既に1年の半分が過ぎた。冷たい風が吹く時期の今となっては、インターカップも地獄のようだった夏の合宿も、全部が随分と昔のことのように感じる。次の目標はウインターカップだ。気を抜いている時間はない。それに向けて厳しい練習も再開し、火神くんも他の皆も自分の弱点を見つけて更に強くなろうとしてる。ミスディレクションが通用せず、目の前が真っ暗になった僕自身も。そうして時間は過ぎていく。二学期なんてついこの間始まったばかりじゃないか。マフラーを巻いているサラリーマンとのすれ違いざま、小さく愚痴をこぼす。あと一ヶ月もすれば当然のように終業式は迎えに来て、冬休みに突入し、またバスケ部の監督の集中的な練習が幕をあげるんだろう。あっという間だ。これ以上なく、呆気ない。
コツコツと上履きを鳴らして歩く廊下はやけに静かだ。ガラリと教室のドアを開けて中に入る。誰にも気づかれることなく、そのまま着席。途中で肩をぶつけた田中くんが「あれ?今誰か押した?」と首を傾げていた。押してません、ぶつかっただけです。「え、つかまじで俺何に押されたの!?」「田中の守護神じゃね」「うっそまじで!俺ってもしかしてアレ!?」守護神じゃないです、勝手にアレにならないでください。
座っても特にすることもないので、いそいそと一時間目の教科のノートやら教科書やらを机に出して先生が来るのを待つ。それでもやっぱりすることもないからボーッと今日の朝練の様子を振り返ってみる。今日は普段よりもパスの精度が落ちていた。少し夜更かしをしてしまったからだろうか。今日はいつもより早めに寝よう。チャイムが鳴るまでの数分間、この微妙な時間が僕はあまり好きではなかった。チラリと隣の席を盗み見るも、まだ主人の姿はない。否、今日も、その席に座っているはずの主人の姿はない。考えてみれば僕が気づいた時には僕の隣はいつだって空席だった。『あの席って誰だっけ?』ある日の終礼以来、とある男子生徒が不思議そうに先生に尋ねてからというもの教室間で暗黙の了解となりつつあることがある。困ったように眉を下げた担任の教師が何も言わなかったからだけじゃないだろう。不気味だったのだ、少なからずは。顔と名前が一致しだすのに大体は一ヶ月はかかり、逆に一ヶ月もすれば大体のクラスの様子やグループの散らばり具合は分かってくる。そんな中、ずっと休み続けている不登校児という存在はただただ不思議で不気味だったんだろう。理由が大っぴらに公開されているならいざ知らず、だ。


「……」


不思議に思って何度も名簿を見た。クラスの名簿を見て、教室内にいるクラスメートの顔と名前を一致させていった。だから名前は分かる、不登校の隣人さん。おそらくは女子であるだろう隣の席の彼女。ジジジ……と小さく唸るスピーカーから、一時間目のスタートを告げるチャイムが鳴った。
隣を見る。いない。

今日も不登校な隣人さんは、姿を見せない。





悩んでいることがある。すっごく悩んでいることがある。それは今後の生活に大きく影響するような、一大決心にもなりうるものである。ギリリと目の前に佇む白い物体を睨みつけながら数歩後ずさり。そのすぐ側には赤い文字でデカデカと書き殴られた"入れ放題1000円!"の文字がチカチカと点滅していた。紙に穴をあけて後ろから光を当てているらしい。なんてこった。手の込んだスーパーである。
そんな中、ゆっくりと視線を手の中にある財布の中へと向けてみる。銀色に輝く硬貨の姿は見当たらない。つまり硬貨はない。しかし、しかしだ!制服の内ポケットには今日分の給料が姿を隠しているのである。その額なんと野口が6人分。6分の1、たかだか6分の1で入れ放題というのなら、ワン野口で私の神業的テクニックを発揮できるというのなら安いのではないだろうか……!いやでも待って確か今日か明日かまでに光熱費払わないとダメだった気がする。そんなに高くはなかったと思うけどファイブ野口で乗り切れるとは思うけど……!けど特に今とても必要なものでもないから贅沢というカテゴリに入ってしまうかもしれない。もっともっといえば、ワン野口があれば安い服が買える……!どうするあたし、どう、す……る……!


「……あれ?名字さん?」
「ファースト野口セカンド野口……待って野口たちを離れ離れにしてもいいのか……?」
「名字さん」
「あああ決まらない!500円だったらやるのにバカ!イケズ!」
「名字さん」
「どうしようほんとどうしよう。でも卵で入れ放題とかなくない。しかも卵ってオールマイティアイテムじゃない。やっぱお得……え、あれ、腕?いだっ!」
「何で気付かないんスか!難聴なんスか!」
「へ、あ、あなたはこのあいだの……!」
「久しぶりッスね。スーパーのど真ん中で独り言とかほんと怖かったんスけど」
「そんな怖い人に声をかけちゃうあたりレベルは同じなんでしょうね」
「一緒にしないでくれる?」
「じゃあ何で声かけたんですか!」
「別に。ただ知り合いが情けないことしてるのが耐えられなかっただけッス」
「う……さすがモデル貧乏人の敵……!」
「つーかさ前から思ってたんスけど、あんたって」


金に困ってるんスか?
キョトンとした表情と共に、言葉は落とされた。金に困ってるんすか?その台詞に特に意味はないんだろう。単純かつ純粋で、深い意味なんて微塵もないただの疑問。けれど金に困っている、その言い方に少しだけ視線を泳がせた。お金に困っているといえば全くもってその通りなのだけど、改めて突きつけられると弱ってしまう。相手が若いっていうのもあるのかもしれない。同い年くらいの人にそんな事を言われてるんだと思ったら情けなくなった。脆い豆腐メンタルが今にも崩壊しそう。そうだよね、普通の高校生なら今頃家でゆっくりしてるか、友達と遊んでるかのどっちかだよね。時間にして僅か数秒の沈黙。互いの顔を見つめあって黙っている姿は、はたから見れば恋人同士。
……なわけもなく、スーパーの特売のど真ん中で向かい合う若者2人組は邪魔者でしかなかった。あれよこれよとおばさん達に退けられて、いつの間にか店の外へと追いやられてしまっている。ああ私の詰め放題が……フォース野口を握りしめて自動ドアの奥へと思いを寄せるものの、共に投げ出されたモデルさんが「毎日そんなことしてんの?」ポツリと呟くように口を開いた。


「んん?何がです?」
「だから。毎日こうやって安いスーパー行って特売探して生活してるのかって聞いてるんス」
「え、あ、はい。安いに越したことはないですから」
「……ふーん」
「え……え!」
「何?」
「こっちの台詞ですよそれ!私なんかしましたか!」
「……いや別に。あーさむ」


それだけ言って、黄瀬さんは黙ってしまった。ズボンのポケットに手を突っ込んで、端正な顔を軽く歪めながら体を縮こまらせている。あたしも同じようにポケットに手を入れてみた。けど浅いカーディガンのポケットは、どう手を突っ込んでもいまいち格好がつかない。ショーウインドウに映る黄瀬さんはそんな姿でさえも様になっているのに、あたしといえばサッカー選手の真似をする小さな子供のようだった。はあ。何やってるだろうあたし。こんなことしてる暇あったらバイト延長してお金もらった方がよっぽど有意義じゃないか。なんて思っても思いが声になることはない。
ショーウインドウをぼーっと見つめていたら「女子がそんなことしちゃ幻滅ッス」ぬっと視界に現れた白い手があたしの両腕を掴み上げた。ポケッから出された手はプラプラと空中で揺れている。犯人は言わずもがな黄瀬くんであり、口を尖らせ地面を見つめるその姿はまるで拗ねている子供みたいだ。拗ねたいのはあたしなのに。


「あの……」
「何」
「いや、その……腕」
「ああ、はい」
「あ、どうも……」
「……」
「……」


なんだこの沈黙は……!あたしに一体何をしろと言うんだ……!
耐え切れずにあははと笑ってみたが、当の黄瀬くんは無表情に近い微妙な顔で頭を掻いていたので、すぐに下手くそな笑顔は取り消して瞼を伏せた。もしかすると、あたしが嫌な気分にさせてしまったんだろうか。スーパーで吟味してただけなんだけどなぁ。ていうかもう1000円入れ放題は諦めるしかなさそうだ。誠に無念、また次の機会を狙うしかない。
なんだかなぁ、と安っぽいヒールで地面を蹴ってみた。案の定鳴るのは安っぽい甲高い音。カン、と響く音は小さいけれど無言の私たちには大きな音だったようで、黄瀬くんは驚いたように肩を揺らしていた。ごめんなさい、今の音の発生源はあたしの靴ですそんな怖い顔して後ろ振り向かないでください音慣らしたの目の前にいる小さいやつですごめんなさい。心の中で謝りながらペコペコと頭を下げる。ふとした時に斜め45度なお辞儀が出てきてしまうのは、バイトをしている人なら分かるであろう悲しき癖である。けれどそんな私を見て黄瀬くんは大きな瞳を更に大きくかっ開いて引いていた。何で!?とその態度に憤慨するが、そういえば心の中で謝りながらってことは、無言で高速お辞儀をしているってことか!
自覚してしまうと急に恥ずかしくなってきて、熱い耳を抑えながらてへッ☆と誤魔化すように笑う。相変わらず彼はドン引きといったような顔をしていたけど、暫くしてから口周りがヒクヒクと揺れて、最終的には「ぶはッ」と吹き出した。え、突如噴出されて困惑するあたしとゲラゲラ腹を抱えて笑い出す黄瀬くん。


「も、アンタ……ぶはッ…ほんと何なんスか…!」
「え、ええ、ええええ!?」
「はぁ…ほんと、アンタみたいな人初めてッス」
「あ、ありがとう……?私も貴方みたいな人初めてですよ」
「俺さ、正直お金ないーっていうの、どうせお小遣いが無くなったーとかそんなもんかと思ってたんスけど」
「……はい?」
「ほんとにお金なかったんスね。あ、別に見下してるとかそんなんじゃなくて、大変なんだなって思ったッス」
「は、はあ」
「だから協力したげる。はい、これ」


ぽすん、と渡されたのは薄い雑誌だった。なんだなんだと渡されたそれに視線を向けてみると、ピタリ、と動きが止まる。全身の筋肉が凝り固まってしまったかのように一寸たりとも動かない。表紙には黄瀬くん。先ほどの爆笑姿とも無表情とも違い、上目遣いで睨むように髪をかきあげている。きっとカメラ向けの表情なんだろう、さすがだ。しかし問題はそこではない。そこではない。その隣にいるのは誰だ。モデルさんか。いや違う。待って、違う。これは誰よりも私自身が知っている顔だ。どうしてここにいる。どうして貴様がここにいる。どうして貴様がすまし顔で黄瀬くんの隣にいる。どうして…どうして…!


「どうして私!?」


にんまりと笑う黄瀬くんがただただ怖かったので雑誌はぶん投げました。

ALICE+