なんとなく、お酒が飲みたくなったのだ。

 最近はご時世もあってかずっと家でゴロゴロして退屈だったし、金晩だからとやたら投稿される友達のSNSを見て触発されたのかもしれない。普段はお酒そのものよりも、どちらかと言えばお酒の場を好んでいる私からすれば珍しい衝動だったのだけれど、たまには素直な欲求に従おうと重たい腰を上げた。そのままドレッサーへと向かって、コテの電源を入れる。天下のフライデーナイトなのだから下手に引き算メイクをするより真っ赤なルージュが良いだろうか。飲みに行く場所も決まっていないのに張り切ってメイクを始めている辺り、やっぱり私はお酒の場を望みにいっているのだと思う。

 お気に入りの甘い香水を最後にワンプッシュしてからアプリでタクシーを家の前まで呼んで、なんとなく行き先は「六本木で」と運転手に伝える。今からご出勤ですか?」チラチラとミラーを見ながら問い掛けてくる運転手には曖昧に微笑んで会話を無理やり終了させた。少し張り切りすぎちゃったのかな。どうやら私は今から出勤する嬢に見えてしまったらしい、張り切りすぎた、ウケる。

 そうして繁華街に降ろして貰って辺りを見渡せば、今から飲みに行くだろうサラリーマンの集団や腕を組んで歩くオジサンと若い女の子、それでいてガタイが良くてピチピチの服を着ている危なそうな男など様々な人が蔓延っていた。

 はて……どうしよう、てかどこに行こう。
 飲みに行く時は誰かが必ず隣にいたものだから降り立ったいいものの迷ってしまう。いつも行っているバーに行っても良かったけれど、一人でしっぽりというよりかは複数人で騒ぐようなバーだし、変に気を使われるとのも寂しい女扱いされるのも嫌だった。

『一人でも行けそうなバーとか知らない?』

 仲のいい友達にそうメッセージを送った後、とりあえずフラフラと月光よりも明るいネオンに向かって歩き出す。いつもなら即返信が返ってくる友達も華の金晩とあってはそうもいかないらしい。ヒンヤリと凍えそうな手先を揉みながら歩みを進めていれば「オネーサン」肩にポン、と手を置かれて私は足を止めた。
 ──そして内心きた!!!とほくそ笑む。
 こんな繁華街で一人の女性に話しかけてくるんだから多分夜職のスカウトかバーとかホストのキャッチだな。後者であれば場合によっては着いて行ってもいいかもしれない。グッドタイミング。
 そうゆっくりと振り返ってその相手の顔を確認した時、思いのほか近い距離にあった白菫色の瞳に全てを持っていかれた。
 目を大きくして固まってしまう私に、目の前の男は薄い唇を持ち上げて「声掛けられ待ちで合ってた?」と笑っている。………………………は?

「………………………は?」

 いけない、心の声がそのまま出てしまった。あまりに男の顔が良くて思わず頷きそうになったが、よくよく考えてみれば物凄く失礼な言葉である。

「声掛けられ待ち?」
「うん」
「誰が?」
「オネエサンが」
「………………………は?」

 え、それって所謂ナンパ待ちと思われたわけですか?そういうことですか?
 確かに店のキャッチだったら一杯ぐらい良いかなとは思ったのは私だ。数秒前の私だ。いやでもそれは行く宛てが決まっていないからってだけだし、そんな軽薄な女と断定するような言い方をされたらいくら美形とはいえ気分が悪い。もはや胸糞悪い。ちなみに私はこういうデリカシーのない、そして相手を過度にいじることで優位に立とうとするタイプの男が嫌いである。
 
 グッと罵りたい気持ちを抑えて「違います」とあくまで至って冷静にその手を払い除けた。折角気持ちよくお酒を飲みたいと思っていたのに初っ端から台無しである。最悪だ。モヤモヤと湧き上がる不快感を滲ませながら足を進めようと思えば「待ってよ〜」私と並行して歩き出す男に思わずヒク、と頬が引き攣るのを感じた。
 な、何この人、メンタルが強すぎる。
 普通手を払い除けられたら猿でも脈ナシだって理解するというのに。やだ、こういう無駄にメンタル強化タイプの人間がいちばん怖い。
 私が歩くペースを早めると、なんて事ないように彼もペースを早める。点滅する信号を無理やり渡り切って撒こうとしても、同じようについてくる。右に曲がれど左に曲がれど、右斜め前に進むと見せかけて左斜め前に進むというフェイントをかけども、何故かピッタリとついてくる。三個目の横断歩道を赤に変わるギリギリのところで走り抜けたが、やはり隣には男がニコニコとなんてことない顔でついてきている。
 そして、とうとう私の堪忍袋の緒が切れた。

「お兄さん何!?!?」
「お兄さんってオレ?」
「そう!オレ!しつこい!!!」
「お、やっと怒った」
「これ以上ついてきたらほんとに警察呼ぶ」

 もはや敬語もクソもない。
 最終的に小走りで男を撒こうとしていた私は、股下の長さの違い故か早歩きで合わせてきた男にブチッと何かが切れた。は?足の長さアピールですか?こちとら本気で逃げてるんだけどじゃれ合ってるとでも思ってますか?
 キャッチだとしたら些かやり過ぎだし、ナンパならさっさと諦めて他の女の子に行けばいいのにどうしてそうしないのだろう。ナンパもキャッチもスカウトも数打つものじゃないの、と込み上げる不満は止まらない。

 しかしキッと男を見上げ、そして喉元まで出かけていた罵倒はゴクリと唾ごと飲み込まれてしまった。目の前には息切れをしている此方とは裏腹に、余裕を含んだ表情が浮いている。何故か夜を閉じ込めたような深い瞳に気圧され、思わず片脚が後方に下がった。

「竜胆もいなくてオレ暇なんだよねー。ちょっと付き合ってよ」

 いや誰だよ竜胆……。
 たまにいるよね、自分の知り合いの名前全員把握してると勘違いしてる人……。知らないよ、貴方の暇具合なんて全く私に関係ないじゃん。普通ならそう言って振り切るだろうに、しかしこの男、きっと私に有無を言わせる気なんてまるでない。そう思わせるほど、今のこの男からは謎の圧力と強制力が滲んでいた。
 そして少したじろいだ私の様子を見逃さない男は「いいでしょ」ニコリと、人形のように胡散臭い笑みを浮かべる。思わず怯んでしまう私は無意識に視線を下げるが、握り締めていたスマホを見ても友達から返信がきている気配は無かった。
 あまりにしつこいし怪しい。けど未だ行く宛もない。それに縦横無尽に歩きすぎて実は此処がどこかも分からない。そうなると確かについて行っても良い……ような気がしてきてきてしまう。断ればいいじゃん、と馬鹿にしていた宗教勧誘やセールスマンに押し切られる人も、もしかしてこういう気持ちだったんだろうか。今ならきっと分かり合えるのでこれからは積極的に歩み寄りたい。

「な?」

 粘るのって効果的なんだなぁ……そう呆れつつ素直に感心するが、私には彼を撒こうと逃げ回った経緯がある。このまま大人しく着いていくのも癪なので「…………一杯で帰ります」とわざとらしく大きな溜息を吐いた後、そう吐き捨てる。

「お、じゃあ行こ〜ぜ」

 しかし全く痛くも痒くもなさそうで余計に負けた気がした。きっと心に毛でも生えてるんだろうな。ていうかこの人結局何の人?

 とりあえずメンタルが強いって、羨ましい。









 雑居ビルの角にある会員制と書かれた厚みのある扉。ギシリと音を立ててその先に進めば、洋灯と揺らめくキャンドルの明かりのみの空間が広がっていた。
 カウンターを挟んだ奥にはいかにもマスターといった風貌の男性がバーテン服に身を包んで静かにグラスを拭いている。

 「ちょっとvip借りるわー」そのままカウンターに座るのかと思いきや、何故か私はそのまま奥の個室へと連れていかれることとなった。
 ……思っていたよりもきちんとした所に連れてこられて正直びっくりしている。ホスト紛いのメンズバーか、しょうもない居酒屋にでも連れてこられると思っていたから。
 恐る恐る質の良さそうなソファに腰掛けると、男はハンガーに上着を掛けているところだった。「掛ける?」と私のコートを指差しながら問い掛けられるが、首を横に振って鞄の横に丸めて置いておく。そんなに長居するつもりはないのだし、きっとそれで良いだろう。
 ──そう思って男を見上げ、その整った容姿に改めてギョッとした。明らかに上質そうなスーツに器用にセットされた深紫の髪の毛、高貴に尖る鼻先は美しい陰影のある横顔を造り出している。
 ……あれ、やばい、どうしよう。なんか急にどこ見たらいいのか分からなくなってきた。無駄に顔が良いせいでこっちが困る。しかし男は当然のように距離を詰めて私の隣に座るものだから露骨に離れることも出来ない。肩が触れ合うほど近いのが何故か居た堪れなくて、バレないよう僅かに数センチほど横にズレた。

「いつも何飲むの」
「ジャスミン焼酎とか……」
「あーJJね。それ頼む?」
「あ、いや……別に何でもいいけど」
「何でもいけんの?」
「日本酒以外は」
「へえ、駄目なの」
「日本酒は卓ゲロの可能性があるので……」
「何それ見たい気もするけど。だったら白のボトルでも頼むかぁ」

 飲みたい気分だったから何でもいいというのは本当だけど、まさかいきなりボトルとは。私のジャスミン焼酎はどこにいったの。そう思いつつも、あれよこれよという間に高そうなワインボトルと幾つかのおつまみが運び込まれ、乾杯をし、気付けばボトルの中身も僅かとなっていた。
 ワインの銘柄に特に詳しい訳では無いれけど、涼風のような軽さの喉通りだったのできっとコレも高級なんだろうなぁと思う。非常に美味しい。そして飲みやすい。けれど私はそんな飲みやすいお酒こそ、いちばん怖いということを忘れていた。

「…、ちょっとお水」
「水?ん」

 お水を一口含んで、フゥとソファの背もたれに身を託す。男はお酒が強いようで顔色一つ変わっていないが、ぽわぽわと顔の内側が熱くなっているのを嫌でも感じ取っていた。暑い。冷房つけれないのかな。外は極寒だろうけど、今だけはその寒さが恋しい。
 手の甲を頬に当てるも火照りきった身体に冷たい部分はないようだった。生温い肌同士がくっついただけで何の冷気も感じられない。

「もしかして酔った?」

 やけに鼓膜を撫でるような声である。
 アルコールが回ってぼうっとしてたせいだろう。いつの間にか覗き込むような形で私の顔を眺める男に呼吸が止まるかと思った。睫毛の本数まで見える距離で、まじまじと整った顔を見つめ返す。本当に綺麗な瞳の色だ。色気のある形のいい目は少し垂れている。肌はスベスベだし、あ、この男、下睫毛さえも長いのか。度を超えた顔の良さというのは心臓に悪いし目に毒でしかないなぁ。
 実際私は酔っていた。揶揄うような声色に今更怒る気力もないので「……ちょっと」と素直にそう口にすれば、コト、とグラスが置かれる音がする。

「そんなにオレの顔見てどうしたの?面白い?」
「……面白くない」
「顔真っ赤にしちゃってか〜わい」
「……飲んだらすぐ赤くなるの。多分見た目ほど酔ってないよ」
「そうなの?目もとろんってしてるけど」
「だって普段そんなにワイン飲まないし……」
「へえ?」
「…………なに」
「一杯で帰る作戦、失敗しちゃったなァ?」
「だって貴方がボトル頼んだじゃん……」
「それ、言い訳」
「……つきまとわれて体力使ったから」
「はーい、それも言い訳」

 語尾にハートがつきそうな程ねちっこいトーンで男は笑う。白皙の肌は薄暗い部屋でもぼうっと浮くような存在感があった。

 ……確かに言い訳だとは思う。
 でも本気で帰ろうとは思っていた。思っていたけれど、この空間の雰囲気と、意外にも話し上手で聞き上手な男のペースに気付けば乗せられてしまって、存外普通に楽しんでいたのだ。

 だって「頭狂ってる愉快な仲間たちの話聞きたい?」と言われれば気になるに決まっている。
 やたら睫毛がバサバサなヤク中はヤクが切れたら兎のように丸まって寝るとか、中学生から金稼ぎを覚えた守銭奴がいるとか。彼が行きに呟いていた竜胆というのは彼の弟だそうで、寝技において地元では負け知らずらしい。アミーゴじゃん、ふざけないでほしい、面白すぎる。そんなの続きが気になってしまうじゃないか。
 それにこの男、女慣れしているからか話の広げ方も聞き方も上手かった。饒舌という訳でもないのに会話のテンポが心地よくて時間を忘れてしまっていた次第である。
 だから気付けば既に三杯目になっているのは分かってはいたけれど、帰るタイミングも無くして隣に居座ってしまっていたのだ。

「……でも、そのボトル飲み切ったら帰るよ」

 芳醇な香りを撒きながらトクトクとグラスに注がれていく。
 確かに彼との会話は楽しいし悪くは無いけれど、やはりいつまでもここにいるつもりはなかった。このままほろ酔い気分で帰って寝たい気もするし、逆に一軒目で終わるのは勿体ないので別の店に繰り出したい気持ちも無いことも無い。

 注がれたワインが波揺れる様子を見ながら私がそう言った時「なーに言ってんの」頭上に不自然な影が出来た。ただでさえ暗い視界が更にワントーン落ちて、ドンッと近くで重たい音がする。気が付けば私の顔の横には男の腕が置かれていて、息が当たりそうな距離にその精悍で端正な顔があった。嵌め込まれた薄紫の双眸は私を捉えて離さず、触れるか触れないかの曖昧な力加減でツツ、と頬を撫でられて全身の毛が粟立つ。

 明らかに、そして唐突に、紛れもなくこの場の空気が変化していた。

 無駄に男の顔がいいからだろう。脳みそはアルコールに浸されているのに、心臓は何かに掴まれたような心地になっている。あれ、ていうかどうして私はいつの間に彼の腕の中に捕らわれているんだろう。ゴクリと生唾を飲み込む音が合図となった。

「……っふ、!?」

 突如として唇を奪われ目を開く。
 きっと男はからかいながらも見送ってくれるだろうと、そう甘く見ていたのが間違いだったらしい。抵抗も酔いも全部が蛇のように呑み込まれていく。唇が重なるというよりかは食べられている、そんな表現の方が正しい気がした。 啄んでは下唇を甘く噛まれて、何度も角度を変えては柔いものが降ってくる。ただでさえぼうっとしていた頭はついぞ停止してしまい、獰猛な口吸いを受け入れるしかない。

「……ん……ッふ、ぁ」
「息止まってる、ほら、鼻で息して〜」
「ぁ……っや、……ふッ、!」

 ぢゅ、ぐちゅ、と下品な水の音が響いていた。息継ぎの合間に自分の鼻にかかった甘い声が漏れ出て、顎に手をやられたかと思えばそのまま引き下げ隙間をこじ開けられる。貪るように侵入してくる長い舌はピチャピチャと水音を立てて私の舌を絡め取っていく。

「ふっ……、ぁうッ……、」
「ッ、は、舌出して」

 迫る胸板を弱々しく押し返すけれど、細く見えた身体は意外にも微動だにしない。ヂュッと舌先を吸われて根っこの方まで愛撫するように絡め取られる。頭がふわふわとしてもう訳がわからなかった。
 無意識に固く閉じていた目蓋を薄く開いて逃げようとすれば、伏せ目がちに広がる睫毛の奥にある紫紺の瞳が此方を向いた。
 瞬間、キュウと心臓が鷲掴みにされたような感覚に陥る。まずいと思った。キスなんて今更恥ずかしいものでもないはずなのに、ダメだ熱い、このままじゃ、熔ける。

「も、っァ……やだ、んぅッ……!」

 段々と視界が白くなって、意識が朦朧としていく。それなのにビクビクと震える身体だけが生々しくリアルで、私はギュッと目の前のシャツを握りしめて縋るしか出来ない。
 生き物みたい暴れ回る舌がぐるりと咥内を掻き混ぜて上顎を執拗に責めた後、ようやくその唇は引き離された。唇の端から垂れそうになった唾液まで名残惜しそうにペロリと艶めかしく舐め取られる。
 ……やっと、終わった。完全に蕩け切っていた私はその様子をぼうっと眺めていたけれど「そんなに気持ちよかった?」平然と彼は落とされた言葉にカッと意識が戻った。

「……い、きなりっ最低……!」

 今度こそ重たい腕を持ち上げて胸板を力強く押し除ける。それでもあまり距離は変わらなかったけれど、僅かに距離は生まれたからまだマシだと思った矢先のことだ。

「おいで」
「……ッな!?」

 息を整える間もなく、この強メンタルの男は私の後頭部をガッシリと掴み、強く引き寄せた。
 腰がソファの背もたれから浮き上がって、グルンと体制が反転する。僅かに生まれた距離どころか先程よりも至近距離になり、どうしてか私は男の膝の上に跨る形で対面していた。咄嗟に身じろいで離れようとすれば、ゴリ、と硬いものが内腿に当たる。ひ、と思わず震える悲鳴が漏れた。これが何かなんて嫌でも理解ってしまう。動くことも億劫になって硬直する私に、愉しそうに男は「勃っちゃった♡」と笑った。

「そんな顔で睨まれてもなァ」
「……や、ちょ、離して……」
「やーだ」

 後頭部と腰を掴まれてしまえば抵抗らしい抵抗も出来ない。
 顔が近付いて眦に溜まった涙をベロリと吸い上げられる。羞恥心で死ぬ時があるとすれば、きっと今だと思った。恥ずかしい体勢で硬い雄のものを当てられて目許を舐められるなど、そんな屈辱この人生でされたことがないし、される予定もなかった。何より私だけがやられっぱなしで、一方の男は呼吸ひとつ乱れていないのも腹立たしかった。

 小刻みに震えて堪えるしかない私がそんなに面白いのかくつくつと喉で笑いながら掴む手の力を強め、そして目許を三日月にしならせる。

「気が変わったわ」
「…………は、」
「最近ココちゃんがうっせえし、楽しむだけ楽しんだ後は適当に誑かしてソープにでもぶち込もうと思ってたけど、やめやめ」
「……な、何言って、や、ちょっと」
「そうだ、オレのこと蘭って呼んでいいよ」

 そう言われて、私はまだこの男の名前も知らないかったことに気がついた。どうせ一杯飲んで帰るつもりだったし二度と会うこともないと思っていたからだろう。今更名乗られることに違和感を感じながらも「……ら、ん」と復唱すれば矢継ぎ早に「アンタは?」そう問われ返す。それには思わず躊躇った。なんとなく名前を教えてしまえば、本当に逃げられないような気がしたのだ。

「教えてよ、な?」

 唇を一文字に結んで答えないようにしていたけれど、鼻が触れ合いそうな程近付いてきたことで小さな悲鳴が漏れる。そして私は、静かにその瞳孔が細まっていくのを見てしまった。

 無表情ではない。むしろ口角は上がっている。
 それなのに圧を感じる不自然な表情に両肩は分かりやすく竦み上がった。まるで捕食される寸前の餌のような心地だった。本能的な恐怖に耐えきれずボソボソと自身も名乗りを上げたが、それが正解だったのかは分からない。
 名前、名前かぁ。名前。蘭は私の名前を反芻する。何度も何度も名前を呼ばれて耳が溶けて訳が分からなくなる中、トドメの一言を突き刺した。

「オレ、名前のこと気に入っちゃった」

 するりとスカートの中に潜った手が、艶めかしく太ももの表面を繰り返し撫でている。思わず声が出た。私は全身熱くて堪らないというのに、ヒンヤリと冷たさを含んだ指にピクリと身体が反応して、逃げるように身体を拗らせてもガッシリと腰を掴まれて身動きが取れない。

「……ひっ、や、やだ……ッ」

 お酒を飲んだせいか、涙腺が馬鹿になっているらしい。それでも鼻を啜りながら嫌だと懇願する私の声は、彼には届かないようだった。ニコリと不気味なほど美しく微笑む紫苑の眼が猛禽類のように鋭く光を吸い込んでいる。

 こんなつもりは無かったのだ、言い訳させてほしい、本当に私はただお酒を飲みたかっただけで、ナンパを待っていた訳でもお持ち帰りされたかった訳じゃない。違うのに、帰るつもりだったのに。
 そうやって後悔したって遅いのは頭のどこかでは理解してしまっている。きっと蘭という男に根負けして着いてきてしまった時点で、もっと言えば声を掛けられて応えてしまった時点で、きっと選択肢は既に無かった。

 「何考えてんの?」吐息混じりの声が耳の縁を撫で、ゾワゾワと再び悪寒にも似た何かが駆け上がる。腰から背中にかけてじっとりとした熱が溜まっていくのを感じた。

「悪いな、逃がしてやれねーわ」

 私は今どんな顔をしているのだろう。下手に唇を奪われたり体を動かされたせいで爪先から頭のてっぺんまで酔いが循環している。
 まともな思考は出来そうにない。それでも蘭に捕らわれたら何かが終わってしまいそうな予感がする。何かは分からないけれど、私が私で無くなってしまいそうな気がするのだ。気を抜けば骨を抜かれたように倒れそうになるのを無理やり蘭に固定されている状態で、サラリと細く節くれ立った指が前髪を乱雑にかきあげる。

「多分相性いいよ、オレ達」

 私の思考回路はもう8割型蕩けてしまっていたけれど、残り2割の僅かな理性で、よくそんな恥ずかしいことが言えるな、と悪態をつく。この男はどうやらほんっっとうにメンタルが強いらしい。
 チュウとわざとらしく音を立てて唇を落とされながら、私はどうにか攻め落とされないよう、数ミリほどしかない理性の糸を保つことしか出来ないのだった。

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