不思議な人だと思った。彼自身が流す雰囲気も、ふと見せる悲しそうな哀愁漂う表情も、いたずらっ子のように口角を上げる顔もその全てが、今まで出会ってきた人間とは違うような気がした。気付けば彼が誰かと話しているのを遠くで見ているだけで胸の奥底から痺れるような何かが押し上がる。ほわほわするような淡い感情に酔いしれていれば、まるでお酒を飲んだように落ち着かない。もちろんお酒を飲んだことなんてないけれど、ああ、お酒に溺れる人間は皆こんな気持ちなのだろうかと頷けるほどだった。それも全ては黄瀬君の事を、黄瀬君の事が‥‥好きだったからなんだろう。私と黄瀬君は3年で初めて同じクラスになったものの、委員会や行事などでも何かと接点も多かったし、一方通行かもしれないけど確かにそれは事実である。そして、それは強引ながらも連れていかれたバスケ部の試合で決定的なものとなり、恋に落ちるのはもう時間の問題だった。でも、告白しようなんてそんなことは思わない。周りの友人にいくら早く告れよーとからかわれても、気持ちを伝えることはきっとない。それが正しい答えだと分かっているから。告白したところで自分の望むような展開があると自惚れてなどいないし、一部の女子にそのことが広まれば嫌がらせだってされる。実際、黄瀬君に告白した女の子達はほとんど全員引きこもりになってしまうほど、それは辛いものなのだ。私にそんな勇気はない。今の日常的な幸せが崩れてしまうなら、私は恋より友を選ぶ。それが、きっと正しい答えなのだから。自分の存在が黄瀬君に認識されているだけで幸せ。彼の事を好いている多くの女の子の1人としていれるだけで、私は幸せ。これ以上のことなんて望まないし望めない。
ガタリと音を鳴らして席を立つ。机の上に散らばった自習プリントをかき集めて鞄に突っ込むと、不意に窓の外から黄瀬君の声が聞こえたような気がした。思わずピクリと肩が揺れて、唇が緩く円を描く。ああ、補習のプリントを任せてきた友人は憎らしいけど、最後に待つのはやっぱりご褒美なんだね。黄瀬君の声が暫く耳から離れない。もしかしたら、今なら帰り際に姿を拝めるかな‥‥なんて。一瞬だけチラリと窓からグラウンドを覗く。オレンジ色に染まる空の下には、部活帰りの生徒達の影。


「‥‥あ、水やり」


ポツリと呟くと同時に慌てて教室を飛び出した。そう言えば今日は技術の授業で植えた花の水やり担当だったような気がする。ていうか、言われてみれば今日は1日も水を与えていない。それに昨日は日曜日だったから誰も水を上げてないだろうし、更には最近雨も降ってない。‥‥いくら冬とはいえ、これはまずい。タラリと頬に冷や汗が伝った。急いで水道の下にある如雨露を手に取り、中庭へと足を走らせる。ポチャポチャと揺れる水面に反射する夕暮れが眩しい。走っているせいか、如雨露から冷えた水滴が顔へとかかる。冷たさと張り付く前髪に目を細めていれば、廊下の壁に黒い影が映った。え、と足を止める間もなく衝突。衝撃のせいで離してしまった如雨露から水が溢れた。勢いよく尻餅を着くと同時にシャワーのように降り注ぐ冷水。


「‥‥った」
「だ、大丈夫ッスか?」


その声を聞いて固まった。おそるおそる目線を上げてみれば、差し出される綺麗な手。心配そうに私の顔を覗き込む黄色の瞳は間違いなく――黄瀬君だった。


「え、あ、」
「うわ、水浸し。寒いッスよね?」
「へ?」


唖然と黄瀬君を見上げるあたしにそう言って、彼は羽織っていたブレザーを脱ぎ始める。その行動の意味を時間差で理解した私は、慌てて立ち上がった。ぽたぽたと髪の先から落ちる雫が地面に跳ねて音をたてる。身体が震えてるのはきっと、寒いから‥‥だよね。

「い、い。全然大丈夫だから」
「この時期に頭から水被って大丈夫なわけないッスよ!」
「‥‥いや、大丈夫」
「何でッスか!俺、名字っちが寒いの苦手って聞いたことあるッスよ!」
「‥‥え?」


ドクン、と心臓を揺らされたみたいだった。同じクラスなのだから名前くらい知っていても何らおかしいことではないはずなのに、ただ声で私の事を呼んでいるという事実が頭をクラクラさせる。思わず体の動きを止めてじっと黄瀬君を凝視していれば「俺がクラスの女子の名前覚えてることがそんなに珍しいッスか?」と口元を緩めて彼がゆっくりとと歩み寄ってきたため、とうとう私の心臓は限界体勢に入った。寒さからなのか、思うように動かない舌が憎い。回らない呂律に困惑しながら、気を紛らわすために制服の袖を絞った。ぽたぽたと床から跳ね返った水が靴下を濡らす。

「しっかし‥‥こんなずぶ濡れのまま返すわけにもいかないッスね」
「別に私は大丈夫‥‥だから」
「1人で帰らせるなんて男が腐るってもんス」
「‥‥」
「やっぱ送っていくッスよ!」
「っ、」


バッと自分の腕に留めていた視線を上げた。いつの間にか私との一歩前にいた黄瀬君は驚いたように上半身を仰け反らせたけど、きっとあたしはそれどころじゃない。燃えそうなくらい火照った顔が自分でも分かる。しかし、パクパクと口を開け閉めする私とは対照的に彼はさも当然のような顔で首を傾げており、急上昇していた体温はピタリと終止符を打ったような気がした。スッと、また身体が冬の冷気に包まれる。‥‥何を、勘違いしているのだろう。彼はあの黄瀬亮太じゃないか。同学年の名前を覚えてるのは当たり前。ぶつかったらお礼をするのだって当たり前。そういえば、クラスの誰かが「昨日黄瀬君と相合い傘したーっ」と騒いでいたのを思い出した。その時は大して何も感じなかったものの、今思えばそれもきっとお礼の1つなのかもしれない。
誰にでも優しい。それが彼の人気を高めている理由の1つ。誰にでも。私だってただその1人なだけ。そう考えれば、一瞬でも浮かれてしまった自分が無性に恥ずかしくなった。黄瀬君は芸能活動もしてるのだから家まで送るのだって、彼からすれば当然のことなのに。身体の芯が氷のように固まっていく。


「名字っち?」
「‥‥へ?」
「とりあえずこのジャージ着てほしいッス。風邪ひいちゃうッスから」


ドサリと少し重みの含んだジャージが肩にかけられた。水で濡れた首元にジッパーが当たって身体を縮こまらせる。すごく嬉しい。黄瀬君がこうやってあたしという何の特色もない人間に優しくしてくれるのが、まるで夢みたいで。でも、ほわほわしない。いつもなら遠くから眺めてるだけで酔ったみたいに気分がほわほわして目元が緩むのに。こんな優しいことされたら、嬉しすぎて何も考えられないはずなのに。緩まない。ドキドキしない。一体あたしは何を求めてるの。どうして、こんなにも、どうして私は、何を残念がってるのだろう。


「名字っち?」
「黄瀬君は、」
「へ?何スか?」
「黄瀬君は――、」


私は今、何を言おうとしてるの


「‥‥私が黄瀬君のこと、好きっていったら‥‥、どうする?」


唖然と目を見開く彼は、困ったように眉を下げた。ずれ落ちてきているジャージを肩にかけ直して「俺は、」と私に向かい合う。両肩に置かれた腕からドクドクと熱が伝わって、今更ながら、想いを告げてしまったのを後悔した。怖い。もう遠くで眺めることすら出来なくなりそうで怖い。ぎゅっと、肩にかかる力が強くなる。


「っ」


ふいに頬を伝ったのは泪。冬の空気にすぐ感化されて、すぐに冷たくなるそれを拭うこともせず、ただただ呆然としていた。黄瀬君の顔が見れない。連なるように抱き寄せられた彼の胸は、心なしか少し震えているような気がした。訳がわからない。いきなり想いを勝手に告げたのはこっちなのに、何で私泣いてるの。泣く理由なんてないのに。


「俺は、」


その続きは、期待していいですか。

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