ここ数日の激務が漸く終わりを迎えて、私は送信完了の文字をぽけ〜〜と眺めていた。溜まりに溜まった疲労と倦怠感が限界を超え、パタンと畳の上に横向きに倒れる。やっと終わった……めちゃくちゃ頑張った……もう文字見たくない、日本語読みたくない。ヒンヤリとしつつもざらついた畳が頬に擦れ目蓋を伏せると、疲れきった眼球が熱を帯びるようにじわりと縮まっていく。それどころか脚は木の棒のようだし、首や肩は世界一硬い鉱物よりも凝り固まっていた。少し伸びをすれば身体中の節という節からバキバキと音が聞こえる。何だかそろそろ本当に死ぬのかと思った。涙がちょちょぎれて畳が濡れそうである。

その時、だ。ふわりと何処からか漂い香る匂いに反射的に目がカッ開いた。芳ばしい醤油のような食欲をそそる匂いは、夕餉の時刻が迫っていることを示している。寝不足の頭でも食欲には抗えないようで、即座に思考は覚醒した。畳に寝そべっていた身体はピシャーン!と直り、自然と匂いを辿って脚が導かれるようにスタスタと廊下を早歩きで進んでいく。

その途中「あ、」ちょうど曲がり角から姿を現した光忠と目が合った。しかし徹夜で鈍った身体は、まふで急な方向転換なんぞできそうになかった。光忠を避けようとした脚は見事にもつれ、浮遊感と共に木目の床が近付いてくる。ひえ!こ、今度こそ死ぬ!マジで死ぬ!しかし、前方に大きく傾いた私の両手首を、間一髪で後ろから伸びた腕が掴み取った。そのまま後ろへ一気に抱き寄せられ、緩やかな曲線を描いてポスンと背中が収まる。あ、あっぶねぇ……死ぬかと思った……!決して柔いとは言えない光忠の胸筋に挟まれながら、自他認める超絶ビビリな心臓はドクドクと脈打ち、久々の外部からの刺激に驚いているようだった。最近サボり気味だったとばかりに怒涛の高鳴りを見せ、嵐の如く息切れを催してくる。深呼吸しても全然収まらない。その私のビビり様に、小さく吐き出された溜め息が首筋の肌をなぞった。別の意味で心臓がまた暴れそうになり離れようと試みるが、後ろからガッシリと掴まれた手首は力強く剥がれない。


「こここ、怖かった……!」
「主ったらまた徹夜したでしょ?」
「し、した……けどやっと仕事終わったんだよ!」


「それはおめでとう。けど、そんな脚をフラフラさせてたらまた転げるよ」
一々光忠の声が吐息と共に首に当たる。熱い胸板を押しのけ上半身を捻りながら勢いよく頷くと、正面にある彼は嵌め込まれた隻眼の瞳を弓なりにしならせた。「よく出来ました」と笑みを浮かべ私の手首を持ち直すと、背後に立ったまま歩き出す。
「んぇ?」
途端にふわりと浮く身体に唖然とする。訳が分からない。抵抗しても微動だにしない。脚をバタバタさせると、やめろとばかり両手首が上に上がり、そのまま身体ごと宙に浮いた。いくら暴れようと脚は宙を蹴るだけで、まるで駄々をこねる5歳児が親に無理やり帰らされているようだった。ハウルのように優雅に空を歩くようなエスコートじゃない。非常に屈辱である。なにゆえこのような形を取るのかと尋ねると、彼は当然のように「転倒防止対策」と口にする。光忠が一歩進む度、否応にも私の両足が宙に繰り出した。な、なんだこれ。そして私はその動きを繰り返し、まるで操り人形のようにぎこちなく廊下を前進していくのだった。

「今日の夕餉は伽羅ちゃんが担当なんだよ」
「へえ〜そうなんだ!」

芳ばしい香りが、近付いてきた。襖が開放された居間には既に殆どの刀が席に着いている。到着と同時にパッと離れた圧力と共に久方の床を足裏で噛み締める。そのまま中へ駆け込むと、私を中心に囲むような形で席についた皆が迎えてくれた。


「やっときたー!」
「あるじさま!はやくたべましょう!」
「あ、うん!遅くなってごめんね」
「さあ、食べるか」
「うん、お腹空いた……」
「まって!その前にあるじさん、いつもの!」
「へ、あ、そうだね!」


疲れよりも空腹のバロメーターが振り切っていたため、一心不乱に箸に持ち貪り食おうとしていた私は、乱ちゃんの声でハッと我に返った。顔を熱くしながら箸を元の場所に戻し、両手を合わせて居間を見渡す。みんなも両手を合わせて私を見ていた。

「いただきます!」

皆に聞こえるよう、なるべく大きな声で口にすると、疎らな声が後に続く。その様子を見届け、私は再度箸を持ち直した。や、やっと食べられる……!お腹すいた!
今日のご飯は白いふわりと立ったお米に、甘辛い芳ばしい香りが際立つ鶏肉の照り焼き、お味噌汁、マヨネーズが添えられたサラダ。私が惹かれた匂いは紛れもなくこの鶏肉の照り焼きだった。一体どれから貪り食ってやろうか……!と箸を右往左往させていると「行儀が悪いぜ大将」と隣の薬研にお叱りを受けてしまった。確かに激しく行儀が悪い。「……ご、ごめんなさい」素直に謝ってとりあえずお米を一口口に運ぶと、優しい甘味が口内に広がって頬を押さえた。お米美味しい!やっぱりお米美味しい!お米最高!日本人最高!ビバ稲作!


「……大将はほんと美味そうに食べるなぁ」
「しょ、しょうかな?」
「食べてる途中に話しかけた俺が悪いが、飲み込んでから喋ってくれ」
「……んぐ、だって美味しいもん!全部美味しい!お米美味しい!お米と塩があれば生きていける!」
「ならばその照り焼きもらったぁぁ!」
「な!?あああああああ鯰尾!?」
「お、おい鯰尾!」


突如として右から伸びてきた腕。その腕は迷わずメインディッシュである鶏肉の照り焼きをかっさらっていく。食べやすいように切られているそれの約半分ほどがあっという間に皿から消え、大きな口へと吸い込まれていった。それは僅か3秒ほどであり、正に寸刻の出来事だった。まるで何が起こったのか分からず、理解が追いつかなかった私だったが、随分と寂しくなった自分のお皿を見て事の重大さに気付く。と、とられたのだ。照り焼きが、私の一番の目的である照り焼きが奪われたのだ。私の鶏肉が……照り焼きが……!白目を向いて倒れそうになるも寸前のところで意識が返り、うわあああん!と子供のように叫んだ。もぐもぐと笑いながら咀嚼している鯰尾、呆れながら鯰尾の頭を叩く薬研。「うるさいよそこの三人」と上品に食べている蛍丸から横目で睨まれたが、残念ながら今回は謝っている場合ではない。「何すんのよおと!」鯰尾の肩を掴んでぐわんぐわんと揺すぶって情けなく泣き喚いた。短刀もびっくりの喚き具合である。こうなると最後、立ち上がった私を落ち着かせようとしてくれる薬研も目に入らない。私の敵はあのアホ毛ただ一振である。


「私の照り焼き返してよお!」
「返しましょうか?あー」
「ぎゃあああキモイ!いらない!キモイ!」
「えー残念だなぁ」
「でもやっぱり返せ!」
「あーん」
「一旦口に入ったやつはいらない!」
「主は我侭だね?」
「うるさい吐け!いらないけど吐け!そこに吐け!私の照り焼き吐け!」
「あ、主が変なぷれいを強要してくる……っ!」
「何がプレイだ!どこでそんな言葉覚えた!」
「昨日鶴丸さんが教えてくれたよ」
「アーン!?鶴丸どこ」
「あそこ」
「鶴丸の照り焼き寄越せ」
「な、待ってくれ!何故俺にくる!」
「うるさい黙って照り焼き寄越せ」
「た、食べちまったが……」
「……鶴丸の照り焼き寄越せ」
「いでででで!髪を引っ張らないでくれ!」
「……鶴丸の照り焼き……」
「俺が照り焼きになれって意味だったのか!?み、三日月助けてくれ!」


そう助けを求められた三日月は「あなや」と言って照り焼きを食べた。このタイミングで食べるだと……なんてやつだ。目を丸くして後ずさる鶴丸と、最早照り焼きしか頭にない私。じりじりと近づいて、とうとう壁際まで追い詰めるというところまできた私の肩を、トントンと誰かが叩いた。目尻に溜まった涙を飛ばしながら、悲劇のヒロインの如く振り返る私の目に映るのは薬研であった。呆れの混じった瞳で私を見ながら膝をつき、人差し指で私の涙を拭う。


「ほら、大将。俺のやるから落ち着いてくれ」
「う、ひっく、薬研……っ」
「……はぁ。兄弟」
「ういっす、すみませんでした主」


鯰尾が薬研の隣で正座をして頭を下げていた。そのアホ毛の代わりに大きなたんこぶが出来ている。誰にやられたのか知らないが、鯰尾もきちんと制裁を受けたらしい。ごめんね、主。顔の前で手を合わせ、片目を閉じて私の様子を伺う鯰尾。それでも何だかすぐに許す気にはなれず、薬研に抱きついてその肩に顎を乗せツーンとそっぽを向いた。ガーンと固まる鯰尾の気配が感じられるが、知らないもん。悪いことしたのは鯰尾だもん、とよしよしと背中を頭を撫でてくれる薬研に甘えた。いやらしさは感じられない。私を抱えたまま後ろ足で元の位置に戻っていく薬研は傍から見ると不格好であったのだろう。「主ー、薬研が困ってるよぉ」「自分で歩いたら?」「薬研いいなぁ」「あれを"やくとく"というのですね!」各方向からそんな声が聞こえてくる。


「まったく大将は仕方ねえなぁ」


ぎゅ、と強く抱きしめられたと思ったら薬研の体は離れていった。
今日も私の本丸はうるさい。

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