私が妙な声を聞いたのは、鍛練場に向かう途中のことだった。もう季節的には冬だというのに開けっ放しの襖が、外から吹く風でガタガタと音を鳴らしている。いくら刀とはいえ貴方たちも風邪は引くかもしれないんだよ!知らんけど!とこの間言い聞かせたはずなのに……!この行いは一体誰なのだ。プンスカプンである。そう軽く注意でもしようとした時、部屋の中から低い唸り声が聞こえ、私はピタリと立ち止まった。
(な、何今の声……。この部屋からした?)
低くてどの刀の声なのか見当もつかない。ここで説明するが、なんせ私は幽霊といった類がとても苦手なのだ。少しビビりながらも、恐る恐る中を覗いてみる……と、である。そこには両手を顔の前に上げ、何かを包み込むような体勢をしている鯰尾がいるではないか。何かを包み込むように、といってもその両の手の中には何もなく、あたかも何かが存在するかのようにしている姿は現代のとあるパフォーマンスを彷彿させる。カバンが重たく見えるアレ、エスカレーターを降りているかのように思わせるアレである。しかし、ふざけているにしては、彼の顔はとても真剣味を帯びすぎていて、私はそのあべこべな姿に首を傾げた。


「ははああ……」
「……鯰尾?」
「え、主?」
「一個聞いていい?」
「何ですか?」
「……襖も開けっ放しで何やってるの?」
「あ!ちょ、ちょっと待ってください主……あとちょっとで出そうだから、もうちょっとで出そうだから」
「な、何が?」
「あ!きた!主どう!ここの手と手の間ちょっと温かくない!?どう!?」
「どうって」
「早く!消えちゃうかも!」
「消えるとは!?え、なに……ここ?」
「そう!どう?熱い?何か出てる!?」
「特に他と変わらないけど」
「他と比べてちょっと温かいとか何かない?」
「な、ないかな」
「……まだまだ修行が足りないか」
「ごめん、改めて聞くけど何やってるの?」


ボフンと布団の上に真正面から倒れた鯰尾は額を枕に押し付けながら「何でだよ〜いつになったらびーむが出せるんだよ〜」と項垂れた。ビーム?そう聞き返すと、鯰尾は勢いよく起き上がる。「よくぞ聞いてくれました!」と薄い唇の端を持ち上げ、にっこりと笑った。その顔だけ見れば可憐な少女のようである。そして嬉しそうに私に突きつけてきたのは、一冊の漫画。こ、これは……!この間私が内番が終わって暇そうにしていた短刀たちに渡した漫画『ドラゴンパール』であった。そしてハッと点と点が結ばれる、待って、まさか……と一つの可能性に思い至り黙り込むと、鯰尾は嬉しそうに笑った。


「文字が小さすぎて何が書いてるのかは分らなかったんですけど、これすっごいカッコいいですね!?俺もやりたいです!どうやったら出せますか主!」
「やっぱりか!」


そこに描かれているのは男二人が木々を飛び移りながら戦っている、所謂アクション漫画の戦闘シーン。手からビームは出るし空は飛べるしで、結構何でもありな無双漫画だ。それを見せてきたってことは、そういうことである。ひくり、と頬が引き攣るのを感じた。ねえ、うちの子の精神年齢どうなってる?


「主ってば〜」
「み、耳元で猫なで声を出すな!」
「え〜ケチ〜」
「あとこんなの普通の人は出来ないからね?」
「え?」
「え?」
「出来ないんですか?」
「あ、当たり前でしょうよ」
「手からびーむは出ないんですか?」
「手からビームは出ないね」
「手首からろけっとぱんちは出ないんですか?」
「手首からロケットパンチは出ないね」
「元気玉は……」
「出ません」
「俺の努力とは」
「お疲れ」
「はあ……頭割れそうです……骨喰に馬鹿だと言われても蔑んだ顔をされても、それでも主がくれたものに嘘はないって信じて頑張ってたのに……!」
「そ、それは……なんかごめん?」
「悲しいです、俺は悲しいです主……」
「ごめんて!」


え、何!?これ私が悪いの!?私の膝に抱きついてくる鯰尾の頭をバシバシ叩きながら慰めていると「痛いです」と文句を言われてしまった。ムッと唇を尖らせて、頬を膨らませる姿は鯰尾と乱ちゃんくらいしか似合わないんじゃないのか、とそんなことを考えていると、慰めるならもっと優しく撫でろと注文をつけられる。ワガママか。こんな予定じゃなかったんだけどなあ……と本来の目的を頭の隅で思い出しながら、絹のように滑らかな黒髪を撫でた。まだ結っていない長い髪は、手櫛でもサラサラと指の間を通り、本人は面倒くさいと言っていたけどそんなの勿体ないと思えるぐらい綺麗で柔らかい。艶々と光沢のある髪はそれでいて何も手入れはしていないっていうんだから不平等である。

「慰めてあげたい気持ちもあるけど、私今ノルマの途中だから鍛冶場に行くね?」

うーとかあーとか言いながら絡んでくる鯰尾の頭を一段強く撫で付けて離れようとした時、グン――、下から力強い何かに身体を引っ張られて「え、」と声が漏れた。高いところから落ちるような浮遊感に包まれたのはほんの一瞬の出来事で、気づくと私は布団の上に寝ている。そして鯰尾はいつの間にか膝から移動し、その腕を私の首に絡みつけていた。

「……うりゃぁぁ!」
「うわぁ!なに!ちょっと!」

あろうことか、鯰尾は私の首に腕をかけたまま、布団の中に引きずり込んだ。予測できない彼の行動に大した抵抗もできない私は、あれよこれよとほのかに温かい布団の中入れられ、漸くハッと意識が覚醒する。こ、こんなことしてる場合じゃない!仕事があるのに!何でまたお布団の中にいるんだ私は!またこんのすけに怒られるから!何事もなかったかのように今度は足まで絡ませてこようとする鯰尾に、ヒッと声が漏れた。首に回ってた手はうなじをなぞるように触れ、ぞくりと嫌なものが背中を駆け上がる。精神年齢は5歳のくせにどうしてこういった方向には達者なの!粟田口怖い!いち兄ちゃんと教育して!「は、離せーー!」そう抗議すると、彼は先ほどと同じ笑みを浮かべた。にんまりと上がった口角に三日月に曲がる瞳、可憐な少女とは言い難い妙な違和感を感じ、私は尻込みする。な、何なの最近……!うちの子達スキンシップ激しいんだけど何で!中々離れようとうしない鯰尾は、暗くて狭い布団の中でコツンと額同士をくっつけた。

「……主さんのここ、熱い」

ヒンヤリした彼の肌をぐりぐりと押しつけられ、私は少し半泣きであった。心臓が驚くほど高鳴って苦しいのである。強めにバシバシと背中を叩いてみるも、離れるどころか首に回る力は余計強くなった気がした。

「い、いい加減現実見なよ……主をからかったって何もならないよ?」
「もうそれはいいんです〜!」
「じゃあ離れて」
「……」
「うえっ」
「主ったら照れ隠しが過ぎますよ」
「く、苦しい……!」
「こんなに真っ赤になっちゃって」

だんだん下がってきた腕は、首、鎖骨をなぞってお腹付近で再度絡まりついた。ぎゅーと私のお腹の上で沈んでいる鯰尾に大し、私は体が硬直して全く動けずにいる。ほんとこういうのやめてほしい、心臓持たない。堪らず強く目を閉じると、布団の中では互いの息遣いがよく聞こえた。私のものじゃないそれを聞くと、こんな状況でもああ彼はやっぱり生きてるんだと場違いなことを思ってしまう。


「なんか」
「……な、なに!」
「こうやって二人で布団の中で抱きしめあってると、あったかいです」
「だ、だだだ抱きしめあってなんか!」
「主顔真っ赤ですよー?」
「う、うるさいやい!暗くて見えてないでしょ!」
「脇差って夜目が効くんですよ?」
「……うっ」
「それに主とじゃれてる時って大体薬研が邪魔してくるんですもん」
「薬研……?」
「主も何かあったらすぐ薬研の名前呼ぶし」
「それは薬研が助けてくれるから」
「薬研も空気読まないって俺たちの間で話題なんですよ?」
「……だって近侍だし」
「……本当にそれだけですかねえ」
「何の話?」
「俺達、嫉妬してるんですよって話」


嫉妬って、この子は何を言っているのだろう。
私も暗い視界に慣れてきたのか、鯰尾のガラス玉みたいな瞳が細まって、私を射抜いているのが嫌でも分かった。ていうか薬研が助けにくるって、そんなのそもそも助けを求めるようなことをしてるのがおかしいんじゃないか……!今この瞬間だって、どれだけ私がギチギチに固まっているのかを、彼は知らないはずがないのに。それならいっそ、お望み通り今ここで薬研を呼んでやろう。「やげ――」そう思って口を開くと、私の口は呆気なく鯰尾の手によって塞がれてしまった。しーっと唇に指を当てている彼は、まさか私が薬研の名を呼ぶは思っていなかったんだろう。ただでさえ大きな目を大きくて、少しだけ焦っているようにも見える。


「あ、主待って。そんなのすぐ来るって!もうちょっといちゃいちゃしてましょうよ!」
「誰と誰がいちゃいちゃするって?」
「ほら来たーー!早い!さすが!早い!」
「……はぁ、兄弟。いい加減離してあげてやれ」
「薬研ってほんと……はあ」
「鯰尾」
「はいはい、分かりましたよーっと!」


突然明るくなった世界に目を細めていたら、視界には上から見下ろすようにしている薬研がいた。ほ、本当に来てくれたのね薬研……!まるでスーパーマンのような薬研にうるうるしていると掛け布団を片手で引っペリ剥がし、ズレた眼鏡をかけ直しながらため息を吐いていた。ほんと毎度毎度ごめんなさい。今すぐ謝りたくなっている私の隣で、残念そうに後頭部で両手を組んでいる鯰尾は「なんかさぁ」と薬研を指差して言う。


「薬研ってさぁ、主の保護者みたいだよね」
「は?」
「主が酔った時も介抱するのは薬研だし、助けに来るのも薬研だし」
「こんなでかい大将の保護者になった覚えはないが」
「でもいつもその立場じゃない?ご苦労さ〜ん」
「俺っちを労わるくらいなら自分の行動を改めてほしいもんだなぁ」
「だって主チョロいんだもん」
「はあ……乱と同じことを」
「あ、本当に?今度主のチョロさについて語り合おうかな」
「待って二人共、その主涙目」


チョロいって何、でかい大将って何。待ったをかける私の手をふわりと掬い上げると、薬研は「ほら行くぞ大将」とさっさと部屋を出ていこうとする。グイグイと引っ張るものだから転げそうになるのを必死に回避して、薬研の後ろを追いかけた。「じゃあね〜主と保護者さ〜ん」呑気な声が後ろから投げられるのを薬研は不機嫌そうに眉をしかめている。す、すみません私のせいで……。本来私が彼の保護者でもおかしくないくらいなのに本当すみません。苦笑いする私に、薬研はぴたりと立ち止まった。白衣を揺らしながら振り返った薬研は、驚く私をじっと見つめ、一呼吸おいて薄い唇をゆっくりと開く。冷たい冬の風がふわりと彼の前髪を攫った。


「いいか大将。俺っちは大将の近侍こそやっているが、保護者になるつもりは毛頭ない」
「改まって言われると結構くるね」
「本来大将がしっかりしてくれれば俺っちが動く必要もないし、保護者なんて言われることもねえんだ」
「あ、これくるね」
「保護者役を好んでやってるわけじゃない。仕方なしにやってるってことを胸に刻んでおいてくれ」
「きたわ」


半泣きである。薬研兄貴、ほんと容赦ない。ぐさぐさと刺さりまくる言葉の槍に、私の心は穴だらけだ。堪らず耳を塞ごうとすれば、とりあえず聞いてくれと腕を取られ、やんわり阻止されてしまう。「それに、」そう彼の口から出た言葉は、弱々しく覇気がなかった。堂々としている普段と比べると、少しの違和感を感じて私は首を傾げた。私の両手首を掴んで向き合っている図も中々おかしいものではあるけど、私はそれよりも言いにくそうに表情を苦くしている薬研の方が気になってじっと見つめてしまう。
「それに、」もう一度出された薬研の声に、続く言葉はない。


「……薬研?」
「っ、やっぱりいい。今のは忘れてくれ」
「え、でも、」
「今のは忘れて欲しいが、さっきの言葉は忘れるなよ」
「ういっす」
「ほら、仕事の時間だ大将」
「ういっす」


くるりとまた私の背中を見せた薬研は、あっという間に歩いていってしまう。置いていかれそうになるのを急いで追いかけると、薬研の声が風に乗って聞こえたような気がした。え、と立ち止まって耳を澄ませてみても何も聞こえない。聞こえるのは庭で風を鳴らしている枯葉だけで、遠征に行かせているせいかいつも騒がしい人の声も聞こえない。あれ……気のせい、かな。でももし気のせいじゃないのなら、一体どういう意味なんだろう。途中で言うのをやめるなんて気になるじゃないか。
けれど、顔を上げれば遠くなっている薬研の姿に私は慌てて後を追いかけた。
……まあ、気が向いたら聞いてみよう。
きっと教えてくれないだろうけど。

「俺っちだって、」

その続きはなんだろう。

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