私は早急にオトナのオネエサンになる必要があった。もうどんな手段を使ってもいい、一刻も早く、それでいて確実にオトナにならなければならなかった。メイクを施して髪の毛をゆるく巻いて友達に「大人っぽいね」って言われても、ぽいじゃ駄目なのだ。私は紛れもないオトナのオネエサンになりたかった。だって乱数くんの周りはいつだって綺麗なオネエサンがいて、髪の毛をかきあげた時には甘い香水の匂いがふわりと漂っている。優雅なワイングラスと夜景のレストランが底抜けに似合うオネエサン。乱数くんがデザインした新作のお洋服だって真っ先に手に入れては着こなして、颯爽と彼の前に現れる。「あ!僕の新作じゃ〜ん!うんうん、似合ってるね!」いいなぁ、羨ましいなぁ。私も早くあの輪の中に入りたい。今日も今日とてそんなことを思いながら、私はその様子を横目に視線を落として早足で自宅へと向かうのだった。

 乱数くんと私の関係はふわふわとしていて酷く曖昧なものだ。無理矢理その関係に名前を付けてしまえば無くなってしまいそうな脆さがある。お互いのお家を行き来する仲ではあるけれど、それ以上の仲になることは一切ない。かといって全く女の子扱いされないわけでもない。
 「今夜一緒に寝よ?」そんな甘い言葉で呼び出されても何も無かった時は流石に驚いた。ある程度の覚悟を決めて赴いた私を抱き枕にして乱数くんはスヤスヤと呆気なく寝てしまうし、一方の私は眠れない夜を過ごしては寝不足のまま朝帰りしたんだったっけ。はたまた違う日には一緒に映画を見てご飯を食べてお仕事を手伝って「お風呂先に入ってきなよ」と二度目の覚悟を決めた時もあったのだが、でもやっぱりそれだけだった。髪の毛をお互いに乾かしあって、いつもの様に乱数くんの腕の中にすっぽりと収まり、鳴り響く心臓の音を悟らせないように息を殺して目蓋を閉じるばかりなのだ。
 風の噂で聞くような乱数くんのプレイボーイぶりが、どうしてか私の前では披露されない。手を出されたことが一度もない。一緒にいれるだけで幸せなのにそれ以上を求めてしまう自分にげんなりとする。
 けれど、ふとそこで乱数くんの周りのオネエサン達を見て気付いてしまったのだ。あのオネエサン達はきっと乱数くんと深い関係を持ったことがある。ということは、だ。私が手を出されない理由。それはきっとまだ大人の魅力がないから、私がオトナのオネエサンになりきれてないからに違いないと。お淑やかに艶やかな色香を振りまけば、きっと私もあの輪の中に入れるのではないかと。だからと言って今からあの経験豊富なオネエサン達のようになるには圧倒的に時間が足りない。彼女達のフェロモンは年の功でもある。一日やそこらで身に付くものじゃあない。そんなことは分かってはいるけれど、私だけが出遅れている今、リーチを埋めるためには手っ取り早くオネエサンになる必要があった。もうただの女友達枠は嫌だ。私だってオトナになって、乱数くんに一人前の女性として見てもらいたい。

 そしてとある月光が灰色の雲に覆われた残念な夜。軽やかな入店音を背にしながら、ピリピリと包装されているビニールを千切っていく。健康に悪いやらうんぬんかんぬんがおどろおどろしく表記されてる小さな箱からソレを一本取り出し指に挟むと、何だか酷くずっしりと重く感じた。吸い方なんて分からないから、いつかの乱数くんを思い出し、見よう見まねでとりあえず口に含んでみる。カチカチと中々火のつかない新品のライターに手こずりながら息を大きく吸った時、ドッと一気に煙が肺の奥まで潜り込んだ。

「っ、ぅ、ケホッ」

 当然のように噎せる。それでも何度もチャレンジして、私は何と戦っているんだっけと思いながらも無心で煙草をふかしていた。涙目になりながら弱々しく紫煙を吐き出せば先端からはポロポロと灰が地面に落ちていく。大人に近付いたはずなのに、おかしいな。思ってたのと違う。みんな美味しそうに吸ってるのに煙草ってこんなに不味いんだ。本当にオトナのオネエサンに近付いてるのかな。
 暫し立ち上る白い煙を眺めた後、おえーと舌を出した。そのまま短くなった煙草をコンビニ前の灰皿に捨てると、虚無感が唐突に押し寄せてくる。
 煙草って初めは美味しくないものかな。それでも吸ってたら美味しく感じるのかな。睨めつけても何も変わらないのが憎たらしい。確かとあるお姉さんは一日に一箱も吸うと言っていたっけ。一本じゃ足りないから休憩時間に二本まとめて吸うと嘆いていたお姉さんもいただろうか。ゴクリと唾を飲み込むと再び苦い味が喉を通って顔が歪んでしまう。
 それでもオトナになるためだから、そう決意を固めて煙草を取り出した時だった。

「……ねえ何してんのぉ?」
「ひっ!?」

 低い声と共に背後からガシリと手首ごと掴まれて思わず悲鳴が漏れた。バッと身体ごと振り返ってその正体を確認するけれど、コートのフードを深く被っているせいでその表情を見ることはできない。それでも肩に垂れた桃色の髪の毛が視界に入り込み、一瞬呼吸をするのを忘れてしまった。心臓は途端にバックンバックンと太鼓でも鳴らしているかのように振動し始めて、緩んだ指の間からポロリと煙草が地面へ落ちそうになる。それをかろうじで阻止するも、全身に響くような圧力に微動だに出来ない。水晶色の透き通った瞳は確かに私を睨みつけていた。

「名前はいつから煙草吸うような不良娘になったのかなぁ」
「……ら、むだくん」
「うん、僕だよ。それでこれは何かな?」
「えっと……それは……」

 その時、乱数くんは被っていたフードを無造作に脱ぎ去った。途端に猫のような癖っ毛がふわりと空気に触れて、オネエサン達とはまた違う甘い香りが鼻腔を擽る。私を纏う苦い空気が一気に塗り替えられていくような感じがした。
 彼は流れるような動きで煙草の箱をヒョイと抜き取り、代わりにポケットから見慣れた棒付きキャンディを取り出す。グイ、と唇に押し付けられておずおずと口を開けば、甘ったるい苺味が舌先から広がった。蕩けるくらいに美味しかった。煙草なんかより、数倍も。
 そんな気持ちはどうやったって伝わってしまうようで、目の前の彼は「名前にはそれがお似合いだね」そう言ってニコリと笑った。それが文字通りの意味なのか煙草に手を出した私への皮肉なのかは分からないけれど、やっぱり私はオトナのオネエサンには程遠いのだと突きつけられる。どうしたら大人になれるんだろう。どうやったら乱数くんの横に立つに相応しい魅力的な女性になれるんだろう。高いピンヒールが似合って前髪をかきあげて、真っ赤なルージュを塗った唇で煙草を吸えばそれが叶うと思ったのに、一体どうしたら。コロコロと口の中で丸い飴玉を転がしている内にいつの間にかもう一つ棒付きキャンディを取り出していた乱数くんは、自身の片頬にキャンディを収めながら「で?」と私の顔を覗き込んでいる。

「で……?」
「何で煙草なんか吸い始めたの」
「……えっ、」
「え、じゃない」
「……え、っと」
「早く」
「……いや、その……」
「ねえ」
「その……、」

 待てないと催促されようが、言い難い事柄というのはどうしようもないもので。それでいて煙草を吸うところを見られたという少しばかりの背徳感と罪悪感で余計に言いづらい。モゴモゴと口を動かしていたら、とうとう痺れを切らしたらしい乱数くんの目の下がピクリと動いた。これは乱数くんが苛立ちを感じ始めている合図だと直感で悟ってしまって、私は覚悟を決めてギュッと拳を握りしめて、目を瞑りながら言い放った。

「た、煙草が似合うお姉さんになりたくて!乱数くんの隣に堂々と立てるお姉さんになりたくて、その……」
「……」
「……その、だから……えっと……」

 語尾が段々と小さくなっていく。二人の間を静謐な風が靡く中、ガリ、と飴玉を噛み砕く音がした。私じゃないと思っていたのだけれど、口の中は先程よりも甘さに包まれていく。無意識に端の方を噛んでしまっていたらしい。破片がコロコロと転がって、舌の上で溶けていた。私の告白に乱数くんは一瞬理解不能といった風に目を大きく見開いていたけれど、暫くしてから「……ふうん」と双眸を細める。

「………それで煙草ねえ。確かにオネエサン達は煙草吸う人多いけどさぁ、ちょっと愚直すぎるんじゃない?」
「……だって」
「だって何」
「……私も混ざりたくて」
「何に?」
「オ、ネエサン達の中に……」
「何で?」
「え、」
「名前は何で混ざりたいの?」
「何でって……それは」
「それは、何?」

 怒涛の理屈責めに、何も考えていなかった私は早速言葉に詰まってしまっていた。まるで圧迫面接だ。嘘や誤魔化しなんてまるで利かないような、それでいて許されないような空気に簡単に怯んでしまいそうになる。オネエサンになりたかった。それも、オトナのオネエサンになりたかった。何でって、乱数くんに相手をして貰えるから。今の関係を打破するには、オトナになるしかなかったから。でもそんなこと、言えるわけがない。
 相変わらず正解が分からなくてグッと口を噤みながら視線を逸らせば、その瞬間、片手で顎を掴まれた。乱数くんの大きな瞳が私を捉えて離さない。突然のことに上擦った悲鳴を漏らしながら肩を大きく跳ねさせる私を、乱数くんは「言って、名前」と尚も催促を続ける。

「……ら、らむだくん……?」
「教えてよ、名前の気持ち」

 バックンバックンと別の生き物のように動き始める心臓が、今にも飛び出てきそうだと思った。ただでさえ近かったというのに、更に一歩と距離が詰まる。顎を掴んでいた手がゆるりと頬全体に移り、そうして髪の毛を一房掬い上げ、撫でるように梳いていく。何度も何度も髪を弄るその一連の動作に 、心の内側から湧き上がる痺れが収まらない。

「ねえ、名前は僕のことが好き?」

 ガリ、と音がする。
 やっぱり今まで感じたことの無い空気だ。だって過去の私と乱数くんの間柄に緊張感なんてものはなくて、乱数くんは本当にただの友人のように私を扱っていたはず。そう、私が一方的にドキドキしていただけだった。こんな風に彼から私に触れてくることなんてなかった。こんな慈愛に満ちた視線を送られたことなんて一度もなかった。直球に好意を確かめられるなんて、一体誰が予想出来たのだろう。丸くて整った目に見つめられたら軽率に心の内を吐き出しそうになる。鮮やかな髪の奥にある翠緑の瞳に、勘違いしそうになる。堪えるためにも行き場の失った指を絡ませ合っていると、両手首ごと纏めて掴まれて、グイ、と美麗すぎる顔がすぐ目の前まできていた。
 驚きのあまり、とうとう飴はポロリと口の中から落ちてしまった。お互いの吐息が当たる距離に乱数くんがいる。少しでも今動いてしまえば、その薄く均衡に上がった唇にぶつかってしまいかねない。もう耳の外側は焼けて溶け落ちそうなほどに熱かった。
 逃げ場がない。直感でそう思うまでもないであろう状況で、漸くその事実を認識してしまっている。「僕はね、名前」夜のコンビニ前というのは意外にも人通りが少ないらしい。都会の夜空は雲も多く月さえも隠れてしまっているのに、目の前の二つの瞳だけが爛々と星屑のようにまたたいている。

「ずっと名前が欲しいと思ってたよ」

 トドメだった。嘘だ嘘だと頭の中で思っていても、今の乱数くんの表情を見てしまえばそんな言葉も口には出せなかった。ただただ信じられないと睫毛を震わせることしかできない。

「煙草なんて吸わないでいいよ、オネエサンになんかにもならなくていい。だからずっと僕の傍にいて」

 蕩けると風の噂で伺っていた乱数くんの声が、紛れもなく甘い言葉を乗せて囁かれる。私は自身の睫毛を伏せ、両目を細めた。オトナのオネエサンにならないと得れないと思っていたものが、喉から手が出るほど欲しかった盲愛が、目の前にあると錯覚していいのだろうか。だって手も出されなかったのに。一緒に寝ても何も無かったのに。ずっとそんな関係だったのに、今更そんなことがあってもいいのか。
 驚愕、高揚感、疑念、あらゆる感情がごちゃ混ぜになった私はせめて勘違いだった時のためになるべく傷つかない言葉を必死に考えていたのだけれど──、そんな下手な強がりは、やはり呆気なく見破られてしまうらしい。ガリ、一際大きな音を立てて飴を噛み砕いた乱数くんは、砂糖菓子のような甘やかな声で口を開いた私よりも早く言い切った。そうして私はヘナヘナと腰を抜かしそうになるのだけれど、当たり前のように乱数くんは私の身体を抱き寄せて耳許で尚追い打ちをかけてくる。感情が昂りすぎてどうにかなりそうだ。夢心地とはきっとこういうことを言うんだろう。乱数くんの胸に頬を預けながら身体を揺らしていると、足元で何かを踏みつけたような乾いた音がする。目線だけを下に向けてみれば、無惨にも私のパンプスでぺちゃんこになったボックスが横たわっていた。
 それに気付いた乱数くんがくすくすと笑いながら私の頭を撫でている。

「好きだよ、名前」

 ああ、世界が変わればこんなにも息がしやすい。あれ、そういやオトナのオネエサンって、何だっけ。

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