子供の頃、憧れていたものがあった。
それはお花屋さんだったりモデルさんだったり、はたまたテレビの向こう側の美少女戦士だったり、みんなを守るヒーローだったり、憧れという言葉はあらゆる形に姿を変えて私の世界を彩っていった。けど、それはあくまで憧れ。自分からと一線を引いたといってもいい。見ているだけで良かったんだ、別になりたかったわけじゃない。いいなぁ、かっこいいなぁ、可愛いなぁ。そうやってステージという塀を挟んだ観客として、見ているだけでよかった。それだけでよかった。それなのに。


「何で私!?」


呆気なく、私の憧れは手元にやってきてしまった。望んでもいない形で。





「……」
「……」
「…………」
「…………」
「……………」
「……………」
「………………ねえ」
「………………はい」
「そのあからさまに落ち込んでるオーラどうにかならないの?」
「あーちょっと厳しいですね。細胞が落ち込みたがってるっぽいんです」
「……単細胞」
「……」
「……」
「……」
「あんたのことだけど」
「私のこと!?」
「単細胞って自分で言ったじゃん」
「単細胞とは言ってません!」
「……はあ」
「私だって溜息吐きたいってんですよ!」
「……」
「ごめんなさい」


目を逸らして握っていたモップを床に押し付けた。今日も中々の汚れ具合、さすが人気ファーストフード店。油汚れがいい感じです。磨きがいがあるってもんですよ。おいそこの佐伯先輩、磨きたてピカピカの床様に躊躇なく足跡をつけるとは何事か。キュッキュッと音をたてて足跡を消しながら「お客さん来ませんねえ」なんて呟いてみると、数秒の空白の後小さな溜息が背後から返ってきた。先輩がこんなにもいっぱい溜息を吐くなんて珍しい。今日のクッパは高くつくぜ?キリッと決め顔を作って振り返る。振り返ると同時にぺちりとおでこをチョップされた。ナイスヒット、ナイスチョップ。そして長い睫毛を伏せると「この間、」と薄い唇を開いた。


「見たよ、雑誌」
「え!?先輩が!?え!?そんなに有名な雑誌なんですか!?」
「あー、というより黄瀬涼太が持ってきた」
「……死んでしまいたい」
「名字って分からなかった」
「ほんとですよね笑っちゃう」
「まあね」
「小さな企画の端っこの方に米粒程度で載るものだと思ってました」
「ここで馬鹿してる店員だとは思えない」
「馬鹿してるつもりなんて一ミリも!」
「モップに跨らないかめはめ波しないお客さんの犬と喧嘩しない」
「ごめんなさい」
「分かったならフライヤー下がって、ポテトつめて。あとモップ片付けたら上がっていいから」
「……ありがとうございます」


お礼を言ったとき、ちょうどお店の扉が開いて高校生が3人ほどやってきた。私を隠すように前に出た佐伯先輩が対応してくれているのを見て、私はそっとフライヤーに下がった。先輩なりに気を遣ってくれているんだろうか、だって普通の若い子は私と違ってお洒落な雑誌は読むであろうから。お言葉に甘えて今は下がらせてもらおうかな。モップを握り締める手が強くなって、キュッと唇を噛む。さあポテト詰めてモップ洗わないと。まさか接客業が苦になるなんて思ってなかったなぁ。



バイトを上がって何気なくコンビニに寄ると、入ってそうそう変な声が出た。何で最前線に置いてあるのこの雑誌……!相変わらず嫌でも視線を奪われる黄瀬くんと私(仮)が表紙を飾った雑誌は何冊か並べて置いてある。くっそぉ……。早くなくなるか、売れてしまえばいいのに。そう思ってこっそりと違う雑誌の下に隠してみる。店員さんが不審そうに私を見ているのを感じたので、とりあえずチロルチョコを5つだけ買ってコンビニを出る。買ったぞ、ちゃんと買ったから!久しぶりに買ったチロルチョコは、この前までは5つで105円だったのに消費税アップのせいで108円になっていた。きりが悪くなったのは残念だけど、おつりが5円1枚から1円玉2枚になったのでちょっとだけ嬉しい。財布の中身が多く見える、嬉しい。
ゆっくりゆっくりと地面を蹴って家へと帰っていたら、途中で視界に誠凛高校の校舎が映った。門をの前を通り過ぎながら、そういや始業式以来学校行けてないなぁ、なんて他人事のように考える。時々学校に行って課題はやってる、自宅テストだけどテストも受けるには受けている。単位は正直やばい、けど事情は校長にも話してある。冬休みまではバイトをして、それからはきちんと学校に行こう。……そういや最近メールチェックしてないなぁ。親から何か連絡きてるかなぁ。ペリペリとチロルチョコを剥いで口の中に放り込むと、懐かしいような甘さがじんわりと溶けていった。なかなかに苦労してると思う。中学を卒業してすぐ高校と家が遠いからっていう理由で一人暮らしをするようになって、銀行で仕送りを受け取るという初の出来事に感動して、いざ学校が始まったら親と連絡不通になって、バイトを始めて。気づけば季節はもう夏を過ぎていて。友達作りとか無理だろなぁ。もう、グループとかできてるよなぁ。2個目のチロルチョコを口に放り込んで、今度は溶ける前に歯を突き立てる。何やってんだろ、ふと急にぼんやりとした虚しさが突き上がってくる気がした。思わず歩みを止めてしまった両足が地面に固定されて動かない。そのあいだも制服を着た女の子二人が隣を通り過ぎていく。……私だって、友達と学校帰りにショッピングしたかった。クレープ食べたかった。メイクをして可愛く着飾って遊びたい。お母さんもお父さんも、娘放っておいて何やってんのよ。だめ、めこんなこと考えたって何か変わるわけじゃないって分かってるのに。じわりじわりと汚い感情が心を巣食っていく。側面が少し剥げてしまっているスニーカーから視線が逸れることはなかった。その時だ、少し先で誰かが立ち止まったかと思えば「あれ?」と声をかけられる。顔を上げてみると、そこにいたのはいつかのお客さん。


「え、もしかして名字ちゃん?」
「……っ、え、あ、」
「やっぱり名字ちゃんじゃん!うっわ偶然!」
「え、え、あの、えっ」
「覚えてない?俺高尾!」
「いや覚えてますけど……何でリアカー?」
「あ、これ?さっきまで真ちゃん乗せててさ?まあ渋滞に捕まってたら先に歩いて行かれちゃったんだけど」
「は、はあ」
「もしかして今帰り?」
「まあ」
「じゃあ送ってく!」
「え、ええ……別に大丈夫ですよ」
「いいじゃんいいじゃん、送らせてよ!」
「いやでもすぐそこですし……」
「そんなに嫌?なんなら乗る?」
「乗っていいんです!?」
「勿論。名字ちゃんだったら歓迎」
「……!」


乗 り ま す 。
そして私は人生初・リアカー乗車という誘惑に負けた。

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