「もーーーーーやだ!」

私は自分でも驚くような大声と共に、ずっと睨めっこしていたノートパソコンを勢いよく閉じた。ついに閉じてやった。もう知らない!気分はまるで長年の恋人との大喧嘩である。もう絶対相手なんかしてやるものか、そっちから謝ってきたら考えてあげるけどね!と強気の姿勢だ。けれど、腹の底からじわりじわりと自己嫌悪と後悔とが混ざりあって、どうしようもなく涙が浮かんでくる。うわーーーーと行き場のない苛立ちとモヤモヤをぶつけるように、自分の頭を掻き毟った。そんな様子を少し離れたソファから眺めていた乱数は「どーしたの?」とその真ん丸なお目目を瞬かせ、低い声で唸る私に問いかけた。作業をしていたパソコン用の回る椅子から腰を浮かせ、フラフラと覚束無い足取りで乱数の元へと歩んでいく。それを察したのか、両手を広げて花のように微笑む乱数に、更に泣きそうになった。酔っ払いのように足を引き摺りながら、ポスッと彼の胸に崩れ落ちる。そのまま薄い腰に手を回して、ぎゅうと力強く抱きついた。肺の奥まで蕩けそうな甘い匂いに包まれて、まるでお花畑にいるみたいだ。大きく息を吸ってその香りを堪能する。えーん、乱数の匂いだ……癒される、もうほんとにずっとこうしてたい。

「偉い偉い、名前はよく頑張ってるねえ〜」

私の意外な行動に、戸惑うどころか愉しさを滲ませた声が頭上に落ちた。きっと乱数は小さな唇を吊り上げて、愛らしく笑っているんだろう。耳を撫でる声は、酷く心地がいい。「よしよし」先程掻きむしったせいで乱れた髪を、柔らかくも少し骨ばった指が、ゆっくりと子供をあやすように撫でた。そのまま櫛で梳かすように髪を整えられて、連日の寝不足もあってか、それだけで簡単にとろんと夢の世界へいけてしまうような気がした。時折悪戯っぽく旋毛を押したり、髪を弄られるけれど、全部擽ったくて身を捩る。「顔見せて?」今度は優しく落とされたことばに、グリグリと乱数の服に押し付けていた額を離した。抱き着く体勢はそのままに、首だけを上に向ければ、雲ひとつない晴天のように澄んだ瞳がじっと私を顔を見ている。まるで本当に空を見上げているような気分になって、へにゃあと笑った。ココ最近部屋にこもり切っていたから、乱数にはめ込まれた露草色の宝石は、とっても神聖なものに見える。

「うう……乱数ぁ……」
「アハハ、今日は甘えただねえ。課題終わったの?」
「……終わってない、むしろ間に合わなかった、しぬ」
「えー!?そうなの?やっと僕に構ってくれるのかなって思ったのに〜」
「乱数が構ってくれるなら課題なんていつでも捨てれる……」
「嘘ばっかり!名前が課題やるから暫く会えないとか言い出したから、わざわざ僕が来てあげてるんじゃん」
「だ、だって……でもいい、捨てる、乱数がいるなら乱数をとる……」
「調子がいいなあ」
「でもどの道間に合わなかった……初めから乱数を選んどけばよかった……」
「嘘ばっかいう子は嫌いだよ〜?」

そう言って頭に乗っていた乱数の手は、私の頬っぺたを摘みあげる。縦横斜め、と子供のように引っ張られて「……い、いひゃい……」大した抵抗もできずに受け入れた。確かに、直前までやらなけらばいけないことを溜め込む悪い癖が爆発して、一方的に引きこもるから!と連絡したのは私だ。それなのに今更甘えてこられても、乱数からしたら調子が良いと思うのも犬が西向きゃ尾は東、至極真っ当で反論の余地もない意見である。頬を散々引っ張られて、そろそろ痛い。ヒリヒリと鈍い痛みを与えてくる地味な攻撃に、目じりに薄らと泪が溜まってしまう。それに気付いたからなのか、乱数はパッと私の頬を摘むのをやめ、代わりにそっと掌全体で包み込まれる。温かい体温が気持ちよくて目を細めると、彼は酷く優しい顔で「嘘だよ」と囁いた。

「わあ、乱数こそ幻太郎みたいなこと言うんだね」
「いいじゃーん、たまには僕だって悪い子になりたいの!」
「普段はいい子なの?」
「うーん……そうでもないかな?」
「あはは、ダメじゃん」
「でも名前にだけだよ」
「へ?」
「名前は虐めたくなるから、僕いっつも悪い子になっちゃう」

そう言って近づいてくる乱数の意地悪い顔と言ったら、だ。チュ、と可愛らしい音を立てて離れて、私は分かりやすく顔に熱が集中するのを感じた。きっと今頃頬は真っ赤に染め上がり、情けない顔をしているんだろう。柔らかい甘美な感触の余韻から中々離れられず、思わず縋るように乱数の顔を見た。私を見下ろす乱数の瞳には影が落ち、長い睫毛を伏せて不敵に口角を上げている。確かにこの顔は、悪い子の顔だと思った。

「らむだぁ……」
「僕、名前の課題を邪魔する悪い子になってもいい?」
「……むしろ、なってくだ……さい」

言ってる間になんだか恥ずかしくなって、モゴモゴと言葉が濁ってしまう。それでも嬉しそうな声を漏らし、硝子細工のような目元を綻ばせた。桃色の横髪をぴょこんと揺らしながら再度近付いてくる顔に、ゴクリと生唾を飲んで構える。すると、固く緊張していた首筋をツ、と撫でられて、反射的に思わず目を閉じた。「……ダメだよ、そんなに見ちゃあ」睫毛を伏せて視界が暗くなった途端、少し掠れた声と共に柔らかい唇が降り注ぐ。耳に残る色っぽい声だけでも震えるのに、息もさせない貪るようなキスに、心臓が早鐘を打った。ドクドクと口から出てしまうのでは、なんて思うほどの勢いで全身に酸素が送られるのに、肝心なところで息が出来ない。空気を求めて口を開けば、生温い舌が簡単に侵入し、上顎を舐めた。

「っ、ふ、ぁ……っ」
「……んっ、可愛いねえ」

もう本当に、私の世界は乱数だけでいい。
糖度の高い湖に溺れてしまうような夢心地で、私は彼の首に腕を回したのだった。

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