手紙の向こう側の名も知らぬ誰かに恋をした。
このことを仲のいい文官さんに言ってみたら少し残念そうな顔をされてしまったけれど、私は至って本気であるし、この感情は恋愛のそれだと理解しているつもりでいる。事の発端は、誰も来ないような書庫で落ちていた誰かの羽ペンをメモ付きで近くの棚に置いてあげたことから。後日、暫くして本を返しにいったら、なんと同じ場所に"拾ってくれた方へ"とメモが置いてあった。それだけ。ただそれだけ。そのまま放置していれば何もなかったのかもしれない。そのまま礼儀正しい人なんだと思っていれば、何も変わらなかったのかもしれない。だけど私は、どうしてかあの綺麗な羽ペンの持ち主が気になって仕方がなかった。私は大した地位でも何でもないから、たまに来る書類整理の時や休憩にしか書庫には顔を出せないけれど、こっそりと返事をして次の日に覗いてみたら返事が置いてあった。
どうやら、手紙の相手はよく書庫を使う方らしい。真面目な方なのか暇な方なのか、手紙の向こう側の人物は綺麗な文字できちんと返事をしてくれる。そのことが私は素直に嬉しかったし、何よりその人は博識で、色んなことを知ってた。外の世界のこと、他の国のこと、珍しい食べ物のこと、上司が仕事をしないこと。初めはお礼だけだったやり取りもいつしか世間話へと方向を変えて、今じゃあ今日あったことだとか愚痴だとか、本当に何でも話せる相手になってきたし、手紙の向こうの人のことも大体は分かってきた。でも誰にもこの喜びとドキドキは教えてあげない。手紙の相手が男性だとは限らないし、むしろ綺麗な文字を書くくらいなのだから、女性なのかもしれない。
でも、それでもいい。
女の子なら、女の子でいい。
このやりとりは、誰にも渡さない私だけの楽しみなんだから。
空を見上げると、瑠璃色の空の中にポツポツと星が浮かんでいた。春になるのを待ちわびいるように、仄かに温かみを帯びた風が髪をさらう。今日も、私は小さな羊皮紙を握りしめて書庫へと向かうのだ。手紙の向こう側の人と会えるかと、小さな期待を膨らませながら。


「……名前?」
「え?あ、ジ、ジャーファル様!お疲れ様です!」
「ええ、ありがとうございます。それよりこの先には書庫しかありませんが……」
「し、資料を取りたくて、その…っ」
「あまり仕事を頑張りすぎてはいけませんよ」


柔らかくも有無を言わせない物言いに肩を落として小さく頷く。こんなところでジャーファル様に会ってしまうだなんて誤算中の誤算だ。静かに頭を下げて彼が通り過ぎるのを待つが、中々目の前にいる気配は動こうとしない。不審に思いながらも早く手紙を書庫に置いて行きたい一心で、グッと耐える。それでもジャーファル様は動こうとしない。もしかしたら、あたしが鈍いからもうこの場を去っているのかもしれないとも思ったが、チラリと視線だけを前にすると細く月明かりに照らされた足首とが視界に入ってドキリとした。背中に感じる視線が少しこそばゆい。「名前、顔を上げなさい」そんな言葉と共に肩に乗せられた手は、布越しでも伝わってくるほどヒンヤリとしていた。言われたとおり、おどおどと顔をあげればニコリと綺麗な笑顔を作るジャーファル様。今宵は冷えるそうです。早く自分の部屋にお戻りなさい。優しく宥めるように紡がれたそれがジャーファル様のお気遣いなのだと理解するのに、3秒ほど時間がかかった。「さあ、」なんて催促するジャーファル様相手に、普段なら笑顔でお礼を言って戻るところだが、今日ばかりはそうもいかない。横目で空を見れば、煌びやかに夜を照らす三日月。ほんの少しだけ戻ってしまおうか。ふとそんな気持ちになったが、慌てて内心首を振って考えを打ち消す。
今日は、ダメだ。今日だけは、ダメなんだ。ジャーファル様でも、シンドバット様でも神様でも、こればっかりは譲れない。


「あの、ジャーファル様……お気遣い心から感謝いたします…しかし、少しばかり外せない用事がありまして……」
「外せない用事?」
「いえ、それほど大事なことではないんですけど、それでもやっぱり大事と言いますか……その……」
「それほど大事な?」
「はい、大事なのです。今日は、今日ばかりは、本当に本当に大事な日なのです」
「……そうですか。それにしてもこの時間に貴方一人では危なっかしい」


少し悩むように口元に指を寄せると、ジャーファル様は何かを思いついたかのように「私も同行します」と口にした。「え゛…!」と目を見開く私に、ジャーファル様はまた一つ綺麗な笑みを作る。


「だ、大丈夫ですジャーファル様!ここは城の中です、危なっかしいだなんてそんな……!」
「ここで偶然会ったのも何かの縁です。付き合わせてください」
「うう……ジャーファル様……この羊皮紙を置くだけですよ?」
「ならすぐに終わりますね。早く書庫に入ってしまいましょう」


なんてことだ。ジャーファル様はそう言うとクルリと反転して、後ろの書庫の鍵をカチャリと回す。ああ……まさか、こんなことがあるなんて。ギュッと薄い羊皮紙を握りしめる手に力がかかった。ゆっくりと前に持ってきて半分に折り曲げたそれを開くと、"貴方の事をお慕いもうしております"の文字。改めて認識すると、心臓が今までよりも大きく鳴るのが分かった。今日、私は手紙の向こう側の人へ、想いを伝えるはずだったのだ。それはもちろん手紙でだけれど。女性が男性かも分からない、名前も分からない、だからこそ余計に一人で一部始終を終えたかったのに。ここでジャーファル様に手紙のやりとりをしているのがバレてしまったら、もうやりとりは出来なくなる上に私が想いを告げた中途半端な流れで終わってしまう。それだけは嫌だ、絶対に。


「名前?入らないのですか?」
「あ、いや、えっと……入ります……」
「今日の名前は少し挙動不審ですね」
「きょ、挙動不審ですか?それは困ります…あの方は冷静沈着な人が好きなのに…」
「あの方?」
「へ、あ!ごめんなさい!気にしないでください!」


何を口走ってるんだろう、わたし。無性に恥ずかしくなって、此方を見つめるジャーファル様の横を急いですり抜ける。失礼だと分かっていながらも、今の状態で彼と一対一で向かい合ってまともな会話ができる自信がなかった。カアッと熱くなる頬を手の甲で隠しながら早足で中へと入る。もうさっさと置いてしまおう。バレないくらい早く、ジャーファル様がこちらを向く前に。

「あ、」

しかし、どうやら現実はそう上手くはいかないらしい。ふわりと一瞬の浮遊感が全身に襲ったと思えば、あっという間に茶色がかった床が迫ってくる。三つ折りに握りしめていたはずの羊皮紙が手元から離れていくのが分かった。蝶のようにハラハラと余裕を持って揺れるそれは、手を伸ばしても逃げるように宙を浮遊する。ああ、と思ったと同時に視界に現れた色白の腕は、期待を裏切ることなく軽やかにキャッチする。それを見届けたあと、私は一気に加速し、そのまま重力に従って床へと倒れこんだ。


「いっ……た……、くない?」
「はあ。いくら非戦闘員とはいえ、この程度の段差で躓くなんて情けないですね」
「……へ?ご、ごめんなさい」
「それに簡単に投げ出してしまうなんて。これは死ぬまで離さないよう心がけなさい」
「え、あ、はい。すみません、えっと…その、いや、」


……ジャーファルさん?パチパチと、現状を理解するのに瞬き数十回分もの時間を要した。何度仕切られた視界でジャーファルさんを捉えてみても、薄明かりに照らされる彼の行動は変わらない。羊皮紙を丁寧に広げ長いまつ毛を伏せる姿は、夜のシンドリアに相応しいと思えた。煌びやかに、白銀の髪が揺れる。


「ジ、ジャ、ジャーファル様…あの、その…手紙…」
「名前の挙動不審の原因はコレだったのですね」
「み、たのですか…?」


体の底から熱い何かがこみ上げてくる。灼熱の石が体の中で燃えているような気がした。告白するつもりだったのに、やっと、伝えられるはずだったのに。形にならない思いは潤いの膜となって視界を滲ませる。翡翠のように青白く輝く月が、少し憎らしく笑った気がした。ああ、情けない。こんな恋文ひとつ、見られても堂々と胸を張れるような人間だったらよかったのに。私は想いを伝えられる勇気ある人なのよ、そう言って顔を上げられるような人間だったらよかったのに。私はまるで真反対で正反対で、対極に位置されてしまう存在に違いなかった。やけに、視界が揺れている。ゆらゆらとジャーファルさんの手が近付くのが見えた。


「名前は今日想いを伝えるつもりだったのですね」
「……言わないでください」
「申し訳ありませんがこの手紙は捨てさせていただきますね」
「え?……あっ、やめ!」


ビリリ。波のような亀裂が一瞬にして終わりまで到達する。なくなってしまった。ジャーファル様の手によって。あたしの想いが、破られてしまった。なおもビリビリと慣れたように破くそれは、いらない書類を処分する執務姿と何も変わらない。唖然と宙を舞う紙切れに手を伸ばす。ああ、これはあたしの書いた字だ。昨日の夜、慣れない恋心を働かせて書いた、私の字だ。僅かな桃色の期待を寄せて書いた、私の、字だ。


「ジャー、ファル様…これは…」
「必要ないと思いましたので処分させていただきました。清掃はまた後ほど使いのものにさせますので」
「そ、そういうことじゃないです……!い、くらジャーファル様でも、これは……こんなことって…!」


頭が回らない。舌が回らない。ーーまた、書き直せばいい。新しくもっと綺麗な羊皮紙を見つけて、もう一度書き直せばいい。それだけだ、それだけなのに。「……っ」だけど、それ以上に別のショックを受けている自分がいた。喉の奥からわき上がる嗚咽を噛み殺す。情けなく涙を流すあたしを、ジャーファル様は一体どんな目で見ているのだろうか。


「……少し誤解が生まれているようですね」
「誤解もなにもないです…!」
「文で伝える必要はもうないということです」
「……どう、いう」
「今ここで直接会っているというのにわざわざ紙を使う必要などない、そういうことですよ」


恐る恐る顔を上げれば、月夜を背に口元を綻ばせるジャーファル様が私を真っ直ぐに見つめていた。どういうことですか、それは、それはもしかして、まさか。


「やっとですね、名前」
「…っま、まって」
「先ほどの恋文の続きを、教えてください」


笑った瞳はやけに優しくて、行き場のない想いだけが一粒の雫となって頬を伝った。

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