「今から、久しぶりに不二君のお母さんとお茶飲みにいくんだけどあんたも来る?」


夜遅く、買い物袋をガサガサと揺らしながらお母さんはコテンと首を傾けた。
それをちらりと横目で見て、やりかけのゲームを再開する。お茶飲むって、つまりお酒飲みにいくってことでしょーが。内心そう吐き捨てながら「あたしなんかが行ってもする事ないじゃん」と返せば、お母さんはふふっと笑った。いきなり笑い始めたお母さんが気持ち悪くて、わざとらしくソファーの端へと移動する。

こういうのにはあまり関わらない方がいい。

長年の勘というものが働いたのか働いていないのか、外したヘッドフォンをもう一度耳に当てる。途端に流れる音楽と世界と遮断されたような感覚に、やっぱりあたしにはこっちの方が何倍も楽しいやと再確認。お母さんが笑い出した理由なんてもうどうでもよくなって、ゴロンと仰向けに転がった。いつもなら勝手に飲みに行くくせに。そう考えながらカチカチとゲーム攻略に勤しむあたし。ヘッドフォン越しに何やらお母さんがあたしに言っているのが分かったけど、敢えての無視。日頃から常習犯である。

暫くして聞こえなくなった声に少しの優越感。そして沈黙。いつからこんな生活になったのだろうか。ここ1年程で随分と残念になった自分を思い返して、ふと溜め息を吐く。画面の向こう側にいる金髪猫耳のイケメン。そのには2つの選択肢とコマンド。告白するか、キスするか。確かこいつは攻める方に弱いんだっけ。少し悩んだあと、迷わずキスする、を選択。
‥‥攻略、成功。ほんと単純。


「あーあ」


なんか萎えた。キラキラと光る祝福の文字も今はなんか目に痛い。それを増幅させるように耳へと流れる音楽も今はなんか鬱陶しい。よく分からない苛立ちに追われて、セーブもしないまま電源オフ。ヘッドフォンも外して近くの椅子に投げる。なんだこれ。


「‥‥はああ」


ゴロンと体勢を変えて腕に顔を擦りつけた。その時何故か脳裏にお母さんのあの笑った顔が浮かんで、余計イライラ。あーもう!ガバッと勢いよく立ち上がって玄関を睨めば、


「鍵閉めてないし!」


そう怒鳴るように愚痴っても寂しい家に響くだけ。グッと一瞬目を細めて、近くにあった脱ぎかけのスリッパに足を突っ込む。ずかずかともしかしたらお隣さんに迷惑かもしれない歩き方で玄関へと足を進める。途中で鼻をかもうとティッシュペーパーを探していたら切れていたので、なんかもう凄くイライラした。むしゃくしゃしたからとりあえずゴミ箱を蹴っておいた。そのまま床を傷つけるような勢いで玄関の鍵へと手を伸ばす。お母さんインターン鳴らしても開けてあげないからな。

すると、ガチャリ。

触れていたはずのドアが開いて、隙間から冷たい風が流れ込む。そんな一瞬の出来事に頭は体についていかない。へ?と声を上げてその先を目で確認する前に、伸ばしていた腕を思い切り掴まれて前のめりに体が傾いた。痛いとか感じる以前に、何が起きているのか自分では分からなくて。引っ張られた体が何かに後ろから抱え込まれるような形で動きを封じられる。悲鳴を上げようと口を開けばグッと力強い手が押しつけられた。

な、にこれ‥‥‥っ。

ドクドクと唐突に早くなる鼓動が全身に響く。
時間差で襲ってくる恐怖に思わず膝が震えて視界が滲んだ。耳元で聞こえる微かな吐息さえも、今は全てが恐怖へと転換されていく。


「‥‥声、出さないように」


ダイレクトに伝わる低めの声に勢いよく首を縦に振った。
何でこんなことに‥‥っ。そんな事を考える余裕さえないほど頭の中はパニック状態で。だから腰に当てられた手がゆっくりと下に下がってくるのに気づいたのは、ショートパンツから伸びる太ももに触れる一歩前だった。慌てて抵抗しようと体を動かすが、ガッチリと拘束されているためか中々思い通りに動かない。その間にも手は徐々に下がる。目尻に溜まる涙も拭えぬまま、これから起こるであろう展開にギュッと目を閉じた、その時だった。


「‥‥なーんてね」
「へ?」


耳元で囁かれた言葉と同時に、掴まれていた腕の力が弱まる。グルリと反転させられたあたしの目に映ったのは、クスクスと笑いを堪える事もしない、


「ふ、じ?」


だった。何年ぶりかも分からない再開を前に、唖然と目の前の彼を見つめる。どういう、こと?言いたい事は山ほどあるはずなのに何故か言葉にならない。口をパクパクと開け閉めしていれば、不二らしき彼はやっとあたしと向かい合った。それでも口元の笑みは消えないまま。


「やあ久しぶりだね」
「‥‥へ、あ、‥‥不二?」
「うん」
「は?‥‥どういう、よく分か、んない」
「君は相変わらず無防備だったよ」


噛み合わない会話に混乱しつつ、回らない頭をフル回転させて事態をのみ込む。つまり、えっと、あたしに変態紛いの事をしてたのは‥‥不二?たどり着いた結論はあまりにも呆気ない。行き場の失った恐怖とか緊張とかもう何もかもがじわじわと戻ってくる。楽しそうにあたしを見る不二を視界に入れた瞬間、それは爆発した。


「‥‥ふ‥‥っ」


ポロポロと流れ落ちる雫。
自分でも止めることの出来ないそれは拭っても拭っても溢れて袖を濡らす。ぼんやりとしか視認出来ない不二は困惑しているのか、普段閉じている瞳を開けて真っ直ぐとあたしを見ていた。子供でもないのに大泣きするなんてみっともない。しかも久しぶりに会った幼なじみの前で大号泣なんて恥ずかしすぎて死ねる。分かっていても止まらない涙は、どうしてか今までの鬱憤を全部含んでいるようにも思えた。徐々に嗚咽まで混じりだしたのだから堪らない。こうなってしまえば息苦しくて目の前にいる不二に、意識を向けることすら出来なくなる。


「そんなに怖かった?」
「‥‥ふっ、こわ、かっ‥‥ぁっ」
「参ったな‥‥こんな泣き顔見せられたら」


こんな泣き顔って分かってるけど酷い。
反論しようにも体の底から込み上がってくる何かに邪魔されて、喉でつっかえる。出るのは言葉にならない嗚咽だけ。堪らず両手で顔を覆った。一度来た波が収まるのにどれだけ時間がかかるかは分からないのだから、少しでも顔は隠した方が良い。すると、唐突に指の隙間から見える不二の靴が動いた。数秒後に感じたのは全身を包まれる温かい体温。キツく背中と後頭部に回るものが不二の腕だと分かったのは、頬に当たる柔らかな髪だった。抱き締められている。
その状況に素直に従えるわけがなく、本日二度目の抵抗を試みるが、簡単に抜け出せるわけもなかった。けど、不思議と嫌な感じはしない。それを助長するかのように、一定のリズムで叩かれる背中。


「っ」


いつまで泣いていたのだろう。
涙と嗚咽のダブル攻撃の波も落ち着き、目から溢れる涙もやっと止まった。そして問題となってくるのは、この状況である。恐らく10分以上はずっとこの体勢だったということで、体を預けているあたしは良いのだが、支えている側の不二の事を考えていなかった。背中は未だにぽんぽんとリズムを刻んでいるし、思い返すと恥ずかしいやら情けないやら、今度は違う意味で頭が沸騰しそうになる。とりあえず「ふ、じ」と渇いた喉で声を出してみた。予想より遥かに小さな自分の声に内心驚きながらも、背中に回る腕の力はふわりと無くなる。ピタリと密着していた体が離れ、赤くなっているであろうあたしの目に映るのは申し訳なさそうに眉を下げる不二の顔。
そんな顔するならしなかったら良いのに。そう思いながらも言葉にしないのは、昔からの幼なじみに少なからず苛立っているからだ。この際、ずっと謝らせてやる。このいかにもモテますオーラを出すこいつに、女は怖いということを教えてやらねば。


「悪かったよ」
「‥‥最悪」
「ごめん。でもラッキーだな」
「は?」


皆さん聞きましたか。この男の言葉を聞きましたか。


「‥‥不二、あんたって」
「今日はエイプリルフールだろう?」
「エイプリルフール?」
「そう。だから悪戯してみたんだけど、予想以上に良い反応だったから」
「だから、ラッキー?」
「うん」


今日1日の記憶を辿ってみると、確かに学校で嘘をつきまくって一時的な人間不信に陥ったような気がする。4月1日。エイプリルフールで間違いはない。

間違いは、ない、‥‥けどこらちょっと待て。

プルプルと震え出す肩に、不二が不思議そうに顔を覗き込む。薄く開いた不二の目と視線が絡み合った瞬間、ギロリと思い切り睨んだ。同時にカラカラの口を大きく開く。


「っ馬鹿!?エイプリルフールは嘘をついて良い日であって悪戯していい日じゃないの!」
「へえ、そうなんだ」
「そうなんだじゃない!大体エイプリルフールは午前で終了!馬鹿じゃない!?ほら、さっさと帰れ!さいっあく!」


深夜の住宅街はあまりにも静かだ。そんな中、こんな怒鳴り声を出せば迷惑になることくらい頭では分かってる。でも止まらない。さっき涙と嗚咽が止まらなかったように、今度は怒りが止まらないのだ。人を泣かせといてこいつ!


「それは困るよ」
「はあ!?」
「君のおばさんに言われたんだ。名前が心配だから、帰るまで一緒にいてやってくれって」
「‥‥あ?」


にっこり、あたしの怒りなど痛くもないというように交わす不二は、おもむろにポケットに手を突っ込んだ。やがて出てきたのは鍵。って‥‥え?うちの鍵?「ね?」と可愛らしく首を横に傾げる不二を唖然と見つめていれば、彼はさぞ当たり前のようにあたしの腕を掴んでドアへと向かおうとする。ハッと慌てて意識を戻して抵抗すると、


「いや、ね?って言われても知らんし帰って」
「うん」


返ってきたのは肯定の返事。それにホッとしているのもつかの間、何故か彼は動きを止めていないのだ。あろうことかガチャリとドアを開いてさえいる。堂々と人の家に入る不二と引きずられるあたし。何だこのビジュアル。しかし、そんな思いも靴を脱ぎ始める不二の近くに転がるゴミ箱を見て、一気に吹き飛んだ。‥‥ちょっと待て。そういえばリビングにはあたしのゲームが大量にあるではなかてだろうか。ていうかフィギュアとか置きっぱなしじゃなかったっけ。むしろ飾ってた気がするしおつまみの袋も食べ掛けのまま放置だったような気がしないでもない。

‥‥‥。

サーッと体温が下がっていく感覚。肌寒いはずなのに背筋にタラリと流れるのは決して冷や汗なんかではないと信じたいだけですごめんなさい。


「ああああ!ストップまじでストップ!」
「どうして?見られたくないものでもあるの?」
「そそ、そう!そうなの!だからほんと謝るからごめんそれ以上進まないで!」


さっきまでの優位はどこへ行ったのか。カムバック、優位!
必死に不二の腕をグイグイと引っ張るものの、無駄に筋肉のついたそれはびくともしない。ぎゃぁぁ!と内心叫びながら慌てふためるあたしに振り返った不二はというと、それはそれは綺麗な笑顔でクスリと笑っておりまして。ゆっくりと視線を下に下げると、そこには不規則に脱がれた靴。そしてあたしは、もちろん裸足。二度目のピンチはすぐ目の前である。


「‥‥え、ちょ、ほんとやめてまじやめて」
「うん。嘘だけど」
「ストップストップストップ!ほんとやめて引きずらないでお願いだから!」
「そんなに進んでほしいの?仕方ないな、進むよ」
「やめてぇぇぇ!」



1つ、叫ぶような泣き声が、町中ではなく深夜の家中に木霊した。



悪戯はいけません
(へえ、名前ってヲタクなんだ)
(ぎゃぁぁ!それは田中さんの同人誌ぃぃ!)
(ふーん、あ。これは、)
(ちょ、ちょちょ、それは駄目!ほんと駄目!何でもするから見ないでお願いしますぅぅ!)
(じゃあキスして?)
(は!?)
(嘘だよ)
(ぎゃああああああ!)

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