小学校低学年の時、口を開いたら馬鹿にされる子がいた。少しばかり耳が悪い子で、先生や友達の言葉を聞き間違うことがよくあった。まだまだ子供だったせいで、聞き間違う言葉も意味もない言葉の寄せ集めみたいな、とんちんかんなものだったから、なおさら笑われてしまっていた。
そんな彼女はいつしか何を言っても笑われて、幼さゆえの子供の残虐さに、酷く内向的になってしまった。だんだんと口数の減っていく小さな姿を、私は見ているだけだった。

小学校高学年の時、喋るだけで馬鹿にされる子がいた。少しばかり滑舌が悪い子で、何を言っているのかイマイチ分からない時がある子だった。
もちろん聞き取れないことはない、ただ聞きづらい時がたまにある、そんな程度。そんな程度だったはずの彼女は授業中当てられるたび、周りの子達に「何を言っているかわかりませーん」と馬鹿にされていた。だんだんと喋ることに恐怖を覚えているようだった。少し能がついた子供たちの残虐さに、彼女もまた酷く内向的になってしまった。私はそれを後ろから眺めているだけだった。

中学校2年生の時、声を発するだけで馬鹿にされる子がいた。声音が高く、いわゆるアニメ声というものらしい。あの子の声可愛いなぁと思っていただけの私にとって、そのいじめは目を疑うほど衝撃的で唖然とした。作っている声だの媚びた声だの、散々な主張を掲げては言葉の暴力を振りかざす生徒たちの中で、私一人だけが置いていかれているみたいだった。こんなことでいじめるのが普通なの?声が少し高くて可愛いというだけで、何が悪いの?私には全く分からない。過去の経験があった分、彼女もまた内向的になってしまうのだと思うと怖くなった。彼女は私の親友だったから。明るい笑顔を失うのがとても怖かった。
初めて、私は声を張り出して言った。
「やめなよ」
いいことをしたと思った。親友も喜んでくれた。
ただ、次の日から私の居場所はなかった。
私はいつの間にか一人ぼっちで皆を見ていた。
その日から私は自分から喋ることをやめた。


高校に入って環境が変わっても、私は自分から話すことをやめた。隣の子にも話しかけない、一人でご飯を食べる、話しかけられても最低限のことしか話さない、声を出すのは授業中だけ。そんな私の元に集まる人なんているわけもなく、当然のように私は孤立している。でも自分から孤立したんだから寂しくなんかない。それどころか下手に口をすべらせて嫌われていくより何倍もマシだと思ってる。それに、私だってこんな話しかけても全然楽しくないような人と友達になりたいと思わないし、自分から話しかけようとも思わないし。楽しくはないけど、寂しくもないこの生活は楽、なはずなんだ。


「名字さーん」
「……」
「名字ちゃーん」
「……」
「名字ちゃんってばー」
「……」
「名字ちゃーん!!!!」
「うるさいぞ及川!廊下に立たせるぞ!」
「えーだって名字さんが教科書見せてくれないんですー」
「名字!及川!二人とも廊下に立っとけ!授業にならん!」
「っ……!?」

そこでようやく私は隣の男を見た。ふざけたように舌をぺろりと出してピースを向けるその姿に口元がひくついてしまう。そんなふざけた態度に「さっさと出て行け!」と顔を真っ赤にして怒鳴る先生。教室中の視線が集まる状態でさすがに無視できるわけもなく、仕方なく重い体を持ち上げて席を立った。背中に突き刺さる多数の視線が気持ち悪くて、半ば逃げるように廊下に出る。そんな私とは相反的に後頭部に手を当てて堂々と歩いてくる及川徹が、後ろ手で戸を閉めた。ガラガラと音を立てながら教室との世界が断ち切られて、シンとした廊下に2人で立ち尽くしているシチュエーションは普通じゃなかった。とんだとばっちりだと項垂れる私の隣に、どこか嬉々とした表情で並んでくる及川をキッと睨みつける。
私はこの男が苦手だ。


「やー立たされちゃったね。あの先生短気だからさぁ」
「……」
「二人しかいないのに喋ってくれないの?」
「……」
「イライラしてる?」
「……」
「俺に思ってることある?」
「……」
「じゃあ俺にムカついてたら頷いてみて」


あ、頷いた。
無言で頷く私をやっぱり嬉しそうに見つめる及川がわからなくて、顔を顰めながら一歩を距離を取る。一歩的に話しかけていったい何が楽しいんだ。返事が返ってこない会話なんて会話でもなんでもないだろうに。私に構っても楽しくないでしょ、心の中でイヤミを言うも、声に出さないと人間はやっぱり何も伝わらないらしい。軽々と距離を埋めてきた及川は肩がくっつきそうなくらい近づくと、私の顔を下から覗き込んだ。ふわりと栗色の髪が揺れて良い匂いが鼻を掠める。な、何なのこの人……。ほんとこんな私相手にして何が楽しいの……。困惑で表情を変えることしかできない私を、及川は面白そうに歯を見せて笑った。後ろに太陽が見えそうな笑顔に、一瞬で熱が顔に集中していくのが分かる。ほんと、こんなかっこよくて人気者であろう及川が何で構ってくるの。不思議で不思議で堪らない。
人差し指をピンと立てて「まだ喋ってくれない?」と唇をトントンと叩く姿は絵になりそうなくらいで、正直眩しくて見ていられなかった。嫌いな人なんかいないんじゃないかってくらい女子にも男子にも好かれている彼と、いてもいなくても変わらない私とは雲泥の差で、本来ならこうやって二人きりでいることなんか有り得ない。最初こそ話しかけられたら首を振ったりで応じてたものの、最近なんか返事すらしてないのに。見る場所が限られているものだから、じっと足元を見つめる。うっすらと汚れのついた上履き、新しく買ってもらった靴下。どれも高校生になってからの新しいものなのに、私自身は何も変わってない。
ひゅうと、開けっ放しの窓から風が吹いた。ガタガタと後ろの方で揺れる扉に、本当に一人になってしまったような錯覚に陥ってしまう。
この間、ほとんどの友達が進学した学校の近くに行ってみた。昔いじめられていた友達がみんな変わっていた。私だけが何も変わっていない。
分かってる、そんなことくらい分かっている。


「名字ちゃん?」
「……」
「まーたその顔してる。どうしたの?」
「……」
「寂しくて仕方ないって顔。こんな近くに俺がいるのに寂しい?」
「……離れてよ」
「!!今、声!」


目を見開いたあと、本当に嬉しそうに目尻を下げる及川は両手で自分の頬を押さえ込みながら「もう一回!もう一回喋って!」私の目をじっと見た。ガラス玉みたいな瞳に映る私は、小さくて、酷くちっぽけであると突きつけられた気がして気分が悪い。こんな私の声を聞いて何が楽しいんだか。はぁ、と溜息をついても間近にいる及川の視線が外れることはなくて、結局折れたのは私だった。「……何がそんなに嬉しいの」心の底からの本心だ。喋ることが珍しいから?別に全く喋らないわけじゃないし、私みたいにおとなしくてあまり喋らない子は他にだっている。本当に、絡んでくる意味が分からない。そんな思いを込めて、私もじっと及川の瞳を見つめ返すと、「そんなの決まってるじゃん」くるくると私の髪を細い指に巻いた及川は一呼吸おいてから笑った。


「名字さんが好きだから」
「………?」
「あ、待ってこれはまだ告白じゃないから。今のはただ理由を言っただけで、告白はまた後日」
「いや……、」
「今日はいっぱい声が聞けて嬉しいなぁ」
「ち、ちょっと」
「何?」
「……い、み分かんない」
「何が?好きな女の子の声をよく聞きたいって思うことって悪いこと?」


あっけらかんと言い放つ及川とは裏腹、あらゆる感情がごちゃごちゃになっている私はいつかのように口元をひくつかせた。意味が分からなさすぎて、もはや考えることを放棄しそうな勢いだ。よくもこんなにもペラペラと言葉が出てくるな、といっそ呆れて感心していたら、ムッと眉間に皺を寄せた及川が髪から手を放して今度は私の頬に触れてくる。ヒンヤリと冷たい体温が熱くて火照った頬から熱を奪っていく。さすがにこれには驚いて、ビクリと肩が揺れた。満足そうに三日月を描く薄い唇が憎い。


「それにさ」
「……何」
「あれ?もう喋らない設定はやめたの?」
「……そんなんじゃない。それに私が喋るやめたのは、」
「やめたのは?」
「……っ」
「やめたのは、何で?」


ゴクリと唾を飲み込んだ。優しい声色であるのに、妙な威圧感が身体を包み込んで心が乱れる。昔の記憶が頭をよぎる。苦しくて怖い、あの時が。


「こわい、から」
「喋るのが?」
「昔からずっと見てきた。言葉の怖いところ。何も悪いことなんかしてないのに、喋っただけでいじめられる子をいっぱい見てきた」
「うん」
「私もたった一言やめなよって言っただけでいじめられた。だから、」
「もう話さかったらいいって?」
「……うん」
「そっかぁ」
「だから怖い。及川ももう話しかけないでくれると助かるんだけど」
「もう一回」
「……は」
「もう一回名前呼んで」
「……及川っ、さっきから何言って……!」


馬鹿にしてるの?そう言おうとした言葉は、寸前で飲み込んだ。代わりに視界いっぱいに広がる及川に目が奪われてまう。


「俺はやめないよ。名字さんが好きだから」
「だ、から何言って……」
「ずっと思ってたんだよね。名字さんの心が叫びたがってる姿に惹かれたっていうか」
「……」
「実は誰よりも喋りたいんでしょ」
「っ、」


ゆらゆら、視界が揺れる。じんわりと目元が熱くなる。
及川の言っている言葉が先端の尖った石になって、私の心に刺さっていくみたいだ。痛くて苦しい。寂しくて悲しい。しまっていた箱をこじ開けられるような感覚に気持ち悪くなって足に力が入らない。膝がかくん折れて崩れ落ちる私の腰を支える手は勿論彼の腕だろう。


「名字さんの目、泣いてたよ、ずっと」
「……なんで、」
「俺もずっと見てたし、話しかけてたし」
「……」
「ぶつけてみてよ、俺に。ていうか俺だけに」
「……」
「ね?」


あやすような声に頬に生暖かいものがスゥ、と流れ落ちた。
ガシャン、と私の中で何かが外れた音がする。
少しでも気を緩めたらまた泣いてしまいそうだったから、唇を噛み締めてただただ頷いた。
ありがとう、その言葉は声になっていたのだろうか。及川に届いたのかは分からないが、頭を撫でてくる手が気持ちよくてどうでもいいと思ってしまう。


「名字さんの声、俺好きだなぁ」

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