信じたくなかった。何も信じたくない、認めたくない。あれだけ酷いことをされてあれだけ皆が危険に晒されて、たくさんの犠牲と被害が出たというのに、私はまだ彼を追い求めている。彼のことを許さないと恨む人だっている中で、行かないでと願ってしまう私がいる。それを恋という言葉一つで片付けてしまえるのだから、世の中は皮肉なもんだ。ヨロヨロとふらつく足取りで、大蛇が消えて喜ぶ群衆を押しのけて宛先なんて分からないまま、ただひたすら足を動かしていた。白子さんがどこにいるのかなんて分からないのに。白子さんはもういないというのに。それでもなお、視界が滲んでいくのを感じながら地を踏んで。認めたくない、認められない感情が体の内側で暴れて、放っておけば胸が壊れてしまいそうだ。思い出にしたくない。白子さんと雲家の三兄弟と笑いあったことを過去のことになんかしたくない。無我夢中で走っていたせいか、いつの間にか鼻緒は千切れてしまっていた。泣く泣く下駄を脱いで近くの木の脇に並べると、フワリと風が吹いて木の葉を揺らす。
そういえば小さい頃も、鼻緒が千切れて下駄を脱いだことがあったなぁ。その時も誰かを探していて、必死になって森の中を探していたら木の枝に引っかかって鼻緒が千切れて。仕方がないから木のそばに綺麗に並べて。それで、確かその時は、その時は。


「……白子、さん……」


あの時も、私は白子さんを探してた。日が暮れて辺りが暗くなって半べそになって、それでも白子さんを探している私を、後ろからそっと抱きしめて『名前、帰ろう』そう言って笑いかけてくれたのだ。私の大好きな、優しい微笑みを。それが今はどうだ。聞こえるのは鴉の鳴き声と、葉のこすれ合う音だけ。
ぺたりとその場に崩れ落ちた。雨ばかり降っていたせいか、地面は少し湿っている。じんわりとシミを作っていく着物と同時、私の心も同じく影を落としていた。白子さんは曇家を裏切った身だ。裏切って利用して、そして家族を奪った最低な人間。大蛇との決着がついた今、私達の目の前に現れることは二度とないんだろう。今更、改めて実感した。ほんと今更すぎる。ふふ、と乾いた笑いは静かな森にやけに響いた。私が森の中に入っても、探しに来てくれる優しい白子さんはもういない。当然だ。白子は風魔一族の長だったんだから。他人よりも一族を優先した、何だ当然の話じゃないか。10年の歳月よりも、一族復興を優先した。誰だって優先順位くらいあるだろう、なんらおかしくない。ただ純粋に白子さんは酷い人間で、最低な人間だった。それだけだ。あんなやつ忘れてしまえばいい。裏切り者って蔑んで、良い人を見つけて、そうして私達だけ幸せになってしまえばいい。一から全部やり直してしまえばいい。なのにどうしてだ。どうして視界はこんなにも揺れているの?どうして私の頬はこんなにも濡れているの?ポロポロと止まらない涙が憎たらしい。袖で拭っても拭っても、終わりなんてないんじゃないのかってくらい溢れ出ては止まらない。泣くなよ情けない。あんな男のために涙なんて流すなよ。そんな気力があれば笑ってやれ。ざまあみろって、思い切り嘲笑ってやれ。


「……馬鹿野郎」


カサリと、森の奥で何かが揺れた。ゆらゆらとうねる影はやがて大きくなって近づいてくる。何者かと眉間に皺を寄せて立ち上がった時、ポロリと、小粒の涙が地面に弾けた。あれ、とうとう幻覚でも見ちゃったかな。変な呪詛でも詠んじゃったのかな。「しら、すさん…」ああ、随分と変わりましたね。かっこよくなりましたね。また零れ落ちそうな涙を流すまいと顔を上げた。大蛇がいなくなった今、空は明るく晴れ晴れとしている。そんな晴空の下、私と彼はここにいる。前髪を下ろして、以前とはまるで違う彼がここに。風魔の服を纏い、傷だらけの体で目を見開いてこちらを見ている彼が、そこに。鼻がツンとする。水の中で一回転したような鈍い痛みだ。


「……何、やってるんですか」
「……」
「ほんっ…と、馬鹿ですね」
「……」
「置いてかれた…側の、気も知らないで…」
「……」
「……随分と、いい御身分じゃないですか」
「……」
「ばか……ばか……っ!」


まるで自分の体じゃない感覚。幽霊に乗っ取られてしまったかのようにふらふらと覚束ない足取りで地を踏み、白子さんへと手を伸ばした。逃げることも追い払うこともしない白子さんの肩に両手を置いて、縋るように体を預ける。白い肌も風魔の服も、随分と土で汚れてしまっていた。


「……俺はもう金城白子じゃないよ」
「……白子さんだよ」
「違う」
「違わない」
「違う」
「……ちがわ、ないってば」


小刻みに首を振る私の頬をそっと掴み、白子さんはもう一度「違うよ」そう言って微笑んだ。その瞳の奥はとても暗く、影を生んでいる。今にも泣き出しそうだった。私がじゃない、白子さんがだ。泣きたくても泣けなくて、泣く方法を知らなくて、湧き上がる涙を押しとどめている可哀想な子供みたいだ。表情の裏に隠している本当の貴方は一体どんな顔をしているの。私が見たいのはそんな笑みじゃないよ。薄い唇を開いた白子さんは、傷だらけの拳を開いたままじっと見つめている。そうしてゆっくりと言葉を落とした。


「死のうと思った」
「……」
「死のうとして崖から飛び降りた。大蛇様も滅んだ今、生きてる意味などない。一族の皆に会わす顔もない。なのに俺はまだ生きている」
「……」
「……どうして」
「……」
「どうして、最後の最後に、名前に会ってしまったんだろうな」
「……し、らすさん」
「何?」
「そんなこと……言わないで」
「何故?」
「私は、私は白子さんが…!」


人差し指が唇に当てられて、グッと押し黙った。「……俺はその気持ちさえ利用しようとしたのに?」それ以上何も言うな、そう言っているみたいだった。じゃあこの行き場を失った思いはどうすればいい。何も伝えられないのなら、このどす黒くもやのかかった想いは、どこに捨てればいい。紙のようにくしゃくしゃに丸めて、火の中に放り込んで、燃やしてしまえたならどれだけ楽なのだろう。蓋をして、心の奥底に眠らせてしまえれたら、どれたけ吹っ切れるだろう。ポロポロと勝手に流れ出てくる涙が視界の邪魔をする。変わらないな、吐息混じりで聞こえたその声は、果たして幻聴なのだろうか。


「このまま、消えてしまえたらいいのにな」
「逃、げる?」
「ああ。誰もいないどこか遠くへ」


白子さんが迎えにきてくれたときのことを、思い出した。『帰ろうか、名前』そう言って微笑んでくれたあの時を。ねえ、白子さん。そんな顔で抱きしめないでよ。そんな辛そうな顔して、引き寄せないでよ。一人でどこかに消えちゃうなんて、そんなことしないで。
泣きながら笑って、そんな器用なことをしながら彼の胸に額を押しつけた。空丸は白子さんを許せないと言っていた。天火だって、宙太郎だって、白子さんに傷つけられた被害者。けど、それと同時にかけがえのない家族だ。どうかみんな、許してほしい。未練を断ち切れない私を、どうか許してほしい。「泣いたり笑ったり忙しいな」背中に回された腕の力が強くなったと思うと、白子さんの顔がゆっくりと近づいてくる。瞼を閉じると、柔らかい感触が唇に触れた。


「白子さん」
「……何?」
「このまま、逃げちゃおっか」


このまま2人で、どこまでも。
そうしてそのまま、何事もなかったかのように消えてしまえたらいいのに。

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