※幻太郎が吸血鬼


白く薄い花弁がふわふわと風に揺れる可憐な花を、細い指がもぎ取った。ブチ、と音が鳴ったかと思えば、もぎ取った張本人は果実を食べるように口を小さく開き、空に顔を向けている。真っ赤な舌がチロリと覗く影の中に白い花は簡単に吸い込まれ、細い喉が妖しく嚥下した。は、花が……食べられてしまった……。唖然と私はその場に立ち竦み、パクリと花を飲み込んだ人影を眺めていた。視線に気づいたのか、スローモーションのように影が振り返り、儚さを帯びた表情が段々と悪そうに歪んでいく。口角が釣り上がり、目は細まり、にんまりという形容するのがピッタリの笑みを浮かべ、

「……ゆ、夢野……さん?」






とある日の昼下がり。春の微睡みにうとり、意識を持っていかれそうになっていると、何かが肩に触れた気がした。浅い午睡からゆっくりと目が醒めていく。……とても不思議な夢を見た気がする。夢野さんが花を食べる、美しく奇妙な夢。未だにぼんやりとする視界の中央で、段々と輪郭を帯びてくる端整な顔立ちがコテンと首を傾げた。「聞いてますか?」小鳥の囀るような心地良い声が耳に抜け、今度こそハッと冷水をかけられた如く飛び起きる。よ、涎は垂れていないだろうか、片手で口許に触れてみるけれどそれらしき痕跡はない。ほっと一安心である。クスクスと美しく笑う夢野さんの手元には原稿が置かれていて、どうやら私は大切な打ち合わせ中にあろうことかうたた寝をしてしまってたらしい。そんな私に彼は「……話を再開しますね」と言葉を続ける。新作の小説の話、POSSEの話、近くのトマトジュース屋さんの話、何故か時事問題の話、色んな話題に移り変わり、現在は現代怪異のお話だった。何だか小難しい。

「……ずっと黙っていましたが」

そんな靄から抜け出た世界の中、突如として切り出した夢野さんにどうしてか私は背筋が伸びた。ずっと黙っていましたが──、その先にある筈の言葉は中々続かない。私と夢野さんが小さな卓袱台ひとつを間に向かい合う部屋は酷く静かで、アナログの針時計の刻む音がやけに緊張感を生み出している。仕事中にこんな態度を取ってしまったから、呆れて怒られてしまうのかな。それか今迄の溜まりに溜まった不満かもしれない。不安に揺れる私の心はいざ知らず、彼は不意に肘を机に乗せた。目に見えるはずの原稿がクシャリと皺を寄せ、まるでわざとのようにも見える。それでも反射的に下敷きとなってしまった原稿を救い出そうと手を伸ばせば、するりと横から伸びた両手に包み込まれた。肩が上がるほど冷えきった細い指が柔い握力で私の手を握りる。驚いて顔をあげると、均整な顔が憂いを帯びて見惚れるほどの透明感を放っていた。そして少し見つめ合うような形で沈黙が続き、私は耐えきれず目線を泳がせる。「な、なんでしょう……?」恐る恐る問い返すと、彼は小さく嘆息して視線を少し下げた。じっと光によって色を変える虹彩が、私の首元当たりを見つめている。力強い眼光と哀愁を感じさせる表情とがあべこべで、そのアンバランスな雰囲気に少し怯んでしまう。そして薄い唇が開き「小生……」と言葉が紡がれた。

「実は、吸血鬼なのです」
「……はい?」

予想外の答えに、ぽかんと小さく口が開いた。何がくるのだろう、と構えていただけに空振りがあまりに激しい。ガクン、と芸人さながらの反応してしまった。「おや、ひな壇芸人の物真似ですか」違う、物真似じゃないしこれは不本意だ。嘘でしょう、この雰囲気で小学生のような嘘をつくなんて。しかも……え?吸血鬼とは?「人間社会に紛れて暮らしていました」「小生が最後の吸血鬼です」「最近は血を飲んでいないので弱っています」違うそうじゃない。矢継ぎ早に設定が上乗せされて、いやいや待って、と私は既にパニックである。夢野さんは色んな世界観を持っているので普段から少し反応し難い会話が繰り広げられることも珍しくないけれど、ちょっとそれ、今じゃないです。「……いつもの冗談ですか」と少し気が抜けた声を挟むと、饒舌に回っていた口は三角に結ばれ、ムスッと私を見つめた。分かりやすく拗ねていた。そんな反応されても困る。突然吸血鬼だとカミングアウトをされ、すんなりと受け入れる人の方が少ないと思うのだけど。

「どうしてそんな猜疑的な反応をするんです。帝統はすぐに信じてくれましたよ」
「あ、有栖川さんは純粋なので」
「ほう。その言い方だと小生が純粋な帝統を騙しているようですが」

恨みがましそうに細目で私を見る夢野さんに、苦笑いを返した。そう言われても……というのが本心である。

「……もしかして新しいネタですか?」
「もしそうだとすれば、先程の打ち合わせで言うでしょう」

ご最もだった。私達が今現在顔を合わせているのは予定の確認と新作の打ち合わせであり、つい先程新作の試し書き原稿を読み合わせたばかりだ。しかしその内容には吸血鬼の「き」の字も出ていないし、全く関連性がない。ちなみに彼はいつも笑顔で嘘をついて欺いてくるので、普段から言葉の節々を疑っている。この話題に関しては疑う以前の問題だけど。構ってほしい小学生が思い付く「俺って前世は王様なんだぜ!」レベルの真っ向のお巫山戯である。なので、直ぐにいつものように「嘘ですよ」という言葉が降りるのを私は待っていた。

「小生は紛うことなき吸血鬼です」
けれど今回の夢野さんは中々折れない。

私は一度瞑目して、ゆっくりと目蓋を持ち上げた。新雪のように冴え冴えとした白肌に色素の薄い栗色の髪、じっと私を見つめる瞳は長い睫毛に縁取られ、蜂蜜のように蕩けそうだ。改めて彼の顔をじっくりと見て、言われてみれば確かに吸血鬼のようと言われても頷けてしまう。日焼けを知らない純白の肌は、如何せん病的なまでに白い。吸血鬼は太陽を嫌うと言うし、太陽を避けると言う。私の知っている夢野さんはいつも部屋で執筆し、何か用があれば夜中にコンビニ行くか、私に用事を頼むことが多い。夏でも肌が覆われた服を好んで着るし、汗をかいているところは見たことがなかった。いつも体温が低いのか指先はひんやりと氷のように冷たくて、とそこまで考えて私は固まった。……あれ、なんだか吸血鬼ぽくね?と思ったのである。やだ、じわじわと本当に吸血鬼のような気がしてきた。タラりと嫌な汗が背筋を伝う。私は頭を抱えた。

「……本当に吸血鬼に見えてきました」
「だからそうだと言っているでしょう」
「で、でもいつも嘘ばっかり……」
「小生は一度も嘘などついたことはありません」
「それは嘘です、いやそうじゃなくて」
「嘘じゃありません」
「……ど、どれがですか」
「嘘をついたことがないというのが嘘です」
「え、っと……う、嘘をついたことがないというのが嘘なので……吸血鬼のやつも嘘?」
「嘘です」
「やっぱり……」
「すみません。嘘というのが嘘です」
「……」

……わっかんねえ!!!
私は内心叫んだ。会話の中に嘘という単語が出すぎて、容量の小さな脳は既にパンク状態である。見事なまでにゲシュタルト崩壊が始まってしまった。嘘とは何ぞや?頭が痛い。「麻呂がこんなにも意を決して告白したというのに……なんて薄情な……」それでもなお私を非難しながらオロオロと泣き真似をしている夢野さんは、本当にしぶとい。なんでだ。腕で目を覆っている彼はチラリとその隙間から私を覗き見ると、薄柳色の瞳を光らせた。

「して、名前。小生には物理的証拠があります」
「し、証拠?」
「確かめますか?」
「……確かめられるのなら?」
「しかしお見せするには少し際どい部分にありまして」
「私は構いませんけど」
「……助平」

花魁のような色気を放ち胸元で両腕を交差させる。誰が助平だ!!名誉毀損だ!!私はまた噛み付こうとしたけれど、夢野さんがギシリ畳に音を立てたので、ゴクリと生唾と共に喉の奥に流れてしまった。乗り出すように彼の上半身が卓袱台を跨ぎ、近付いた顔が目前に迫ってくる。目を見開いて反射的に逃げようとするけれど、柔く握られていた彼の指がするりと上に這い、私の手首を捕まえる方が早かった。逃げることが出来なくなった私の前で自身の片方の唇を横に引っ張ると、白く歯並びの良い歯が顕になる。

そこで「……ひえ、」私は素直に驚きの声が漏れた。徐々に明かされていく歯の途中、犬歯のような牙がキラリと先端を光らせたのだ。一本鋭く生えているそれは八重歯のようにも見えたけれど、私の知っている限り八重歯はここまで鋭く尖っていないし長くない。ドクン、と心臓がの鼓動が指の先まで鳴り響く。う、嘘だ……と目を丸くする私に、幻太郎さんは口許から手を離し、瞳を三日月に曲げた。「嘘じゃないですよ」と薄い唇を持ち上げ悠々と口にするが、そんな事実呑み込めそうで呑み込めない。

「立派な牙でしょう。小生は吸血鬼です」
「牙……」
「はい。普段は見えないよう隠していましたが」
「でも……な、なぜそのことを私に?」

ほ、本当に牙だった……。私は信じざるを得なかった。事実としてこの目で見てしまったのだ、あれは普通の人間に生えていい代物じゃない。けれど、もし本当に伝説に生きる怪異なのだとしたら、どうして正体を私に明かしたのだろう。私と夢野さんは仕事で出会ってから付き合い一年ほどで、それなりに仲はいい。でもそうとして私に言う意味が分からない。今の今まで吸血鬼などとは思いもしなかったし、私はお祓い屋でもなければ怪異に精通した研究者でもないのだ。そんな困惑が彼に伝わったのか、私の手首を掴んだまま美しく花を綻ばせた。

「そこが本題です。名前には折り入って頼みがありまして」
「頼み……?」
「ええ。小生の生贄となっていただきたい」
「は?」
「生贄です」

妙に物騒な言葉だ。「いけ……にえ」確かめるように彼の言葉を復唱すると、妖しげに笑みを深める夢野さんの纏う空気が変わった気がする。

「え、や、なんだか物騒ですよ、夢野さん」
「おや。どうしたのですか?急に怯えて」
「……そ、それは」
「少し言葉選びを間違えましたね。生贄ではなく、生き餌でも構いませんよ」
「も、もっと物騒です!」
「ココ最近血を飲んでいないんです」
「っわ、私の血がほしいってことですか!?」
「はい」

語尾に音符でも付きそうな軽快さで、彼は頷いた。待って、と止まりかけていた思考に再度エンジンをかける。未だに夢野さんの法螺話が続いている可能性も否めないでもない。でも、でも、さっきの牙が本物なのだとしたら、彼はきっと……正真正銘、人の生き血を餌とする吸血鬼なのだ。サァァと血の気が引いていく。こんな状態の私、絶対美味しくないよ、とブラックジョークでも繰り広げてしまいたい。まだ間に合う、間に合うから嘘だと言ってほしい。私は夢野さんの顔をまともに見ることができなかった。

しかし、その時だ。彼はさも邪魔だと言うように、簡単に卓袱台を脚で蹴り退かした。優美な所作しか見たことがなかったから、その粗雑な行動に固まってしまう。彼と私を挟む障害物はゴロンと横向きに転がった。あっという間に距離を縮められ、そのまま仰け反った私に覆い被さってくる。掴まれたままの手首のせいで上手くバランスが取れずそのまま畳に背中がぶつかった。私を見下ろす瞳の奥は爛々と獣のように鋭く光り、本能的に鳥肌が立って背筋が震えてしまう。私はどう見ても捕食される側の生き物だった。

「ゆ、夢野さん……っ」

ま、まずい。このままだと本当に文字通り血肉を貪られて食べられてしまう。私は冗談でもなく本気で感じた。思い出すのは吸血鬼をテーマにした海外ホラーの残虐なシーンで、ぐったりと骨を見せて横たわる女性と、口元を真っ赤に染め上げて牙を剥き出しにした恐ろしい怪物。ゴクリと恐怖で喉が慄く。にんまりと口を閉じて笑っているはずの夢野さんからチラリと鋭い歯が除き、赤い舌が艶めかしく唇の淵を舐めている。

「わ、わわ私……お、おいしく……ないです……!」
「ふふ。それは小生に確かめさせてください」

容赦なく顔は近付き、私の首元に熱い吐息がかかった。ひぃ、と思わず身を捩る。た、食べられる!やだ!死にたくない!渾身の力で夢野さんを押し返そうとするけれど、私よりも華奢だと思っていた細腕は意外にもビクともしない。焦りでちょっと泣きそうになっていると、湿った温い何かが鎖骨からツツ、と耳元まで這っていく。耳の縁を辿るように丹念に舐め上げ、ぴちゃぴちゃと厭らしい音が鼓膜を揺らした。「っひ、ぁ」そのまま首筋まで熱い下が降りてきたかと思えば、唇が何度も同じところを口付ける。触れるか触れないか程度の距離感は、まるで羽毛を擦り付けられているようで擽ったかった。やがで一点を湿った舌がザラりと押し付けられ、くぐもった声が漏れてしまう。段々と内側から熱が滲んでいくのが嫌でもわかった。

「……はあ、名前……なんて愛らしい」

恍惚とした声が首元で響き、そして肌に硬い何かが触れ「……ッいっ!?」プツン、と皮膚が貫かれる痛みが全身を包んだ。痛い痛い痛い!突然の衝撃に、堪らず逃げようとするけれど、押さえつけられたまま動けもしない。ゆっくり離れていく牙から赤い血が滴り落ち、彼の瞳の奥には劣情の影が垣間見えた。それを見てしまえば抵抗力なんて呆気なく消え、煩悩に思考が支配されてしまう。溢れ出る血をジュルジュルと舐め取る音が、いやに生々しくて耳を塞ぎたかった。

「……っはあ、甘いですねえ」
「……んっ、ぁ、ぃた、い」

傷跡を吸われてグリグリと舌で押し付けられて、痛くないわけがない。それでも痛みだけじゃなくて、ゾクゾクと背筋が粟立つ不思議な感覚に唇を噛む。首に埋もれた髪が動く度に擦れて擽ったい。吸血されるとは、こんな感覚なのだろうか。思っていたのとまるで違う、私が思っていたのはもっと痛くて残酷で残虐なものだったのに。

「ふっ、ぁ」
「フフ、可愛らしいですよ」

こんな快感の滲む声ではなく、泣き叫ぶ悲鳴だったのに。一通り満足したのだろうか、やがて血を啜る音もなくなり、夢野さんがゆっくりと顔を上げた。口端に残る真っ赤な血を舌先で器用に舐め取り、酷く妖美な笑みを浮かべている。

「はぁ……名前の血はとても甘美ですね」
「……っひ、酷いです……ゆめの、さん…」
「おや、その割には官能的な声が出ていましたが」
「なっ……なにを……っ」

フフン、と私を鼻で笑うと、夢野さんは床に散らばる紙を手探りで拾い上げ、同じく落ちていたボールペンでサラサラと何かを書き始めた。私はもう何が何だか分からず、呆然と彼を見るしかない。血を吸われた首元が嫌に熱くて、そこから心臓が飛び出してしまうのではないかと思ってしまうほどだ。ドクンドクン、と全身で鼓動を感じていた数分後、何かを書き終わった紙を丁寧に私の目前まで持ってくると、彼は丁寧にタイトルを読み上げた。

「これは契約書です」
「……け、けいやくしょ?」
「はい、小生と貴方の契約書です。勿論タダで小生の生き餌となれとは言いません。契約の下、給与も発生します」

そして書かれた金額に目を剥いた。待って、この額、今の私の給料よりも高い。どういうことだ。契約は簡単に要約すれば、1日1回は必ず血を吸わせろ、逃げることは許さない、無断で逃げた場合は骨の髄まで喰らい尽くすと言った内容だった。私は一番最後の文を目に通したと同時に恐れ戦き、震え上がる。骨の髄まで喰らい尽くすとは、それはつまり「死体も出ませんねえ」完全犯罪である。そんなのおかしい。私は死にたくない。それに、お給料は確かに魅力的だけれどこんなに毎回こんな思いをするのは嫌だった。当たり前に首を横に降り、いやいやと言っていれば、夢野さんは貼り付けた笑みを崩さず、私の唇に自身の唇を重ね合わせた。そのまま口内を蹂躙し、私が噛み締めたせいで切れた所を入念に舐め上げる。そして痺れて動けなくなる私の手を取り、ゆっくり私の首元まで運ぶと、垂れる血に触れさせる。ヌルりとした生暖かい血が気持ち悪くて顔を顰めると、あろうことかそのまま紙に押し付けた。グリグリと強く押され、解放された頃には、契約書の下の方にしっかりと私の指紋が収まっている。……やられた。

「や、やだやだ!!不正です、嫌です!絶対に嫌です!」
「不正も何も、こうやってありますしねえ……正真正銘、貴方の捺印が」
「ご、強引です、最低です!」
「それに血の契約ともなれば……簡単には撤回できません」

悪魔のようだと思った。強引なだけでなく、言葉巧みに知恵を用いて私を嵌めようとしている。どう考えても不正だし従う必要はないのにこの場の空気と体勢と、何より目の前の夢野のさんの顔を見れば、抵抗力が段々と無くなっていくのだ。飲むしかない、そんな思考でいっぱいになってしまう。花弁が散るように笑う彼は、甘ったるい声で私を呼んだ。「いつどんな時でも小生の傍にいますか?」結婚式じゃないのだから、という声は出なかった。

「無言は肯定と捉えます」

そしてリン、とどこかで縁を繋ぐ音がした。幻聴かもしれない、けれど確かに契約が交わされてしまったような気がして私は泣きそうになる。既に逃げたかった。けれど逃げれば骨の髄まで喰らい尽くされる、ホラー映画エンドまっしぐらだ。

「偉い偉い。これからも小生のことを宜しくお願いしますね」

そう言って、彼は夢の中で見た夢野さんと同じ笑みを浮かべ、鈴の音のように笑ったのだった。

/top
ALICE+