桜がヒラヒラと舞う美しい場所に、私は立っていた。柔らかい陽光を浴びてキラキラと反射する水面には真っ青な空が映っていて、暖かい風に緑葉が心地よく揺れている。自室で眠りについたはずなのに、私は気付けばここに立っている。見渡す限りこの空間の終わりは見つからない。どこまでも続く世界の中で、きっと夢なのだろうと、困惑しながらも納得した。こんな綺麗な夢を見れるのならむしろ僥倖だった。一歩足を踏み出せば、柔い芝が足裏を撫でる。少し擽ったいそれに、あ、とそこで初めて裸足であることに気がついた。私の夢なのに都合のいい展開はないらしい。少しだけ躊躇したものの、桃源郷のような光景に心が完全に惹かれ、私は目的もなく歩き出す。夢だし、汚れたっていいよね、とそんな解釈をして。

足を踏み出す度に、サクサクと、緑の絨毯が導くように小気味よい音を立てる。潤った青い芝から湿っぽさが肌に触れるが、不快さは全くない。むしろずっとこの感触を楽しみたいと、本能の部分が囁いた。
そうして、どのくらい歩いたのだろう。膝丈ほどの高さの花が実を付け始め、周囲の景色はすっかりと彩りが豊かになっていた。何という花なのだろう。私の夢のくせに洒落たお花が咲いているものだ、と少し感心する。夢って記憶の寄せ集めなのだと思っていたのに。
そこから更になんとなく坂道を歩き続け小道を抜けると、気付けば目先には小さな神社があった。美しい空気の中に佇むそれは、退廃的な雰囲気がある。大きな鳥居をくぐり抜けゆっくりと近づき、そして息を飲んだ。

「……鶴丸?」

縁側に肘をついて寝そべっている人程の身丈の正体は、見知ったものだ。間違えるはずもない。けれど、私の知る鶴丸ではないことは直感で分かった。自身の名前を呼ばれた鶴丸は白い睫毛を何度か上下させ、金の瞳を私へと向ける。あまりに儚いその姿は、花と共に散ってしまいそうな気さえした。

「きみは……」

溶けそうな声が段々と遠ざかっていく。同時に花弁を含んだ温い風が吹いた。小さな花弁達は、段々と彼を隠し、

そして、目が覚めた。
やはり夢だった。不思議な感覚だったと思う反面、目が覚めたのが残念だと思った。あの景色が忘れられない。どうしてあそこに鶴丸はいたのか、どうしてあんなに寂しそうな顔をしていたのか。
普段なら直ぐに夢の内容など忘れてしまうくせに、結局その日はずっとその事ばかりを考えてしまい、仕事はあまり手につかなかった。

「大将、随分足が汚れているが畑にでも素足で入ったのか?」
「……うーん」
「大将?」
「ふぇ!?あ、ああ、ごめん!聞いてなかった!」

近侍の薬研がいつもと違う私を心配してくれるが、まさか夢現に気がやられているとは言えない。それでもなんとか夢の続き見ようとして執務中に何度も昼寝をして足掻いていると、やがて体調が悪いと判断され、風呂へ押し込まれた上にさっさと布団を敷かれた。オラ入れ、と有無を言わさぬ薬研の顔は心配そうで、非常に申し訳ない。本当に大丈夫だよ、と言っても当然信じてくれず、そのまま頭を撫でられ寝かしつけられる。本当は遠征から帰ってくる鶴丸にも会いたかったのだけど……その言葉は飲み込んだ。部屋の燈籠がユラユラと揺れている。それを見ているとあっという間に意識は暗い部分へと沈んでいった。

また夢を見た。夢の中で夢だと分かる奇妙な感覚に、あの夢の続きだと直感で分かった。昨日と全く同じ場所に立ち、後方から吹く風が私の髪を攫う。迷うことなく、導かれるように足は坂道を進み、膝丈ほどの花畑を視界で捉えた。相変わらず花の名前は分からない。そのまま小道を抜けると、やはりそこにはお社が堂々と存在しているのだ。昨日と一つ違うのは、例の鶴丸国永がまるで私の来訪を分かっていたかのように真っ直ぐに此方を見据え、膝を立てて座っていたことだった。「これは驚きだ、また会えるとはなぁ」その声は春のように心地よく耳を通り抜ける。


「きみ、此処は何処か理解しているのか」
「……夢、なのかと」
「……ハハッ!夢か、それは良いなぁ。そうか、此処は君の夢の中か」
「違うのですか?」
「いいや、君が夢だと言うなら夢だ」
「……情けないことに私も分からなくて」
「分からないのならそれでいい。曖昧な現象には自ら境界線を引いておくべきだ」
「……あなたは、」
「ん?」
「あなたは、鶴丸国永、ですか?」


私がそう質問すると、四方の生い茂った木々が葉を揺らした。ハラハラと緑葉が地へと落ちる、その一刻の間が酷く長く感じて、私は目の前の鶴丸から目が離せない。


「……ああ、俺は鶴丸国永だ」
「なぜ、私の夢に出てくるのでしょう」
「逆に俺が聞きたいがな」
「……夢なので、なんとも」
「これでも驚いているんだ。まさか二度もやって来る人間がいるなど考えもしなかった……きみ、どうやって此処に来たんだ?」
「……私がまた来たいと願ったからかもしれないです」
「願った?」
「はい。何だかこの世界が忘れられなくて、またあの夢を見たいと強く願いました」


だって、昼寝してまでこの夢の続きを見ようとしていたくらいなのだ。薬研には勘違いされてしまったけど、結果的にまたこの世界に訪れることが出来ている。私が少し誇らしげにそう言うと、鶴丸は……いや、鶴丸さんは片眉を上げて呆れたように肩を揺らした。「きみなぁ……」と諌めるような声を出す彼は、私の知っている鶴丸とはどこか違うくて、覇気がない。そのまま足を進めて彼の横に座り、目を見開いた。私はどうやら知らぬ内に結構な坂を登っていたらしい。縁側からは両端の木々の間から拓く、絵の具を散らせたような色鮮やかな世界が広がっている。奥行のある空間絵を見ているようで、目を凝らせば名の知らぬ花も捉えることができた。なんて贅沢なのだ、と私はその瞬間だけは時を忘れた。これが夢など信じられなかった。こんな美しい光景を鶴丸さんはずっと見ているのだろうか。


「こんな美しい景色、初めて見ました」
「そうかい?俺は随分見慣れちまったが……」
「この景色なら私、ずっと見てられます」
「……ずっと、なあ」


白く、重そうな睫毛が伏せられた。寂しそうな、小さな姿だと思った。そしてまた春のような柔く温い風が吹く。あ、この風は──、背を押されるように私は彼の両手首を掴み、訴えるように早口で叫んだ。


「私、また来ますから!」


金色の瞳の奥が揺れた。そして段々と彼の輪郭がぼやけて、四隅から暗い何かで覆われていく。やっぱりこの風はお別れの合図なのだと、真っ暗な世界で思った。

そして、目が覚めた。
ゆっくりと目蓋を上げると、枕元に座る影がある。昨日寝かしつけてくれた薬研がまだいるのだろうかと重い首を動かし、そして息を飲んだ。純白の絹のような髪、浴衣の袖口から除く少し角張った細い指、そして金の瞳。ほんの一瞬前に見た彼と同一の姿に、心臓が大きく鳴る。夜闇を背負い、無機質な美しさを放つ鶴丸は何か言いたげな顔をしているが動く気配は無い。膝を曲げて座り、じっとそこから動かないその様子は、普段の明るい鶴丸とはかけ離れていて私は眉を寄せた。そう言えば昨晩遠征から帰ってきたばかりだと思うが、そもそもどうして私の部屋にいるのだろう。向き合おうとゆっくりと上半身を起こし、彼を見据える。長い眠りでは無かったはずだからきっとそこまで時は経っていない。実際襖の奥はまだ暗く、隙間から入る光もなかった。燈籠の揺れる火だけが頼りの中、鶴丸は人形のようにただそこにいる。

正直目は覚めたものの、先程の夢は相変わらずハッキリと脳に染み付いて忘れられそうにもない。むしろうつろうつろと眠気が再び襲ってきて、彼がいなければきっと二度寝をしていたに違いなかった。沈黙が辛い。そして、一刻も早くまた眠りにつきたかった。そして、あの夢を、あの空間に行きたいと思う自分がいた。私の鶴丸を前にして、もう一振の鶴丸に会いたいと思う自分が客観的に見ると酷くおかしかった。妙な背徳感が込み上げてきて、堪らず私は問いかける。


「ま、まだ夜だよね?こんな時間にどうしたの?」


私の問い掛けに、無機質だった鶴丸の顔は分かりやすく顰められた。こんなにも剥き出しに苦り切った顔をする鶴丸は、見たことがない。懊悩の表情を浮かべ、一呼吸置いてから口を開いた。


「……臭いがするんだ」
「臭い?」
「本丸へ帰ってきたと同時に心の奥を引っ掻かれるような、不快な臭いがした。只事じゃないと石切丸に祓いを頼んだが、奴は何も悪い気など感じないと言った」
「それは、一体」
「こんなに気持ちの悪い臭いがするのに何故気付かないのかと俺一人で臭いの原因を探ろうとしたんだが……驚いた」


続く鶴丸の声は、鉛のように重く、それでいて斬り捨てるような鋭利さを忍ばせている。暗闇の中で渦のように揺らめく双眸が、しっかりと私を捉え「きみだ」そう言い切った。


「……え?」
「臭いの発生源はきみだ。誰も気付かないのが不思議だが、きみの体の底から嫌な臭いが溢れている。穢れでこそないが、正直ここに座っているだけで蝕まれそうだ」
「そ、そんな……まさか、私は何も……」
「きみ、俺が遠征に行ってる間何があった」


真白い綿毛のような睫毛で縁取られた瞳が細められ、責めるように私を射抜く。冗談なんかじゃないことは、彼から湧き出る嫌悪感で簡単に分かった
──何があったって、そんなの。
正直、思い当たるのはひとつしか無かった。私の夢の中でのみ会える、鶴丸さんである。本丸の鶴丸が言うのだから余計それしかないような気がした。けれどどうしても鶴丸さんのことを言う気になれなくて、情けなく鶴丸から目線を逸らし、俯いた。あれは夢なのだから、決して躊躇うことでもないのに。どうしてか言いにくくて黙り込んでしまう。夢、私の夢。私の夢の中にいる鶴丸さんは、私の空想?……ううん、彼は夢じゃない、きっとそこにいるのだ。そこに自分一振だけで、あの世界にいるのだ。

何も言わない私の様子に余計苛立ったのか、座っていたはずの鶴丸から畳を蹴る音がする。そして私の布団前で止まり、顎を掴まれたかと思うと無理やり正面に起こされる。私と同じ視線にある鶴丸の両目は、焦燥と嫌悪感に満ちていた。


「……何故、こんなに嫌な臭いが……っ」
「……ごめ、ごめんなさい鶴丸……」
「君の心臓が……一番濃いんだ。きみ……まさか、」


その言葉の先が届くことは無かった。強烈な眠気が背筋を駆け上がり、脳へと到達する。気絶とも言える形で、私は意識を呆気なく手放した。ポスン、と軽い音を立てて私が落とされた世界は、澄んだ水色の空に、ヒラヒラと桜が舞う幻想的な空間。顔を上げると色彩に加わる純白が、私の身体を簡単に掬いあげた。雪のような白い光彩が視界を覆い隠し、柔らかい髪が一房頬に落ちる。くすぐったくて身を捩ると、耳のすぐそばで喉で笑うような声が響いた。


「きみ、境界線はきちんと引いておくべきだと言っただろう」


清いほどの晴天を背に、鶴丸さんは私を抱き抱え、歩き出している。どこに向かうのだろうと思考を巡らせようとしたが、ぼうっと靄のかかっているように阻害されてしまう。

まあいいか、
此処にいたら、ずっと、ずっと美しい景色が見れる、

ずっと、


「……既に随分毒されているなあ」


睫毛を伏せる前に、儚い声が花弁と共に散っていった。しかし、柔い風が頬を撫でられるとその声も完全に消えていく。見えるのは目蓋の裏に広がる鮮やかな淡い世界、そして一振の白だった。

/top
ALICE+