この建物はあくまでテーマがバリ風、というだけである。なので日本にというか普通に現世に存在しているし、一歩外へ出てしまえばそこはただの日本なのだ。空間を歪ませている訳でも無い、時間遡行軍が出る訳でもない、平和な現代。つまるところ、ホテルの周りは拓けた自然が広がっていた。

鶴丸が私の手を引いて導いたのはバリをイメージされた建物には些か相応しくない、小さな社と鳥居がポツンと残る奇妙な場所だ。てっきりホテルの中で気になった場所へ案内されるのかと思っていたのだけれど、彼は予想を裏切り裏口から外へ出ている。いつの間にこれの存在に気付いていたんだろう。「なにこれ?」と素直な気持ちをそのまま口にするが、鶴丸は真顔とも言えない妙な顔つきをして顎に手を置き、真っ直ぐにその小屋へと眼差しを向けていた。

空はもう太陽が沈みかけ、オレンジの光が眩しいくらいに照っている。真っ白な鶴丸は紅く染まり、その足元には濃い影が伸びた。この視界の四隅に額縁さえあれば立派な絵となりそうな美しさに思わず息を飲みじっと見てしまう。そんな視線を感じたのか横目で「ん?何だ?」キョトンとして目を丸くした。ううん何も無い、そう言って首を横に振ると、首を傾げて視線を社に戻す。すっかり忘れかけてた事実だった。鶴丸国永は美しい、そんな簡単なこと。そう、彼は黙っていれば言葉を失うほど秀麗で優美なのだ。本丸では普段から場の盛り上げ役に回ることが多い彼だから、そんな事実すっかり忘れていた。なんて勿体ない人……ていうかいっそ可哀想……。そういやうちの鶴丸はあまり私に真剣な顔を見せたがらなかった気もするから、こういった雰囲気もまた珍しい。

ふと、冷気を含んだ風が吹いて肩を震わせた。春が目前に迫ってきてるとはいえ、日が落ちる時間になったらまだまだ寒い。上着を持ってくる余裕すらなかったから薄いワンピース一枚だし、ていうか靴下なの忘れてた!地面冷たい、うわ、しかももうここ完全に外じゃん!連れてこられた意図も分からないそれに、鶴丸と同じく夕陽を浴びる社の小屋をよく見てみる。屋根の檜皮葺には葉や枝が落ち、正面にかけられた南京鍵は錆切って今にも綻びてしまいそう。けれどそれ以上になんだか少し気味が悪い気がして、帰らないの?と鶴丸の裾を引っ張った。

「あ、ああ。すまないな、帰るか」
「ねえ、どしたの?気になるの?これ」
「なんだかなあ。そんなに大きな力は感じないんだが……妙な気配は感じる」
「ええっ!?それって怖いやつ……?」
「ハハ!きみ、怖いのか?」
「いやいや、普通に怖いよ……」
「主は怖い話をするとすぐ小動物みたいに隠れるしなあ」
「うるさいやい」
「ま、大丈夫だ。俺がいるさ」

これ以上の滞在は特に興味があるわけではない私には少し辛い。その細くも逞しい腕を掴み、半ば強制的にホテルへと急いだ。急に連れ出したかと思えばよく分からない小屋の前だし、なぁにが驚きを受け入れようだ。奇妙な空間から離れ、再びバリの世界へと戻る。プンプンと鼻の息を荒らげながら廊下を歩くと、後ろからは特に悪びれもしていない鶴丸が「すまんすまん」と笑っていた。

「いやあ、驚きがあると思ったんだが読みが外れたらしい」
「私はそんな気がしてた!」
「気配はしたんだがなあ」
「な、何か感じたの?もー怖いってば」

軽口を叩きながら元来た道を辿っているが、そうこうしてるうちに夕餉の時刻は着実に近づいていた。夕餉はとある広間を貸切で使わせてもらうことになっているのでこの足で向かってもいいのだが、一応「一度部屋に戻る?」と聞くと「別にこのまま向かえばいいだろう」と言うのでそのまま広間に向かうことにする。けれど聞いてから思い出した。鶴丸、君一つ忘れてるよ。私は今靴を履いてない。怖くて靴下の裏が見れない、間違いなく汚い。……私はこの旅行中に仕返しを固く決意した。

皆には夕餉の時間になれば広間に集まることを伝えているので、恐らくもう集まり始めている頃だろう。わーい!ご飯だ、楽しみ!とルンルンで広間の前に着いたので勢いよく襖を開けると、案の定乱と光忠が既に座っていた。私と鶴丸が一緒にいるとは思わなかったのか、少し驚いた顔をしたものの、嬉しそうな乱が私の腕を引いて己の横へと座らせる。

「ねえ、あるじさんどこ行ってたの〜〜?」
「あ、はは……まあまあ」
「むーー何それ」
「あれ、それより清光は?」
「ああ……加州なら、」

少し言いづらそうに目線を逸らす乱が口にする前に、閉じた襖がスパァン!と勢いよく開いた。へ?と素っ頓狂な顔で視線を遣ると、頬を桃色に染めあげた清光が此方を見据えていた。えっなに!?え!?と驚く私をよそに、あちゃーと額に手を当てる光忠と面白そうに目を輝かせる鶴丸、乱に関しては「……あーあ来ちゃった」と項垂れていた。ゆっくり私の方へと歩み寄る清光の右手にはしっかりとお猪口がしっかりと握られている。……ん?どゆこと?

「ありゅじの、ばかぁ!」
「え、ええええ!?なに!?これなに!?」
「夕餉の前に三人で軽く飲んでたんだ。そしたら彼、ちょっと飲みすぎちゃったみたいで……」
「そ、それにしてもこんな……」

普段本丸でお酒を飲む機会は多々あるが、ここまで清光が酔い潰れているのは見たことがない。むしろ決して酔っ払うことなく、常に誰かの介抱に回っていた記憶がある。鶴丸といい清光といい、今日は初めて見る表情が多いなあ。旅行だから気分が高まってるのかしら。

そんな彼は覚束無い足取りのまま私の前で歩みを止めると、電源が切れたようにクテッと私の胸元に崩れ落ちた。お酒と華が混ざったような香りがふわりと舞い、結ばれた髪が跳ねる。「バカは嘘……ありゅじ……好き……」空のお猪口が掌から離れた。そのまま両手が私の腰に回るとギュッと抱き締めている。頬は熟した林檎のように紅潮し、少し充血した瞳には薄らと膜が張っていた。キュゥゥンと心臓の深い部分が激しく振盪する。待って、めちゃくちゃ可愛い。どうしよう。清光めっちゃ可愛い。抱き締め返したい。どうしよう、やばい。はやる気持ちをグッと堪え、衝動に震える手でとりあえず頭を撫でた。


「ねえーーー!?これが母性本能ってやつなのかな!?めっちゃ可愛い、撫でくりまわしたい、どうしよう!」
「ぎゃー!!!最悪!あるじさん離れて!」


あざとさの塊と化した清光を無理矢理引き剥がそうとする乱だったが、思いのほか彼の力は強く中々離れない。むしろその力は強くなる一方である。視界の隅で鶴丸や光忠も無言で立ち上がろうとしたが、慌ててストップをかけた。あの二人だと私まで怪我させられそうで超怖い。あと容赦がなさそうで更に怖い。幸いこの酔っ払い清光はとても可愛いし全然許せるので、仕方がないからこのままご飯にしようということで落ち着いた。私は清光の頭を膝に乗せたまま、用意された豪勢な食事に箸をつける。うわ!!肉!!ステーキ!!唐揚げ!!


「にしても、お酒飲んだのに乱も光忠も随分平気だね?」
「まあ僕は元々強い方だからね」
「ボクもーー!でもさすがに燭台切さんには負けちゃうかも……」
「張り合うものじゃ無いさ。お酒は楽しむものだって次郎くんも言ってたよ」
「次郎さんは楽しみすぎだよ……」
「大太刀は皆お酒に強いからなあ」
「でも特に次郎さんは異次元だよね。同じ刀なのに何で飲める量が違うのかな〜」
「清光も本当は弱かったとか……?普段は介抱役に回ってたし」
「うーん、今回の加州くんは単に飲みすぎてたからね」


どうやらあの短期間で、スイッチが入って一人で酒瓶半分を空けていたらしい。苦笑いする光忠の声に応えるように清光が「ん〜〜」身じろいだ。髪の毛が太腿を掠めて非常に擽ったい。


「それより鶴さんと主はどこに行ってたんだい?」


バリでは有名だというワインを持つ光忠はとても様になっている。口に含むと一息に嚥下し、隣でビールを飲む鶴丸に問いかけていた。いやビール!似合わな!
彼がなんと答えるのかがシンプルに気になったのでその様子を見守っていれば、鶴丸は表情を一切変えることなく「それは……いけないところだ」と口にした。ブフッと私は噎せた。咀嚼中だった鶏の唐揚げが喉で暴れている。慌てて近くにあった水らしきグラスを手に取り、無理矢理唐揚げを流し込んだ。いや、何言ってんのあの鶴!いけないところってどういうことだ、あまりにも誤解を招く言い方すぎる!予想通り光忠はピシッと青筋を立て、作られた笑顔のまま低い声を出す。

「鶴さん、僕怒るよ?」
「まあ待て光坊」
「待たないよ。怒っていい?」
「ま、待てと言っている!違うんだ、いけないところというのはだな、」
「そんなに焦らなくてもいいよ、ちゃんと怒ってるあげるから」
「待て、俺は、むぐっ」

光忠がただならぬ様子で鶴丸に詰め寄り、床に置いてある日本酒瓶を口に突っ込んだ。ひえっ。苦しそうに抵抗する鶴丸だが、今回ばかりは酒の席ということもあってか光忠の方が優勢である。バシバシと床を叩き降参サインを出すものの、ニコニコと笑う光忠は止める気は無いらしく、問答無用の日本酒一気を強要していた。……キッツ〜!!私はあまりに可哀想すぎて静かに合掌する。でもね、鶴丸。それが自業自得っていうんだよ。私は止めない。靴下の裏めっちゃ汚れたんだからねの刑だ。

私はソッと視線を外し、残りの唐揚げに箸を伸ばした。少人数にして良かった。これで皆がいたら、特に酒飲みの数振りがいれば、もうハメを外しすぎて絶対に収集がつかなかっただろうな。もう一度先程のグラスを手に取り、ゴクゴクと飲み干す。

「……ひっく」

あれ、なんだかちょっとフラフラしてきたかもしれない。このアルコール臭がむんむんと漂う空気に当てられたんだろうか。しかし隣で未だ清光を引き剥がそうと奮闘していた乱ちゃんが「アッ」と声を漏らし、直後にぎょっとした顔で私の顔を覗き込む。

「あるじさん……」
「ん?なあに、乱」
「今のやつ……うわ、全部飲んでる!」
「ん?これ?これはお水だよ〜」
「ううん、あるじさん」
「ん〜?」
「それね、確か……うぉっかってお酒だよ」
「へ?」

加州がいっぱい飲んで、潰れたやつ……。乱の声が何重にも木霊して、目の前がグワンと揺れる。あ、駄目だ、視界が揺れて──。お酒が強くない私の意識が反転するのは、あまりに容易いことだった。パタ、と清光に重なるように首が落ちて、口で荒く息をする。


「あ〜〜もう、気づかなかった……ごめんね、あるじさん」


乱の申し訳なさそうな声が頭上で響くが、くるくると回る視界が気持ち悪い。私はそのまま目を閉じ、蕩ける思考の波に流されるのだった。

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