ある日から、不思議な現象が起き始めた。
 瞬きをした次の瞬間、私を取り囲む全ての環境が一変したのである。初めてそれを経験したのは街中のインスタ映えすると噂のカフェで友達とお茶をしている時だった。談笑をしながらティーカップを口につけた次の瞬間、目の前に座っていた友人も、店内に施された鮮やかなドライフラワーも、鼻腔を擽る芳ばしい珈琲豆の香りも、一切の情報が掻き消された。代わりに私の視界に広がるのは見たこともないオフィスで、高い天井の下でスーツを身にまとった人々が機敏に動き回っている。唖然とする私はそんなオフィスの一席に着しており、手元には薄いノートパソコンと乱雑に積まれた書類があった。
 一体、どういう──。
 状況が把握出来ない、分からない。私だけがこの空間を理解していない。
 ティーカップを持っていた筈の手がカタカタと震え始める。呼吸が上手く出来ない。私は夢を見ていたのだろうか。それとも今この瞬間こそが夢?肺に回る酸素が段々と浅くなり、息切れで胸が苦しい。そんな時「名字さん、」私の名を呼ぶ声がした。ハッと意識が呼び戻されて恐る恐る声の方へ振り返れば、そこには懐かしい顔がある。

「…………九井、くん?」
「急に話し掛けて悪いな」
「い、いや……大丈夫」

 髪型や服装が多少変わっていれど、やはり見覚えのある彼で間違いはないようだった。九井君、九井君……中学校が同じだった九井君。確か一年生の時から同じクラスだったけれど、彼はあまり学校に来なかった気がする。それで単位に必要な宿題とか提出物を教えてあげるうちに仲良くなって、それで、あれ…………?これは何年前の話だっただろうか。

「今日の業務終わり予定あるか?」
「えっと……」
「ボスがうるさくてさぁ。1回だけでいいから顔出してくんね?」

 何も分かっていない私に正常な判断が出来るわけがない。流されるがまま頷いた私に彼は「サンキュ」そう言って背を向け去っていく。どうして私と九井君が同じ会社にいるんだろう。確か九井君は高校進学と同時に連絡も取れなくなったはずなのに。ふつふつと湧き上がるのはまるで私の知らない情報だった。誰か知らない人の人生を再生しているような奇妙で気持ちの悪い感覚。私の知らない世界を覗いているみたい。グルグルと回る視界に腹の底から何かが込み上げて、思わず口許を押さえる。そのままフラフラとオフィスを出てお手洗いの看板を辿り、そうして個室へ駆け込んだ。気持ち悪い、訳が分からない。私はどうして、どうしてここに居るの。私は違う、違う会社に就職したはずだ。なのに私はここに居る。ここに居る経緯も覚えている。エントリーシートを書いて就職活動をした事も、上司が気に食わなくて愚痴を垂れていたことも、最近会社がどこかに買収されたことも、知らないのに知っている。

「、っお、え……」

 自覚した。私は瞬き一つした瞬間に違う世界の私となったのだ。周囲の人を観察しても混乱している人などいなかった。私だけが違う世界の記憶を引き継いでいる。こんなにも気持ちが悪いというのに、社会は、私を気にも留めない。そして違う記憶を持ちながら馴染んでいる自分が、馴染んでしまえる自分が何よりも気持ち悪い。

「名字、こっち」

 オフィスビルを出たと同時に掛かる声。腕を組んで壁にもたれかかっている九井君が長い髪を耳にかけながら私を呼んでいる。どこか懐かしい響きだと思った。そう言えば昔は乾くん達とも何度か共に出掛けたり遊んだりしたなぁ。怖そうな人達にも囲まれたりしたれけど、話してみたらそうでもなかったりする人も多かったっけ。懐かしい思いというのは神経を麻痺させるらしい。そのまま高そうな車に乗せられ、案内されたのは都内でも一等地にあるタワーマンション。ここで疑問を持つべきだったのかもしれない。そもそもボスって何の?って。私の知っている人、かつての友達、そんな藁にもすがる思いで着いて行ってしまったのが駄目だった。エレベーターで最上階まで昇りドアが開いたかと思えば、そこには扉がひとつしかない。このフロア全てが家ということだろうか。九井君が何度かノックをした後、カードキーを当てて施錠する。

「ボス、連れてきたぞ。ご待望の名前だ」

 黒を基調とした内装に、見渡すほどの広い空間。
 光沢のあるカーテンは締め切られ、室内の明るさを保っているのはそこかしこの壁に埋め込まれているライトと、中央の長机に置かれているステンドグラスで彩られた洋燈だろうか。その前には北欧から取り寄せたようなソファ。そしてひと目見ただけで全てが一級品だと分かるその中心に深く腰掛けるのは、白皙の顔をした男だった。暗い部屋で浮かび上がるその肌は白いを通り越しいっそ不気味で、月光に照らされたような陰りが差している。
 刈り上げた項にはタトゥーが掘られていた。何の模様かは分からないけれど、どこか見覚えのあるような気もするし、やっぱりないような気もする。ゆっくりと鎌首をもたげるようにくすんだ頭が持ち上がり、夜を嵌め込んだ瞳が私の姿を捕え、

「名前」

 その瞬間、私は"何かを忘れていたこと"を思い出した。一閃が脳裏を過ぎるのは私の知らない彼等との記憶。ありもしないこの世界の私との関係値。……逃げないと。目を見開き身を翻そうと背を向けたと同時、九井君に手首を掴まれそのまま壁に押さえつけられる。苦しい。その衝撃で漏れ出る苦痛の声さえもこの空間の重みに掻き消される。

「九井、離れろ」

 我が身を震わせた頃には目の前に彼がいた。密度の高い睫毛。切り揃えられた鮮黄は中央で分けられ、覗く双眸からは何の感情も読み取れず、ただ深い闇だけが広がっている。どんな光さえも吸い込んでしまう程の闇。人ならざるものを見ているようで頭が混乱する。乾燥した喉からヒュッと音を鳴った。九井君が手をパッと離したことでズルズルとその場に崩れ落ちる。僅かに残る私の理性が逃げようと指先を重厚な絨毯の毛並みを掴むけれど、その手ごと覆われた。
 「……もう離さない」はっきりと耳許で囁かれ、そして、暗転。

 不思議な現象は二度目も起きた。
 佐野万次郎の軟禁状態にあった私が、ある日突然お日様の元に投げ出されていたのである。困惑する私が目にしたのは友人同士でお弁当を囲む和やかな風景。そして察した。きっとまた過去が変わったのだと。だってこの人達を、"一度目の私"も、"二度目の私"も知らない。きっと誰かが歴史を改変したおかげで私はあの空間から抜け出すことが出来た。今回はあの人たちとは、佐野万次郎とは、この世界で出会っていない。
 安堵と同時に思わず涙腺が緩んでしまう。良かった、本当に良かった。そして暫く幸せな談笑を楽しんだ。暖かい陽光は私の深層部を優しく照らしてくれた気がした。
 けれどそれも長くは続かなかった。数日経った日の帰り道、私は再び九井君と遭遇したのである。この世界の九井君はスーツを来ておらず、パーカーにスキニーというシンプルな私服姿であった。本当に偶然、散歩中に出くわしたらしい。当然警戒する私だったが、相手は朗らかだった。そして実際、その日は何も無く雑談を数分交して解散した。拍子抜けした私は家に帰ってから暫く考えて、前の世界がおかしかっただけなのかもしれないと思った。
 それからまた平和な数日が過ぎた休日の昼過ぎ。突然インターホンが鳴って肩が上がる。宅配でも頼んでいただろうか。恐る恐る覗き窓を覗くも、何故かその先は真っ暗で何も映されていない。嫌な予感がする──私はそのまま居留守をしようと足音をなるべく立てず中へ戻ろうとしていた。けれど無情にも、扉一枚挟んだ奥からは「開けてよ、名前」彼の声がする。開けたら終わりだと全身が震えてその場に倒れるように崩れ落ちる。その音もきっと筒抜けになっているんだろう。全身の筋肉が強ばって身動きひとつ取れず、ただ玄関を、その先にいる人物に怯えている。ガチャガチャ、ガチャ。
 私の世界はおかしくなった。
 何回過去が変わっても、何度場面が変わっても何故かとある男が私を求めに来る。逃げることは出来なかった。引きこもっても遭遇しないようにしても、必ずどこかにその男はいる。

「名前、何で逃げるの」
「っう、ぐ……はっ……」
「苦しいよな、苦しくしてるもん」
「や、め……っ」

 きりきりと首に添えられた手の力がグッと強まった。脳内には薄らと白い靄がかかって、気道を押さえられていせいで上手く酸素を取り込むことが出来ない。喉の奥ではヒュウと細い空気音が鳴っている。二重に映る視界の中央には、それでも明瞭に輝く瞳が二つ、黒曜石のように輝いていた。
 あ、だめ、落ちる。
 後数秒で意識がブラックアウトするという直前、パッと首に掛かっていた圧が消えた。突然開けた呼吸路に一気に肺へと空気が巡っていくけれど、苦しくて噎せ返ることしかできない。「っう、はぁ、」目尻に溜まっていた雫が頬へと伝っていく。それを人差し指で掬いとった彼は、無表情のまま「楽になろうとすんな」そう言い放った。双眸を伏せ、私を見下ろしながら指を滑らせるように頬まで移動させていく。終始怯えた状態の私とは全てが対称的だった。馬乗りになられているせいで身体の自由がまるで効かない。それどころか少しでも逃げようと脚に力を入れようとすれは、身を捩れば捩るほどに拘束は強くなっていく。
 今もまさにそうだった。佐野万次郎の細く体温の低い指から反射的に顔を背けたことが、彼の機嫌を損ねてしまったらしい。重く分厚い睫毛が何度か揺れたかと思えば、力強く腕を引かれて上半身を持ち上げられる。反動で彼の方へと倒れそうになったが、両肩を抱き止められた。混乱している私には喋る隙さえ与えてくれない。流れるような動作で後頭部へと手が回され、寸の間もなく互いの唇が重なった。熱い舌が問答無用にこじ開けて中へと押し入ってくる。咄嗟に目の前の胸板を押すけれど、薄いと思っていた彼の身体はビクともしない。簡単に私の両手首は纏めて縫い止められ、細い指が妖艶に這い上がってくる。背筋が粟立つ感覚に目眩がしそうだった。「好き、名前……好き、愛してる、」合間合間に囁かれるのは愛の告白に似た、呪縛のような何かだと思う。逃がすまいと咥内を丁寧に動き回る舌は、上顎までもを執拗に責め立て、合間に漏れる吐息さえ呑み込まれる。
 首を締められていたせいで未だに酸素が行き渡っていない。吐き出す息さえままならない。再び頭が回らなくり心臓がドクドクと大きく振動している。舌先が吸われて、歯列をなぞられて、絡み合って、生き物みたいに絶え間なくピタリと唇がくっついていた。こんなの首を締められてるのと何も変わらないじゃないか。白い靄が再び陰を見せ始めた頃、長く触れていた唇が漸く離れた。透明の糸がタラりと二人の間に落ちていく。大きく肩で息をしていると、余裕そうに佐野万次郎は艶やかな赤い舌でペロリと上唇を舐めている。「鼻で息をするんだってこの間教えたと思うんだけど」するりと私の手を顔の高さまで持ち上げて、わざとらしく、漸くその口角をニヤリと吊り上げた。
 私の気持ちなんてきっと彼は容易に読めてしまうんだろう。抱え込むように私を抱き寄せ、そして耳許で囁く。

「早く堕ちて、名前」

 逃がさない、俺の、俺だけの、ずっと、早く、早く俺のとこまで、

「俺は名前がいなきゃ息ができないのに」

 私もそうさせたいというのか。だとすれば、それはいつ訪れるというのだろう。私はきっとまた彼の元を離れる。そして彼もまた私を地獄の底へと突き落とす。お互い終わりなんて来ないことを悟らせながら、悪魔のように、永遠に、

「愛して」

 愛って、なんだっけ。

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