「あっ」

いらなくなった手紙や書類を断捨離していた、そんな日のことだった。うちにはシュレッダーなんていう便利なものはないので、個人情報だったりが記載されている部分はハサミで切って捨てるという原始的なことをしていたのだけど、最近買った鋏が思いの外切れ味が良くて、気付けば親指に白い線が入っていた。あ、切っちゃった。そう思っていたら、少し経ってドクリドクリと赤い血が滲み始めて、我慢出来ないこともない痛みが襲ってくる。あわあわとティッシュを探すけれど、普段からあまり整理整頓をしていないせいか、肝心な時に見つからない。こんな時にツケが回ってくるとはなんたる不覚……!と、そんなことを思っている間も溜まった血がぷっくりと膨れ上がり、今にも垂れてきそうだった。まずい。何がまずいって畳に血が垂れて取れなくなるのが一番まずい。

「おい、なんか封筒届いてんぞ……って何してんだ?」

その時だ。タイミングよく襖を開いた先にいたのは、恐らく郵便ポストを確認した帰りの空却である。ナイス!と親指を立てる私に「は?」と怪訝な顔を浮かべる空却だったが、とりあえずティッシュを探して欲しいと言えば、はてなマークを浮かべ愚痴を言いながらも協力してくれる。多分その辺、という曖昧な記憶を当てに捜索していると、やがて空劫が角の潰れた箱ティッシュを発見した。

「わわ、潰れてる」
「相変わらず扱いが悪ぃな」
「……否めん」

有難くそれを受け取って、いざ傷口の血を拭おうと左手を出せば「……は?」もう一度低い声と共に、目の前から飛んできた指が私の手首をガッチリと掴んだ。突然のことに目を丸くして小さく悲鳴を上げるけれど、それよりも空却は私の傷跡から目を離さず、珍しく檸檬色の瞳をかっ開いている。

「あ?何だよこれ」
「へ、あ、ああ……さっき鋏で勢いよく切っちゃって」

思わぬ気迫に上擦った声で説明するも、空却は納得するどころかその精悍な顔を歪ませてしまった。骨ばった細い指にグッと力が入り、思わず片目を細めて痛みに耐える。無意識のうちに力を込めてしまったんだろうか、空却、痛い」と口にすると簡単に緩んだ圧力にほっと胸を撫で下ろした。

「……あ、ああ、悪ぃ」
「私なら大丈夫だよ」

ほら、渡されたティッシュで傷口を押さえると、じんわりと薄い白色に血が滲んでいく。それをペラリと剥がすと、周囲は少し赤く染ってしまったものの、そこまで深くない切り傷が姿を現した。ほら、意外と深くない。たかだか鋏で切った程度なのだから、2、3日すればすぐに傷は塞がって何も残らないだろう。ほらね?そう安心させようと空却を見た時だった。

「……え、」

想像と違うその表情に、私は動きをとめた。私を見つめる空却の瞳孔は細まり、瞳の奥は燃えるように蠢いている。いつかの喧嘩帰りかのようなこわい顔をして、空却は我慢ならないとでも言うように舌打ちした。それがただ私の傷の心配をしているのでは無いということは簡単に分かって、気づかれないように生唾を飲む。刺激をしてはいけない、そんな本能に従った行動だった。空却を包む空気に慈愛はない、むしろ憎悪と嫌悪感で充たされていて、私の肌はピリピリと痺れる。「……空却?」恐る恐る声をかけると、鋭く目を細めたままの空却と視線がかち合う。

「こ、こわい顔してるよ、空却」
「……んなもんどうでもいいわ」
「え?」
「何こんなやつで勝手に傷つけてんのお前」

こんなやつ、空却が指しているのはきっとあの鋏のことだ。私は大袈裟だよ、と軽口を叩こうとしたけれど、そんなことを言い出せる雰囲気ではなかった。空却は本気の怒り心頭といった感じで、私の冗談が通じる状態じゃない。

──いつの日か、僧侶のくせにピアスが多数空いている彼に「私もピアスを開けていい?」なんて問い掛けをしたことがある。それこそ、本当に軽いノリで。なんとなく今その記憶を思い出して、ハッとした。『……ア?拙僧のモンに穴開けさせるわけねえだろーが』そんなことを言っていたのは、確かにこの僧侶だったっけ。なら、今空却が意志のない鋏に感じているのは、なに、対抗心?一体何の?空却を落ち着かせようと、少し震えるもう片方の手を、私の手首を握る白肌に重ねた。ヒンヤリとした体温を包み込むようにして「すぐ治るから」と笑うと、空却は渋々と言った表情で、その細い首で頷かせるけど、その鋭利な瞳を和らげることはない。

「……痛ぇのか」
「痛いっちゃ痛いけど……そこまでだよ?」
「そうかよ」
「ううん、心配してくれてありがとうね」
「じゃあ、」
「じゃあ?」
「拙僧が上書きする」

そう言って、空却は徐ろに指輪を自身の指からするりと抜き出した。な、何をするんだろう。なんとなく見ていた指輪は、カチッと音を立てると内側から鋭い光を放ちながら金属が覗いた。尖端が此方を向き、触れるだけでプツリと斬れてしまいそうな凶器が瞬く間に現れる。なんちゅーもん持ってるんや!それ暗殺者が持つやつじゃん、毒塗りこんだりしてるやつじゃん!私はド肝を抜かれた思いで目を丸くして、思わず後ずさった。ま、待って、それはあまりにもおかしい、物騒だ。傷害だよ、空却。上書きってまさか更に傷口を抉るとか……ひぃ!私の心の動揺なんぞ聞こえないのは分かっていても、実際にそれを声に出せる雰囲気じゃなかったから仕方ない。ただただ冷や汗を流す私に、空却は何処ぞの小説家の彼のように「……嘘だがな」とニンマリ笑うのだった。大人しく指輪を付け直す彼にホッとするものの、冗談に聞こえないから本当にやめてくれ。

「ま、上書きってのはマジだ。こうやって、」

ヌルりと、空却の熱い舌が指先を掠めた。蛇のように指の付け根まで這ったかと思うと、傷口に舌を押し付けて、垂れる血をじゅるりと吸い上げる。途端にピリリとした痛みが襲った。「っひ、やだ……っ!」痺れるような感覚が背筋を駆け上がり、慌てて手首を払おうとするけれど、いつの間にかまたガッツリと掴まれた手は中々離れない。いつも涼やかな風貌をしているのに、彼の口内は驚くほど熱くて、頭がクラクラとする。

「く、うこ……っくすぐったいし……ちょっと痛い……!」
「……っは、勿体ねえだろ」

そんなことを言って、空却は意地悪く舌を出した。私の血を散々舐めとったからか舌先は普段よりも紅く扇情的に染まりあがっていて、顔がカッと熱くなる。ほんとに、この僧侶詐欺……!光が当たって太陽のような瞳の奥がゆらりと色情に揺れ、私は観念したように空却の頬に手を添えた。それすらも分かっていたかのように愉しそうに目を細めると、グッと私の腰に腕を回して力強く寄せ付ける。ピタリと密着する身体に、互いの心臓の鼓動が酷く響いた。

「……お前もその気じゃねえか」

据え膳食わぬは男の恥ってな。
そして降り注ぐ柔い唇からは、少し鉄の味がした。それが私の血だと思ったらなんだか複雑で、それでも深く絡む空却の舌がそんな思考も蕩けさせてしまう。伏せ目がちに見下ろされ、私はドロドロとしただらしない熱を受け入れるのだった。

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