはカメラのコード。ということは、まだ足に、


「う、えぇえ!?」


やっぱり絡みついていた。両側からかかる力に、佐伯先輩の恐怖で生まれたての小鹿みたいになっていた私が耐えられるはずもなく、ヒィィと情けない声を上げながら目の前にいる水色の彼目掛けてダイブする。え、と無表情に近かった水色の瞳が少し大きく見開かれたと同時、私は見事に彼を巻き込んでもう一度スライディングした。ドサ、と重たい音が耳を通り抜け、少し遅れて擦れたような痛みがじわじわと膝を襲う。
いてて‥‥剥き出しだった足の痛みに意識を奪われながら瞑っていた目を開くと、目の前には驚いたように上半身を浮かせる水色の彼がいる。


「っ、ごめんなさいぃ!」
「い、え」
「ほんとごめんなさい!ごめんなさいごめんなさい!でもクリーニング代とかは払えません、ごめんなさい!」


マッハで彼から身を離すと、ぐるぐると頭が回らない私はお金の事ばかり考えてしまう。お金、お金お金。今度は一体何人の野口さん達が消えてしまうのだろう。この間電気代やらガス代やら払ったばっかなのに。もう既に余裕はないのに!ヨロヨロと彼から距離を置いて、頭を抱える。脳内に途切れる事なく流れ続けるのは笑顔で手を振る野口さんと諭吉さんだった。ううう……そのまま床にしゃがみこめば「黒子っち!?」近くで透き通るような声がして、ピクリと耳が反応する。そして気付いてしまった。店中の視線が、私と彼に注がれているということに。何とも言えない恐怖に身体が固まっていると、声の正体がコツコツと革靴を鳴らして


「‥‥黒子っち?」
「あ、黄瀬君」
「は?え、何で黒子っちがここにいるんスか」
「僕は偶然そこで会った桃井さんに用事を頼まれただけです」
「桃井っちにこれ預けたっけ?」
「この間の時、間違って落としたんじゃないですか」
「そうッスかね」


目の前で繰り広げられる会話に、ついていけない私。頭の中は、もうパンパンだった。モデル事務所の取材というから、食べ物特集みたいな感じで店内を撮影するだけかと思いきやである。‥‥何だこのスタッフの数は。まるで猪が群れてるようだ、と表現すれば佐伯先輩に頭を叩かれたのでお口チャック。それよりあの白い壁は一体何だろう、あの照明は一体何だろう、このカメラマンの数は一体何だろう、と考えた結果。


「‥‥撮影?」
「うん」
「え、まじなやつ?」
「まじまじ。おおまじ」
「じゃあモデルさんとか‥‥来るみたいな感じですか!?」
「うん」
「ええ!?どこ!?」
「あれ」
「え?」


あっけらかんとそう言ってピシリと指を差した佐伯先輩。人を指差しちゃ駄目なんですよ!なんて思いつつも、寝坊してきた人間が人の事言えるわけもないので、無言で指先を辿ってみる。内心ワクワクである。だってモデルさん。自分の見た目とプロポーションだけを武器にお金と人気を稼ぐ強者はモデルさんだけなのだ。なんて羨まし‥‥いや、決して楽な仕事だなんて思っているなんてそんな!私だって見た目が良ければモデルして稼いでたわなんて決してそんなこと!


「‥‥って、どこなんですか?モデルさん!」
「だからあれ」
「え、まじでどこですか?モデルさん?歩けば金が湧くラッキーガールなんてどこにも!」
「‥‥あの黄色い髪の」
「別にモデルさんに黄色い目、を‥‥つか、お、うなん‥‥、て‥‥え?」
「あれ、モデルらしいよ」


モデル‥‥さん?
ヒクヒクと意志とは無関係に動く口元をバッと両手で押さえて、キリキリと隣の佐伯先輩を見上げる。どこか冷めたような無表情でクイッと顎を動かす先には、水色の彼と‥‥さっきの金髪さん。まじか。モデルって男の子モデルさんですか。もしかして今一緒に喋っている水色の彼もモデル仲間さんだったり?‥‥と、その時少し前の出来事が脳裏を掠めた。ま、まずい。彼もモデルなのだとしたらやばい。とてもまずい。モデルさん押し倒しちゃった。それもこんな大勢の前で。どうしよう。え、どうしよう!もしも仮にスクープになったとして、え、お金払えとか言われるのだろうか、何か言われるの?またお金請求されるの?またお金!ああまたお金だ!人生金ばっかりだちくせう!


「‥‥佐伯先輩」
「何?」
「人1人入りそうな穴ってどこにありますか」
「は?」
「お金なんてもう払えないですただでさえ1日1日生活するのに必死なのに賠償金払えとか言われてもそんなの無茶です」
「‥‥何言ってんの」
「というわけで払えと言われる前に逃亡します。また明日!」
「……病気?」
「マジレスやめてください」


言いつつも既に自動ドアに向かい逃亡を図っている私に、佐伯先輩は相変わらず眠そうな顔でヒラヒラと小さく手を振る。一応見送ってはくれるんだな、と軽く感動していれば、佐伯先輩の視線が横にずれたような気がした。
ウィーン、聞き慣れた音を鳴らすドアが開くと、ガヤガヤとしたいつもの街が目に入る。なんか久しぶりな感じがして、思わず思いっきり息を吸い込んだ。時間にして数時間ぶり。いや、たかが数時間なのだけど!でもでもあの内容の濃い数時間、体感的にはそのまた倍ぐらいなのだから、懐かしく感じるのも仕方ないと思ってほしい。はぁ、少し暖かさを含む風が髪を揺らした時、何かに気付いた。‥‥何か妙に身軽じゃないだろうか、私。凄く体が軽い。重さがない。荷物がない。‥‥荷物が、ない。


「カバン、忘れた」
「これッスか?」
「‥‥!?それは!」


にょーん。そんな効果音が似合う動きで視界に乱入してきたのはマイバッグだった。しかし、掴もうと手を伸ばせば、それは触れる直前でまた視界から消える。空振りした両腕は虚しくも宙を切ったまま、動きを止めた。意図的に動かされるカバンを追うべく体を反転させると、片手をポケットに突っ込む金髪さん。確か、この人さっき店内にいたモデルさん‥‥じゃ?そう思いつつも、今の私の最優先事項は財布の入ったカバンで。「あの、カバン、」少し控えめに口を開けば、金髪さんはカバンをゆらゆらと揺らしながら「返してほしいッスか?」とまるでガキ大将のような台詞を口にした。そもそもそもは私のカバンですけど‥‥!返せも何も私のものですけど……!財布という第2の心臓が入っているせいで内心冷や汗しかかいていない。それでも相手はモデルさんらしいので、喉元まで出た声は寸前で飲み込んだ。モデルじゃなかったら力ずくで取り返しているところだ。
そうして再度、彼は口にした。「欲しいッスか?」当たり前だ。真面目にカバンは早く返してほしい。何のためお預けを食らうような展開になっているのかは分からないけれど、とりあえず本当にカバンは返してほしいので何度も首を縦に振る。すると、金髪モデルさんはニコッと甘い笑顔で口許を緩ませた。


「良かった。じゃあ、ちょっと仕事手伝ってほしいッス」
「‥‥はい?」


わたし、帰るつもりだったんですけど、分かってますか。

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