「……あっ、左馬刻さん」
「……おー」

サラサラと髪が靡く、春の夜。時刻は23時、カラカラと窓を開く音がしたかと思えば、お隣さんの左馬刻さんがひょっこりベランダの壁の奥から顔を出した。手すりに肘を乗せて、おもむろに取り出した煙草に火をつけている。カチ、とライターの無機質な音がした後、私はバレないようにチラリと彼を盗み見た。オールバックにしているイメージだったけど、今日は前髪が無造作に垂れている。いつもと違う様子に当たり前に私はドキドキした。

「お、お風呂上がりなんですね」
「おう」
「お風呂上がりなのに煙草吸っちゃったら匂いつきませんか?」
「……どうせ匂いつくんだから一緒だろ」
「アハハ、確かに。あれ、左馬刻さん、煙草変えました?」
「……?変えてねえけど」
「この間は違うの吸ってた気がして」
「あー……部下が間違って買ってきやがったんだよ」
「へえ」

間違って買ってきた煙草なのに、ちゃんと吸ってあげるんだ。なんとなく今の会話の中でも彼の優しさが滲み出ている気がして、私は口元が緩んだ。フウ、と左馬刻さんの口から白い煙が宙に吐き出される。本当にお風呂から上がったばかりなんだろう、よく見ると髪の毛の先には小さな粒がキラキラと反射していた。ちゃんと乾かしてから来たらいいのに、そんなに煙草吸いたかったのかな。私は当然彼の顔が見れて嬉しいのだけど。じっと見つめていたら「……そんな見んなや」と言われてしまったのでこれからは隠れて見ようと思う。

「暖かいなあ」

こんな日には晩酌がしたいですねえ。なんて、呟いたらちゃんと返事がくる。私の最近の楽しみは、この掛け合いにあった。と言っても、まともに話すようになったのは本当に最近の話なのだけど。


──私にはDIYという、トレンドに影響されまくりの趣味があった。なのでまずは取っ付きやすいベランダを自分好みのテラスに改装中なのだけど、正しくその作業中に、お隣さんの存在に気づいてしまったのである。はじまりは、私がお花を植木鉢に移し変えているところからだった。突然ガラリとベランダの戸をスライドさせる音が響いたかと思えば、舌打ちをする不機嫌くさい男性の声が聞こえたのだ。「ックソ!」と舌打ちだけならず、抑えきれない苛立ちの声まで聞こえる。私は固まった。うわ、まじか。お隣さんこんな怖い系の人だったんかと、本気で引越しを考えた。その一瞬で存在がバレないように、ビクビクしながら部屋に戻ろうと企てていた。やばいやばい、隣に住んでるのがこんなチョロそうな女だってバレたら何されるか分かったもんじゃない。残りは明日やってしまおうと手に着いた土を軽く払い、音を立てないようにソロりと一歩ずつ踏み出す。しかし、その時ふと香ったことのある煙草の匂いが鼻を掠めた。動揺なんてするつもりはまるで無かったのだけれど、一瞬思考がそっちに偏ってしまい、踏み出す足の位置を間違えた。本物の馬鹿である。地に足が着こうとした瞬間、グリィ!と足の裏に何かが食いこんだ。

「っっっいっだぁぁあ!!!?」

はぁ!?いった!!!何これ、はぁ!?私はブチ切れながら涙を浮かべるという器用な技術を駆使しながら、その片脚になってその正体を確認する。そしてまたブチ切れた。それもそのはず、私の足の裏にはその辺にポイッと放っていたはずの尖った積み木が食いこんでいたのである。アルファベット入りの積み木を飾ったら可愛いんじゃね?なんて思って購入した代物だった。可愛がろうとしていたのに……!こんな形で主に一矢報いるなんて……!クソ、燃やしてやる!燃やしてやるかんな!私はBのアルファベットが印刷された積み木を握りしめ、火炙りの系にすることを誓った。

しかし、その時私は一つ忘れていたのだ。

どうして私は部屋に戻ろうとしていたのか、どうして一瞬でも思考が止まってしまったのか。「……大丈夫か」聞こえたのは、低く、それでいて艶のある声だった。私は一人暮らしの学生だ。部屋に連れ込んでいる男もいなければ、同居している人もいない。この部屋は角部屋のため、お隣さんは一人しかいない。ならばこの声の正体は──恐る恐る振り返る。そしてその声の主は、ベランダの敷居の向こう側から、手すりに肘をつき、覗き込むように私のことを見ていた。ポロリと積み木が手の中から落ちる。乾いた木の塊が軽妙な音を鳴らし、転がっていく。

「……だ、だいじょばない……です……」
「……そうかよ」

さっきの悪態をついた恐ろしさなんてどこなもない。本当に同一人物なのかと、この瞬間私の頭の中はでグルグルと巡っていた。
そしてこれが後に──左馬刻さんであると知る、お隣さんとの出会いだった。第一印象は、こんなカッコイイ人が世の中に存在していいのか、である。さっきまで怖い怖いと引越しまで考えていたくせに現金な奴だと自分でも思う。頭の中は真っ白になっていたものの、ガチガチに緊張しながらロボットのように部屋の中へと退散した。

しかしそれ以降、私は無性に左馬刻さんの存在を意識しすぎてしまって、ベランダに出ることが出来なかった。ベランダの戸が引かれる音がすれば、飛び跳ねて壁に張り付き忍者のごとくその気配を辿っていたし、隣からドン、と何故か壁を叩くような音がすれば、謎にファイテングポーズを決めて威嚇した。それもこれも、お隣さんの顔があまりにも綺麗でかっこよくて、あの一瞬が脳裏にこびり付いて離れやしなかったからだ。買い物に行く時も、小学生が信号を渡るように右を見て左を見て周囲を確認しながら廊下を渡った。我ながらとっても気持ち悪いなと思った。とは言っても、私の趣味はDIYとベランダ作りである。当然薄いガラス戸の奥には、放置された私の可愛いお花や憎き積み木、その他諸々の道具が散乱している。いつまでも放置なんて出来るわけがなかった。きちんと管理されたいないお花の寿命は長くない。そしてある太陽の傾いた夕方頃、意を決してベランダに出た。ガラガラと少し滑りの悪いガラス戸を引き、放置された木目のタイルや道具を片付けていく。そして気が乗って色々と作業を進めていれば、気付けば紅く染まっていた空には星が浮かび、紺青色が広がっていた。作業に没頭すると時間を忘れてしまうのが私の悪い癖である。ある一定の作業まで終え、さあ、そろそろ夜ご飯の準備でもしようかと汗を拭う。良かった、思ったよりも普通に作業できた。そりゃそうだ、別にあの時は私が奇声を上げてしまったからお隣さんもビビって様子を見ただけだろう。私が大人しくしていれば何も無い。残念なような安心したような息をつきながら、私はいつかのお隣さんの如く手すりに肘をつき、空を見上げた。白い雲が時折月を隠し、ふわふわと流れていく。ベランダにはよく出るもののこうやって空を見るなんてしたこともなかったからだろうか。思わずその光景に見惚れてしまっていた。テラス、早く完成させたいな。月の綺麗な夜に、ベランダで晩酌なんていうのもとても良いかもしれない。

そして、ガラリと、戸を引く音がした。迷いなく近づいてくる音に躊躇はない。きっと日課のようになっているんだろう。サンダルがカッサカッサと擦れ、そしてトン、と手すりに肘をつく。少しの振動が私にまで届いた。こうしてフェンスに身体を預けていれば、どうやったって隣の存在に気がついてしまう。月光を浴びながら、その美しい銀色の髪は煌めいていた。ゆっくりと私に向けられる瞳は赤く燃えている。

「……こ、こんばんは」

そうして、ベランダでの私の楽しみは、増えたのである。








「──おい、聞いてんのか」
「っへ、あっ、ああ、ごめんなさい」

回想に浸っていたら、隣から聞こえた声にハッと意識が戻る。慌てて左馬刻さんを見れば、呆れたような顔をして私を見つめていた。……うう、相変わらずとてもかっこいい。そんなに見られたら緊張してしまう。そんな私の心はいざ知らず、彼は言葉を続けた。

「じゃあ明日俺ん家でいいんだな」
「……………………はい?」
「ハア?アンタが言い出したんだろーが」

そこで私は先程までの会話を思い出した。そうだ、そう言えば晩酌の話をしていた気がする。こんな綺麗な月を見て、お酒を飲めるなら最高だよねって、そんな話をしていた気がする。それが回想に浸っている間に、いつの間にか進んでいたらしい。俺ん家でいいんだな。その言葉の意味を何度考えてもそういうことだった。まんまだった。恐らく左馬刻さんの家で晩酌をするか、という話になっているのだろうが、つかの間の意識が飛んでいた私からすれば寝耳に水である。晩酌の話だって決して彼を誘おうなんてそんな烏滸がましいことは考えていなかったのだ、本当だ。信じてくれ。じっと私を見つめる椿のような双眸は逸れることがない。

「え、ええっと……い、いいんですか?」
「別にいい」

即レスされてしまえば、私から断る理由なんてどこにもなかった。ドキマギとする胸を押さえて「わ、わかりました」と言葉を返す。すると彼は満足そうに口角を上げた。

「じゃ、そゆこった。明日同じ時間に俺んちまで来い」

そう言い切ると、私に背を向ける。「っ、あ、あの!左馬刻さん!」そのまま部屋に戻ろうとする彼を反射的に呼び止めてしまった。それ以上進まれたら、この隔たりがあるベランダでは、思い切り上半身を投げ出さない限り見えなくなってしまう。いや、それが当たり前なのだけど……!ほんとにストーカーみたいだな私……!私の声に振り返った左馬刻さんは訝しげに私を見ている。何だよはよ言えやと言っているようにも見えた。ごめんなさい。でも、なんだかこのままは嫌で、その、とどのつまり、

「……お、おやすみなさい……っ!」

そう、おやすみなさいと言いたかった。ココ最近、毎日のように顔を合わせる左馬刻さんだけれど、それは彼が煙草を吸い終わる僅かな時間だけだ。彼は煙草を吸い終わるとあっという間に部屋に戻ってしまう。私は月を見上げるのが好きだからベランダに出ている、とかいう理由で通っているのでその後も暫く居座るのだけれど、いつもこの時間の終わりは彼が煙草の火を消す、ジュッとした音だった。それがなんだか寂しかったのだ。いつものように帰ろうとして呼び止められたはずの左馬刻さんは、突然の私の行動に少し目を丸くしたものの、すぐにいつもの顔に戻る。そして再び背を向けた。あ、と少し心が痛みかけたが「……おう、おやすみ」ボソリと聞こえた言葉に今度は私が目を見開く。ガラガラ、そして戸を締める音がした。私は手すりから腕を離して、思わずその場に蹲る。あーーダメだ、こんなのダメだ。顔が熱い。頬から、目から、耳から、あらゆる場所から火が出そうなくらいだ。去り際の左馬刻さんの声が忘れられなくて苦しかった。心臓はもう暴れんばかりに鼓動して、バックンバックンと全身に響いている。
やっぱり明日は断れば良かったかもしれない。

「……う、わあ……」

こんな状態で、左馬刻さんのお家に行くなんて、死にに行くようなもんだ。そう言いながらも明日着る服やら持っていくお酒やら、化粧はどうしようやらと様々な下心が頭の中を駆け抜けていく。こんな良いことがあっていいんだろうか、幸せすぎて死ぬんじゃないか。

淡い光が空から絶え間なく降り注いでいる。今日も月が綺麗だった。明日も、綺麗だったらいいなあ。

/top
ALICE+