「ちょ、熱い熱い熱い!当たってます当たってる!」
「‥‥何があったの」

半泣きである。
ぱちぱちと目を瞬かせながら見てくる佐伯先輩の視線が痛かった。ううん、何よりもっと痛いのは水色の彼が無表情かつ無言で私を見ていることだ。無表情でじっと見られるような光景ではないし、もうなんか色々と辛い。
思わずバッと手で顔を隠せば「はいはい動かないでねー」と化粧道具を両手に持つ女の人が眉をピクピクさせてくる。控えめに言ってもこわい。


「あー動かないでほしいッス」
「……熱っ」
「だから動くなって言ったじゃないッスか!」「いや、だから熱っ、ちょ、」


じゅうじゅうと音だけでいかにも熱そうな武器を髪に巻き付けてくるのは、モデルの黄瀬君である。
何故こんな危険なものが彼のような高校生の手にまで渡っているのだろう。
最近のお金さえ出せば何でも手に入るという風潮はよくないと思うんです。

だってこれ。
まさに兵器。むしろ凶器。
聞くところ、最近の女子高生は誰でも持っているというのだから、さらに恐ろしい。
ほんと、思い返してみれば身の回りのものはなんだって凶器になりうるんだ。
なんてこったパンナコッタ。「だから動かないで」再度言われた声に反応して熱い熱いと喚いていると、ぷしゃぁと顔に霧のようなものが降りかかる。時間にして僅か二秒。妙にベタベタするそれに、眉間に皺を寄せて思い切り顔を左右に振った。ら、またメイクさんに睨まれたのでもうひっそりと穴に消えたい。犯人は黄瀬君なのに、どうして私が無言の圧力を受けなければならないのか。一気に冷めた頭でボーッと考えてみる。カランカランと、麦茶の入った氷が音を鳴らした。


「‥‥‥ベタベタする」
「うるさかったんでつい。後ちょっとだから大人しくして ほしいッス」


にっこりと笑いかけてくる彼の目の奥は笑っていなかった。
いや、だから何で私が怒られているのだろう。やってられねえ、別に黄瀬君の言うことを聞く必要性も特にないので立ち上がろうとひじ掛けに手を立てる。そのまま足を伸ばそうとすると、目の前のメイクさんとバッチリ目が合った。絶対零度の笑顔である。泣きたい。


「‥‥えへ」


とりあえず、座り直しました。






「出来たッス!」


直接鼓膜に響くような声に、バチッと目が醒めた。まだ重たい目蓋をこじ開ければ、驚いたような、なんとも言えない表情をしたスタッフさん共々が視界に入る。な、何事だ、これは!ただ事ではない事だと悟りつつ、まだ眠りから覚めきっていない目をごしごし擦った。‥‥あれ?


「‥‥ん?」
「あー!何 擦ってるんスか!メイク取れちゃうッスよ!」


バサバサしていた。
一瞬触れてはいけないものに触れてしまったのかと思ったが、私の顔についているんだから間違いなく私の目である。けれど、おかしい。何が起きているんだ。まるで鳥の羽みたいだった。小学生の頃、友達とふざけて睫毛を抜きまくっていたはずの目が。そう。もう一度言おう。バサバサしていた。大事なことなので更にもう一度言おう。バサバサしていた。気になったので、今度はちょっと慎重に触ってみる。やっぱりバサバサしていた。しかも妙に長い。こんなの私の目じゃない!何これ怖い!


「な、なななな何したんですか!」
「何がって?」


きょとんとしたように両手をぷらぷらさせる彼に詰め寄れば「いやぁ、変わるもんスね」とニッコリと微笑まれる。
奇襲されていた。私が寝ている間に。これぞ、襲撃されていた。襲撃どころか大半を黄瀬君がしたメイクとやらに占領されてしまっている。これはもう戦争しなきゃである。


「わ、私はカバンを返してほしかっただけなのに…っ!」
「でも呑気に寝てたじゃないッスか」
「くっ…」
「まあいいや。マネージャーさん、準備出来たッスよー」


当然のように彼は私の手を取った。キラキラと今にも零れ落ちんばかりの瞳をこちらに向けながら「おいで」とまるで別人のように囁く。そして思った。誰ですか、この人。


「あの…いやで」「そう…じゃあ無理矢理奪うしかないッスね」


だから誰ですか、このキラキラ王子様ムードに酔いしれている人は。


「何時間もこうしてるわけじゃないんスからちょっとだけ我慢してくださいッス。こっちも撮影なんで」
「……撮影?」
「モデルなんだから撮影くらい当たり前ッスよ」
「じゃあ何で私が?」
「まあ…それは来月あたりに分かるッス」「……ん?」
「とりあえず、今はお姫様の気分にでもなっといて」


悪いようにはしないッス。そう言って私の手を取る動きは驚くほど優雅で気品さえ感じる。
極めつけにニコリと、彼は笑った。黄色い髪を揺らしてわざとらしく目を伏せる。お姫様って何なのだろう。
ていうかそもそもお姫様になれたらこんなにお金に苦労しない。
なんなの、お姫様って。
今の私からすれば対極の関係であって。
それでも紛れもない羨望のスポットを浴びている存在で。悔しくて。羨ましくて仕方なくて。

何もしていないのに何も不自由しない。
何も不自由しないからこそ何もしない。
……ああ、どうしよう。すごく、嫌なやつだ。


「お姫様とか…なったことないんでちょっと分からないです」
「 え?まあ誰でもそうッスよ?」
「あー、なんていうんですかね、こう、あたし貧乏なんで、その、」「休憩終了!撮影再開するから位置戻って!」


大袈裟なくらいビクリと体が揺れた。私このまま何言うつもりだったんだろう。これじゃあ八つ当たりの他ないよ。ああ、情けない。


「ん?誰アンタ。モデル?そんなの聞いてないんだけど」
「あー、この子はゲスト参加っつーかなんつーか…」
「やっぱモデルなの?もうマネージャー誰?ちゃんと報告してもらないとこっちも忙しいから対応できないじゃない。ちゃんと事前に連絡するようにマネージャーには言っといて。黄瀬くんも時間ないからさっさと撮影終わらすわよ」
「ういーっす。ほら、行くッスよ」
「……待って、行くってもしかして、」
「もちろん。撮影に、ッスよ?」


顔に浮かべたのは小憎たらしいほどあざとい笑顔。絶対張り付けてるだけだよあれ、何考えてんのこの人。ていうかあの女の人も何で気付かないの。ヒクヒクと口元が引きつった。


「いやちょっと待って落ち着こう。何でおかしい」
「カバンはー?」
「なっ!カバンカバンって言うけど私何にもしてない!」
「それがしちゃったんスよねー。人っていつの間にか傷つき傷つけあう関係になってんだから怖いもんスよ」
「だからって撮影とかどうなってんの!」
「大丈夫ッスよ」
「大丈夫って何が!」
「だって、ほら」


手渡された小さな鏡。そこに映るのは、「ね?誰だか分からないっしょ?」


「……詐欺だ」
「人って変わるもんスね、ほんと」
「髪の毛巻かれてる…」
「そりゃ巻いたッスもん」
「目が…大きい」
「アイメイクしたらそんなもんじゃないんスか?」


今まで私がメイクというものをしなかった理由はただ一つ。
お金がなくてメイク用品なんた買えなかったからだ。高校入ってから毎日バイト三昧。
学校には事情を話しているから単位のことはそれほど気にかけなくていいとはいうものの、まるで女子高生らしい生活をしたことがなかった。

スカートは長いまま。
可愛いアクセサリーもない。
メイクも、したことない。


「私が…メイクしてる」


嬉しくないはずの状況で感じたものは、感動に違いなかった。







「何かあったんですか」
「さあ?うちの社員が芸能界デビューするかもって感じ」
「……驚かないんですね」
「何が?」
「いえ、何でもありません」
「でも名字も化粧したら変わるものだね」
「止めないんですか」
「偶然と奇跡は紙一重だし俺にそれを止める理由もないし」
「……そうですね」
「ていうか君だれ?」
「すみません、申し遅れました。誠凛高校黒子テツヤと言います」
「……名字と同じ学校?」
「?学校で見たことないんで多分違うと思います」
「そう。あのモデルとは知り合いなの」
「……元同級生です」
「ふーん」


宇宙を見ているような暗い瞳は、やがてソッと目の前にある泡に濡れた皿へと視点を移した。

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