本当に理解不能な出来事が起きると、人間というのは案外簡単に流されてしまうものらしい。例えば空から急に人が降ってくるだとか、絵本から飛び出してきたような化物に追われているとか、経験値だけでは到底処理しきれない現象を目の前にしてしまった時の話である。そして今この瞬間も、私はそれを強く実感していた。プルプルと小刻みに震える私を抱きかかえる人物は、それを泣いているためだと思ったようである。「泣かないでくれ、後少しだ」そう言って頭に柔らかいものが押し付けられて、私は尚更訳が分からず混乱した。違う、違うのだ。私が震えているのは悲しいからじゃない、泣いているからじゃない、そんなことではない、もっと根本的な問題であって、決して泣いているからとか寂しいからとかではない。先程よりも私を力強く胸に押し付けているせいで息が苦しい。薄い布越しのその体は、薄々感じていたけれど、やはり硬く引き締まった身体付きをしていた。ピッタリと頬がくっつき隙間はない中で、それでも何とか目線だけでも下に向け「……っひ、」心の底から後悔した。堪らず悲鳴が漏れた。本当に理解不能である。視線の先に見えたのは上からドールハウスを覗いたような縮小された街並みが広がっていて、ビュンビュンと音を鳴らして横を過ぎ去るのは高層ビルの横壁である。ああ、もう何もかも分からない。その時、耳よりも長いであろうその人の髪が私の頬に当たった。少し目線を上げてみれば、視界の端で金の髪が星屑を纏っているかと思うほどに美しく靡いている。ああ、やっぱり分からない。どうして私は今、天使のような人に抱えられ、ビルの屋上を駆け抜けているのかなんて、もう、全く、微塵たりとも。

 
 ハッと目が覚めたら知らないお家の、知らないベッドの上だった。パニックである。ふわふわと軽く身動ぎしただけで沈んでいく質のいいベッドの上で、何故か当たり前のように目覚める私。一旦落ち着こうと高い天井を眺める。もしかするとまだ夢の続きなのかもしれないと思い始めた。絢爛なシャンデリアによく分からない幾何学的な模様の壁紙、どう見たって私の部屋ではない、ならばやはり、きっとこれは夢だ。夢なのだ。ゆっくりと目蓋を閉じ、私は再び眠りにつこうと意識を集中させる。その時、ふと花を揺らしたような薫りがふわふわと鼻孔を掠めた。反射的に目を開けば、いつの間にか覆いかぶさっている謎の影に「……ひ、っ!?」私は露骨な悲鳴を上げ、上半身を持ち上げる。そんな私を見て影の正体は薄い唇を緩く持ち上げて、呆れたように笑うのだった。

「……ひ、あ、貴方は……えっ、え!?何!?」
「落ち着け。私は名前の敵ではない」
「な、何で私の名前………!」

 まず目に入ったのは、思わず目が眩むほどの黄金色。絹よりも細く繊細な髪はシャンデリアの光沢を跳ね返し、一本一本が硝子細工のように煌めいている。まじまじと上から下まで目の前の人物を眺めていれば、顎の骨格から指の先までそれはもう存分な造形美を感じさせられた。嵌め込まれた緋い瞳は私を射抜いたまま離れないから、私も見つめ返す他ない。……この人は一体誰なのだろう。こんなにも美しくて魅惑的な人、私の知り合いにいただろうか。そう思いつつ視線を下へとずらしていき「……あ、」私はようやく記憶を思い出す。高層ビル郡の隙間をビュンビュンと駆け抜けていた、夢の世界だと思っていた記憶を。

「あ、貴方はあの時の……」
「ああ。思い出してくれたんだな」

 思い出してくれたも何も、である。確かに朧気な記憶はじわりじわりと輪郭を帯びていっているが、それと同時に苦い思いが込み上げてくるのが分かった。化け物、人、血……どうして私がそんな場面に遭遇していたのかは分からない。そもそも記憶自体もブツ切りされたように中途半端なところからしか覚えておらず、その前後の出来事をまるで思い出せないのだ。分かるのは私を追いかける恐ろしい化け物と、血を吹いて倒れていく人、そして目の前の麗しい人とそれを照らす萬月だけ。思い出しておいてなんだが、どう考えてもただ事じゃあない。とんでもない緊急事態である。

 「私の名はクラピカだ。覚えているか?」固まってしまった私の頭を少しかさついた手が撫でる。クラピカ、クラピカさん。それは目の前の麗人の名前らしい。覚えているか、と聞いてくるということは知らない間に自己紹介でもされていたんだろうか。いつの間に?寝ている間に?いやいやまさか。それとも私とクラピカさんはどこかで会ったことがある?ああもう駄目だ、何が何だか本当に分からない。困惑しながらもとりあえず会釈をして、既に知っているであろう自身の名前を伝えれば、クラピカさんは私の頭を撫でながら薄く微笑む。

「今の君にどこまで通じるかは分からないが……私と君は以前から面識があるし安心してくれ。あの化け物は念獣だ。恐らく君は何者かに命を狙われている」
「……へ、」
「記憶の有無については私もよく分からない。しかし君の念能力を考えれば意図的に手放した可能性も高いな」
「あ、あの……念能力……?」
「念能力……まあ簡単に言えば、名前。君の力だ」

 やばい、本当についていけない。念能力?念獣?一体何それ状態である。力っていうか……え、私そんなの使えたの?凄くない?パチパチと高速で瞬きを繰り返す私は半信半疑でクラピカさんを見つめる。その視線を苦笑いで交わしたクラピカさんは肩を上げながら「残念ながら事実だ」と私の頭から手を離す。
 
「君とは三ヶ月前に出会った」

 離れた体温が少し名残惜しい……と思いながらも話を聞いて分かったのは、どうやら私はハンター試験をクラピカさんと一緒に受け、その過程で仲良くなったらしいということだ。恐らく狙われていたのは私が何らかの形で重要機密を知ってしまったからではないか──そんな結論に落ち着いた。私の念能力は記憶を操作できるようだからすっぽりと抜け落ちた記憶は意図的に手放したと見ていいらしい。念能力のことさえも忘れてしまっている私が果たして記憶を取り戻せるのかと真剣な顔で悩んでいれば「……名前のことだから」というよく分からないお言葉を頂いた。私のことだから、その続きが最も気になるのだけれど、催促するのはなんだか怖いので辞めておく。私の事だから何も考えていないのでは、そんな言葉が続けば、私はきっとこの先絶望ばかりで生きていけないだろう。

 そこからは、至れり尽くせりの状態で私はクラピカさんに様々なお世話をしていただいた。三ヶ月の仲がここまで深いものだとは思わなかった。襲われた時に利き腕を怪我してしまった私の口許へと料理を運んでくれるし、私が知りたいと言えば嫌な顔一つせずハンター試験時の事を語ってくれる。ゴン、キルア、レオリオ。クラピカさんの他にもそこで仲間は出来ていたようで、特にレオリオさんは見た目は20代後半のくせに19歳という詐欺野郎らしいこと、キルアくんは気まぐれで猫っぽいけれど私とはとても仲が良かったこと、ゴンくんは純粋を具現化したような少年であったこと、本当に様々なことを教えてくれた。説明するのがとても上手だから、一つ一つを鮮明に想像することができてフフッと笑いが溢れる。クラピカさんは一度は体験していることだから思い浮かんだ描写は記憶の欠片に刻まれているものだろう、と言っているけれど、もしそうとするならレオリオさんは本当に老けていることになる。それをそのまま伝えれば、クラピカさんは目を真ん丸にしてクツクツと肩を揺らして笑っていた。笑う姿まで上品で美しいなんて、なんてこった。そんな人がこの世にいること、それでいて目の前に存在することに今更ながら私は驚いてしまう。大きな瞳が三日月にしならせて耐えるように笑うものだから、頬は僅かに赤みを帯びて酷く扇情的に見えた。私はドキリと思わず心臓が揺れるのを感じたけれど、芸術品を見たら心が揺れ動くのと同じ感覚だろうな、と思い込んだ。
 でも、ふと気になったことがあった。三ヶ月前に確かに私達は苦行を共にし、かけがえのないものを手にしたのだろう。だけれど、今回は協力してなんぼのハンター試験中でも何でもない。個人的な私なんかのために、どうしてここまでしてくれるのだろう。「……そうだな、」結局その質問には薄く笑って誤魔化されてしまった。たまたま私とは会う約束をしていたようだし、仲間として見逃せなかったのかもしれないということで落ち着いたものの、もしかするとクラピカさんとは深い絆で結ばれているのかもしれないと自惚れた。……とは言ってみたが、真面目な性格をしているのはこの数時間でも分かるくらいなのだ。単に救けてしまった手前、放置することが出来ないだけかもしれなかった。うん、そうだよね、傷つきたくないしそう思っておこう。

「でも良かった、他でもないクラピカさんが助けてくれて」
「……何故そう思う?」
「だって、他の人達は……」

 私は手渡されたココアを左手で飲みながら、う〜んと首を傾げた。一体何といえばいいのか。仲が良かったと聞いたし、別に何の問題もないのだろうけど。キルアくんもゴンくんもレオリオさんも皆男性だし、警戒ばかりしてしまってクラピカさん程すぐに打ち解けることが出来たかは謎である。それを遠回しに伝えれば、クラピカさんは数秒固まった後、美しく放射線状に伸びる睫毛を瞬かせながら、私の顔を凝視した。黒い瞳の奥がゆらりと揺れたような気がして、私は「どうしたの?」と問い掛ける。「いや……何でもない」そう返答するクラピカさんの表情はどう見たって何でもなくは無かったのだけれど、なんとなく深追いするのは直感的にやめておいた。
 


 そして、あっという間に一日という時が流れていく。大きな窓の外を見れば、昨日と同じ真ん丸な宵月が夜を照らしていた。

「そういえばお風呂ってありますか?」
「勿論だ。案内するか?」
「やったー!お願いします!」
「はしゃいで転ぶなよ」
「そ、そんなことしませんよ……」
「フッ、冗談だ」
「あ、でも出来たらでいいんですけど……」
「……?何だ」
「クラピカさん、一緒に入ってくれませんか?」

 弁明しておきたいのだが、私は別に変なつもりで言ったわけじゃない。利き腕を怪我しているから、本当に迷惑じゃなかったら手伝ってくれたりしないかな……そんなちょっとした気持ちで言っただけなのである。きっと心優しいクラピカさんは二つ返事で了承してくれるだろう……そう思っていたのだが、予想に反してクラピカさんは目を限界まで見開き、手にしていたスプーンをゆるりと床に落とした。カラン、と金属のぶつかる音が響いた後、ハッとしたようにクラピカさんは「一人で入ってくれ!そこまで面倒を見るつもりはない!」と怒気を含んだ声色でそう言い切り、部屋の奥に駆け足でいなくなる。私は唖然とその後ろ姿を目だけで追い、流石に失言だったのだと反省した。返す言葉もない。私はクラピカさんならしてくれるだろうと、そんな甘い認識で面倒なことを押し付けようとしていたのだから。冷静になればなるほど怒られて当然のことだと理解し始めて、背中まで流させようとしていたがめつさに火が出るほど恥ずかしくなってくる。後で素直に謝ったら許して貰えるだろうか。そんな気持ちのまま、結局お風呂の場所は自分で探し当てた。お湯を貯めて浸かったものの、やっぱり傷口は凄く染みたし、片手でのシャンプーはとても大変だったし、シャワーヘッドはすべって頭に落ちてくる惨憺さだった。ちなみにシャワーヘッドは悲鳴が出るほど痛かった。

「……あれ」

 そしてお風呂を上がって、身体を拭いていた頃である。同じ服を着る覚悟はしていたのに、脱いで畳んだはずの洋服がどこにもない。代わりに大人らしいシンプルなパジャマと、新しい下着がちょこんと床に置かれていた。一体誰が……なんて考えても、ここに居るのは私とクラピカさんの二人のはずで、これを用意してくれたのもクラピカさんに違いない。パジャマはクラピカさんのものかな……でも流石に下着はわざわざ買ってきてくれたのかな……怒っていたと思っていたけど、やっぱりクラピカさんは優しいのだと再確認する。面倒みの良さが尋常じゃない。いそいそと下着を身につけていたらピッタリとブラのサイズが合っていることに気が付き、私は思わず苦笑いしながらパジャマを羽織った。スリーサイズを教え合うくらい私とクラピカさんは仲がいいらしい。

「あの、クラピカさん……さっきは生意気言ってごめんなさい。着替えも、ありがとうございます」

 部屋に戻ると、クラピカさんはベッド脇の椅子に座って本を読んでいた。先手必勝、そんな言葉を信じてその姿を視界に入れたと同時に頭を下げる。「……私も大人げなかった。顔を上げてくれ」幾分か柔和になった声に、私は心の底から安心した。良かった、クラピカさんに嫌われなくて本当に良かった。嬉しくなって髪が半乾きなのも忘れ、クラピカさんに思い切り抱き着く。まさか私がそんな行動を取ると思わなかったのか、寸前で避けようとしたクラピカさんは脚をふらつかせて隣のベッドへと倒れ込んだ。自然と抱き着いている私までがボフン!と音を立ててキングサイズはあるだろうマットレスに沈み込む。慌ててクラピカさんに「だ、大丈夫ですか!?」と声を掛ければ「い、いいから退いてくれ!」と再び怒気を混ぜた声が響いた。押し倒すような形になってしまっていたせいで、息がしづらかったのかもしれない。慌ててクラピカさんから離れて隣に身体を丸ごと転がせば、そのまま背中を押されてゴロゴロとベッドの端まで転がってしまった。後ろから「落ちるぞ!」と焦る声が聞こえたので、同じようにゴロゴロとクラピカさんの元へ戻れば目鼻先にある顔は上を向き、深い溜め息を吐いている。

「……はあ。本っ当に……君は精神まで退化したのか?」
「ご、ごめんなさい……嬉しくて、つい」
「喜ぶのは構わないが、相手と場所を考えてくれ」
「……はい」
「記憶がないから仕方がないと思っていたが先程から目に余りすぎる」
「……ごめんなさい」
「もう謝らなくていい」
「……ごめんなさい」
「名前。くどいぞ」
「……最後にする、ごめんなさい。同性だからってやっていいことと悪いことがあるよね」

 ほんとにごめんなさい。
 でも、嬉しかっただけなんです。本当に、ただそれだけ。しつこすぎて嫌われたら嫌だから、本当にこれで謝るのは最後にしよう。そう思って口にしようとした言葉は、驚きと共に喉の奥へと戻っていく。「……へ、」代わりに漏れたのはそんな情けない言葉にもならない声だった。隣にいたはずのクラピカさんがいつの間にか天井を背に私を見下ろしていて、痛いほどに掴まれた手首はベッドに縫い付けられている。

「待て。今のはどういう意味だ」
「……あ、の……クラピカさん……?」
「同性……と言ったな」
「は、い」
「君は私が同じ性別だと……?」
「えっと……」
「……なるほど、そういうことか。これまでの言動の意味が分かった」

 ドクドクと熱い血液が全身を駆け巡っている。心臓は早鐘を打って、翳りを帯びたクラピカさんの瞳からまるで視線を逸らせずにいた。何かおかしなことを言っただろうか……薄い唇から放たれた言葉の意味を理解しようと働かない脳みそを精一杯動かし──アッと声が漏れた。いやいやまさか、まさか……そんな、まさか。絞り出た答えは未だに信じられないというのに、それを肯定するかのようにクラピカさんは私の頬を触れるか触れないかという強さで撫で上げる。背筋が粟立って震えていれば、クラピカさんは、彼は、目を細め「……残念だが、私は男だ」確信を落とした。う、うそだあ。だってこんなにも美しくて綺麗な人なのに。私なんかよりもその肌も髪も声も、全てに品があると言うのに。線も細く色白な良い意味で男らしさなんてほとんど無い。だからこそ女性でも男性でも通じる圧倒的な美しさがある。

「……全く嬉しくないな」

 静かに怒るクラピカさんには、彫刻じみた人工感さえ感じられる。そして何を思ったのか、何度も何度も彼の親指は私の頬を往復し始めたのだ。くすぐったさと居心地ちの悪さから身体を捩るけれど、腰に跨るクラピカさんのせいで微動だにしない。やがてその動きが慰撫するように耳の縁を掠めた時には、私の口からは信じられないような甘く情けない声が漏れていた。あまりの恥ずかしさに口許ごと隠してしまいたかったが、当然それも叶わない。拘束から逃れようと腕を暴れさせても片手で簡単に封じ込められ、圧倒的な力の差を悠々と見せつけられていた。面映ゆいなんてものじゃない。肌の下に走る血液が燃え上がり、今にも溶けて無くなってしまいそうだ。「……顔が赤いな」白い喉仏が艶かしく上下した時、プツン、そんな音を立てて視界が暗転する。部屋の明かりが全て落ちたらしいと気付いたのはその少し後。

「……クラピカさ……ひっ!?」

 まだ目が暗闇に慣れない。目を細めて目の前にいるだろうクラピカさんの存在を認識する前に、冷たい何かが包み込むように私の頬に触れた。ピタリと再び身体が石像の如く硬直する。暗闇に乗じて逃げ出そうとする私の思考を読んだのだろうか。見据えたとしか思えない行動に息を飲んだ。

「……あ、の、何を、」

 照明がない部屋を照らすのは、大きな窓から注ぐ月明かりばかり。漸く薄い夜闇に目が慣れ始めてきた頃、ぼんやりと蝋燭の揺らめきよりもはっきりとした緋が浮かび上がる。その輪郭が明瞭になっていくにつれて、気づけば鋭さを含んだ双眸と視線が絡み合っていた。ゾッとするような微光を纏った虹彩には、紛れもない私が映っている。こうして私を見下ろしているのは果たして本当にクラピカさんなのだろうか。この期に及んでそんなことを考えてしまうくらいには、私はこの状況を未だに受け入れられていない。

「……初めは試されているのかと思っていた。しかし、君はそれ以前の問題だな」

 ゆっくりと私の手が彼の元へと誘導されていく。ドクンドクンと確かに心音を刻む彼の胸板は固く平らで、男の子であるということを突きつけられた気がした。ゴクリと息を飲んだのは彼か、私か。甘ったるく呑まれそうな静寂の中で聞こえるのは互いの呼吸音だけ。その中であまりに自然に近付いてきた唇を避けることなど、出来るわけがなかった。

「異性とベッドの上にいる意味を、君は理解した方がいい」

 本当に理解不能な出来事が起きると、人間というのは案外簡単に流されてしまうものらしいが──それは、麗しい男に組み敷かれた場合も同義らしい。窓を開けっ放しにしているせいで入り込む冷気が肌を掠めていく。それでも寒いと思わないのは、重なった肌からは焼け落ちそうな程の熱が生まれているからだ。顔を埋めるせいで黄金色の髪が流れた箇所はピリピリと柔く痺れ、はだけたパジャマの下を潜る指先は動く度に背筋が粟立った。時より耳許顔を寄せたかと思えば、低い声で私の名前を呼ぶのだから脳髄はとっくに蕩けてしまっている。

「……堪え性がないな」

 とうとう私は抗う手段が尽きたことを悟った。口から溢れるのは疼く熱ともどかしさを逃すか細い音だけで、浅く喉を上下させることしかできない。吐息混じりに耳の縁から耳朶まで唇に食まれて逃げるように顔を上げれば、彼の眸子は光で光を磨いたような燦爛とした緋を放ち、私を射抜いている。
 永遠にも近い長い時間が経ったと思うのに、窓の外は相も変わらず濃紺のベールが覆っていた。まだまだ夜は明けそうにない。ならば、私はこの状況を受け入れる他のないのだろうと、震える睫毛をゆっくりと伏せ、ぬるま湯の心地良さに身を任せるのだった。

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