食べようと思えばいつでも食べられた。その途中で味見をすることだってできたし、いっそ自分好みに閉じ込めて熟成させることだってできた。けどその度に何かが違う気がして行動には移せずにいて、結局今はまだその時期じゃない、まだ早いんだって言い聞かせてきた。そうだ、俺は逃げてた。ずっとずっと逃げてきた。向かい合おうとなんかせずに、上手い話が空から降ってくるのを待っているだけだった。そうやって心の中で相反する気持ちと行動を縫い合わせながら生きてきた。ここ数年間なんか惨めすぎて思い出したくもない。俺は何を我慢してるんだろうって、甘いスイーツを食べても満たされない欲求に首を傾げるだけ。ただもう、その必要もないんだと考えたら気が楽で柄にもなくスキップでもしてしまいそうだ。


「名前」


薄暗い部屋に淡い橙色の光を放つランプが置かれていて、そのそばには兄が勝手に連れてきた名前が縮こまって膝を抱えている。突然のことに何が起きたかイマイチ分かってないらしいようで、時折俺の行動を見張るように横目で視線を寄越していた。バレてないとでも思ってるのかな。なんて哀れなんだろう。きっと怖いんだね。そりゃ怖いよね。吸血鬼を名乗る男に訳も分からないまま家にまで連れてこられて、あろうことか話したこともないクラスメイトの部屋に閉じ込められてしまってるなんて。兄者のことだからまた馬鹿みたいにキザなセリフを振りまきながら無理矢理連れてきたんだろうし。まあ、俺は嬉しいからいいけど。
後ろ手で鍵をかけ、一歩、彼女に近づいてみた。カチ、その音に肩を揺らして俺を見る名前が愛しくて、それでも頑として泣こうとしない名前が可愛くて、口端がにんまりと弧を描くのが分かる。ほんと可愛い。ねえ、こっち見てよ。もっと怯えて見せてよ。ねえ、何で逃げないの。逃げられないの?ねえ、どっち。何の行動も起こさずにただ膝を抱えている名前の背後にゆっくりゆっくりと近づいて、とうとうその華奢な肩に手を置いた。少し力を入れて掴んだら俺でも折れてしまいそうなくらい脆くて小さい。揉むように数回触れてみる。名前が小さく声を上げて俺を見た。涙の膜を張った真ん丸の瞳に俺の赤い目が映りこんでいる。ドロドロに溶け切った俺の理性が限界を告げている。昔、同じような光景を見たことがあった。マグマ溜まりで着々と熱を帯びたマグマが噴火してしまうように、俺の中での理性が弾け飛んだ日が。ああ、全く同じだ、あの頃と。目に涙をいっぱい溜めて無意味にも近い反抗をして唇に歯を立てる姿も、脳みそが蕩けてしまいそうなほど甘い香りも、何も変わっちゃいない。視界の端でゆらゆらとランプの光が揺れたのはきっと動き出せという合図。俺は名前を後ろから乗りかかるように抱きしめて、艶かしい首筋に舌を這わせた。香りの根源地である名前にクラリと眩暈がする。あー、やばあほんとやばい。血は流れてないはずなのにこんなにも甘い匂いが俺を狂わせようとしている。いや、もう狂ってるのかな。


「……んっ」
「や、やだ」
「何が嫌なの?」
「……は、離して」
「こんな匂い出しといてそれはないんじゃない」
「な、なにを」
「誘ってるんでしょ、俺の事」
「な、に言ってるの」
「んっ」
「や、朔間くん、やめ、て」
「……やめたら」
「え?」
「やめたら、名前は何をしてくれるの」


名前は声を詰まらせて黙り込んでしまった。答えにくいものだとは分かっていたし、名前なら答えられないだろうとは分かっていたけど。ペロリと舌なめずりをして名前の目尻に溜まる雫を指で掬いあげてみる。今にも消えてしまいそうな明かりを反射させる雫はキラキラ光る宝石のようでとても綺麗だ。にんまりと口角を上げて、息を吸い込む。


「あ〜まいものが食べたいなぁ」
「……え?」
「今はそんな気分」
「そ、うなの」
「だから俺にちょうだい?」
「甘いもなんかない……」
「分かってるくせに」
「……っ」
「くれないと悪戯しちゃうよ〜?」


まあくれてもくれなくても、食べるのは俺で、食べられるのは名前なんだけどね。赤い果実みたいな唇が震えている。いっそう笑みを濃くした俺を見て、名前の瞳の奥が恐怖で揺れた。ああ、美味しそう。それじゃあまあ、


「いただきます」

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