きっと何もかも遅かったんだ。他人事のようにそんなことが脳裏に過ぎった頃には、目の前の人影はゆらりと振り返り、二つの瞳が私を捉えていた。そういや最近手紙が届かなくなっていたのはそういうことだったんだなぁ。ひゅう、と冬の音を立てて後ろから髪をさらっていく。僅かに開いた扉の隙間から入り込む風は酷く冷たくて、ぶるりと肩が震えた。空は不安を誘うような灰色。太陽の光は分厚い雲で遮られていて、ただでさえ暗い部屋の奥に当然光は当たらない。暗いところからまっすぐに射抜いてくる瞳は夜を思わせるようで、まるで私の知っているそれじゃあなかった。ゴクリと息を飲む。そんな行為でさえも、静かなこの空間では大きな音のように思えてしまう。小さく口を開けては閉じて、開けては閉じて。そんな金魚みたいなことを何度か繰り返し、ようやく出たのは掠れた震え声。「一期そこで何、してたの」カラカラの口から出たそんな言葉は、白い息と一緒に宙に吸い込まれていく。けれど、彼の返事を待つまでもなかった。質問の答えは聞いた私自身が一番よく分かっていた。理解していた。理解せざるを得なかった。それなのに口から出たのは「……ね、え」なんて更に確信を求めるような言葉。けど、それでも、そうだとしても、今私が何か言葉を発さないと、この空気に呑み込まれてしまいそうで。ああ、どうやら私は混乱しているらしい。少しでも気を抜いたら、膝から崩れ落ちて動けなくなってしまうくらいには。
くしゃり。紙の潰れる音がして伏せていた顔を上げると、いつの間にか一期はゆっくりと近づいてきていた。彼の握りしめた拳からはみ出ているのは、最近見かけなくなっていた茶色い封筒。ああ、ほら、やっぱり。「……主」表情を変えないまま、また一歩と踏み出した。彼が一歩ずつ歩みを進める度に、ギシギシと古い畳が悲鳴を上げて、威圧感とも感じ取れる空気が重くのしかかってくる。このままじゃ、簡単に押し潰されてしまいそうだ。今にも逃げ出したくなる気持ちをギュッと抑え込んで、両足でしっかりと体重を支えて、彼の歩みを見守る。「主、」その後に続いた謝罪の声はやけに小さく、この静かな空間でなかったら聞き逃してしまいそうだった。


「……」
「……」
「……いつから、なの」
「半年ほど前から」
「は、んとし」
「はい」
「……何で」
「何で、とは」
「どうしてこんなこと、」
「……」
「……一期」
「主は、」
「……」
「私にそれを言わせるのですか?」


あなたも中々意地が悪い。そこで彼は眉を下げて笑った。目を細めてじっと頭一つ高いところから私を見下ろしている。それは私が初めて見る類の笑みだった。綺麗で桜が舞うような笑顔じゃない、色んな感情がごちゃごちゃに混ぜ合ったような苦渋の表情。苦しくて悲しくて寂しくて儚くて、消えてしまいそうな。ゆっくりと彼の右手が胸の前で開かれたかと思うと、原型を無くした封筒が足元に転がった。ただの紙屑になってしまった封筒は、風にコロコロと隅の方へ追いやられていく。こうやって、半年もの間彼は外との連絡を絶っていたんだろうか。グシャグシャに丸めて捨てられた中には、きっと重要なものもあっただろうに。今の今までよく審神者としてやってこれたものだ。ううん違うや、きっとそういられるようにやってくれていたんだ。私の知らないところで、彼は。そんな場違いなことを考えていた私の意識を戻したのは、前触れもなく頬に触れた冷たい体温。ビクリと肩を揺らして頬に触れる指の先を辿ると、顔を顰めている一期がいる。苦しい、そんな心の叫び声が聞こえてくるようで思わず耳を塞ぎたくなった。


「主、人の心とは厄介なものですね」
「……」
「追いやろうにも次々と溢れてくる感情が、思考を覆い尽くしていく」
「……」
「人は、この感情一つ一つに名前をつけたと聞きます」
「一期、」
「今の私はきっと平常ではないことは自覚しております」
「……」
「主は今どのような気持ちでいらっしゃいますか」
「……そんなの」
「私は苦しい」
「……」
「左胸のあたりがずっと痛いのです。まるで人間のようだ」
「……」
「薬研に聞いてみても分からなかった。しかし、主のことを考えている時は不思議と痛みが和らぐ。そうしたらいつの間にやら、主を私だけの世界に閉じ込めてしまいたいと思うようになりました。けれどゆっくりとしていると、貴方はきっと逃げてしまう」
「……な、に言って」
「主、もう一度言います」
「……」
「私は苦しい」


硝子のような瞳が、はじめて怖いと思った。そのまま見つめていたら吸い込まれてしまうような気がした。視線を逸らそうと顔を横に向けようとしても、頬に触れていた手がそうさせてくれない。きっと今の私の顔も、さっきの紙屑みたいにぐしゃぐしゃに歪んでしまっている。ふとその昔、誰かが恋は苦しくて辛いものだと言っていたのを思い出した。胸が痛くて苦しくて、切羽詰ってしまったら何をするか分からなくなって、自分を制御できなくなってしまう。恋愛はした方が負け。そしてそれは罪なのだと、そう言っていた。それなら、と迫る一期の腕を見ながらボウッと考える。刀であり神様である彼にそれは当てはまるんだろうか。もし当てはまるとするなら、彼等に制裁を下すのは一体誰なんだろう。トン、と彼の反対の腕が後ろの壁について、視界が一期の顔でいっぱいになった。髪の毛越しに感じる壁の冷たさが気持ち悪い。


「……主、いや名前殿」
「……名前、」
「申し訳ありません」
「……許せない」
「構いません」
「どうする、つもりなの」
「どうしましょうか」
「……」
「そうですな、まずは閉じ込めてみましょうか」
「……」
「はは、冗談です。そんなに堅くならないでください」
「……そんな冗談いらない」


それに、冗談に聞こえない。そう言おうとした開いた口は、すぐに閉じた。一期の人差し指が唇に触れたからじゃない。一期が泣きそうな顔をしていたからでもない。今迂闊に喋ってしまったら本当に冗談じゃなくなってしまうような、そんな気がしたから。ただの勘ではあったけど、直感的にそう思った。キュッと口を結ぶんで彼を睨むように見上げると、一期の口端がにんまりと三日月に上がる。泣きそうな顔をしてるくせに、そんな笑い方をする。そんな笑い方をするくせに、硝子の表面には薄らと膜が張られている。そんなアンバランスで不安定な彼を見て、私も泣きそうにった。唇から頬に滑るように移動した手にゾクリと背中が粟立って、膝に力が入らなくなる。「名前殿、」やめて、そんな声で私の名前を呼ばないでくれ。艶のある声が首元で吐息と一緒に吐き出されて、生暖かい感触が嫌にリアルに感じられてじんわりと目元が滲む。彼はずるい。どうせなら最後の最後まで嫌な悪役でいてくれればいいのに、決してそうはしない。まるで被害者みたいに辛そうな声で私の名前を呼んでくる。どうせならもっと酷いことをしてくれ。ほんのちょっとの同情心も残らないくらい、めちゃくちゃに嫌わせてくれ。見上げた一期は、相変わらず辛そうな顔をしている。ガタガタと冷たい風が襖を揺らしていた。


「今までの悪行、そしてこれからの無礼をどうかお許しください」
「いち、……っ!」


ゆらりと視界が揺れる。ぼんやりと二重に見えていた一期の顔がどんどん暗くなっていく。ああ、世界が終わる。腐海に沈んでいくようだ、そう思ったと同時に、見えていたものはすべてが黒に変わった。


「愛しています、名前殿。狂おしいほどに」


きっとはじめからこの道に救いなどなかった。
あとはもう、堕ちていくだけ。

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