「‥‥名字っちも何であんな恋するんスかねぇ」
「‥‥‥」
「ん?桃井っち?」
「‥‥バカッ」
「いでっ!何するんスか!?」


もうほんと馬鹿最低馬鹿馬鹿馬鹿。
ぶつぶつと独り言なのかもよく分からない言葉を発しながら、桃井はじわりと目元を潤わせた。ぎゅっとスカートに皺をつけて何かを耐えるように体を縮ませる。それを見てギョッと目を見開くのは黄瀬の方で、何故泣いてるのか分からない桃井を前にあたふたと立ち上がる。これは自分が泣かせたのか。女心というものを全く理解していない黄瀬は自分の発言にどこか問題でもあったのかと首を捻ったが、いやいや、やはり桃井を泣かせるような内容ではない。何より最低と言われる理由も分からない。とりあえず膝の間に顔を埋める桃井の背中を撫でようかとそろりと手を伸ばせば、ベチンと漫画を思わせる効果音付きで払い除けられたため黄瀬は手の甲を擦った。
そろそろ周りの目がキツイ。言わずとも、桃井はバスケ部のマネージャーとして有名であるし、黄瀬も黄瀬で有名モデルである。珍しい組み合わせに先程から好奇の目は感じていたが、こうなってしまっては好奇の目どころではすまされない。黄瀬が桃井を泣かせたという噂が流れれば、面倒くさいこと間違い無しである。
あまり勘というものは便りにしない黄瀬だが、今回だけは安易に想像できてしまった。何より我がバスケ部の部長の耳に入るのが一番心配な点だったりもする。


「桃井っち!お願いッスから泣かないでほしいッス!」
「‥‥‥」
「桃井っち?」
「‥‥だって名前ちゃんがあまりにも可哀想だ、よ‥‥っ」
「‥‥それは、」
「大、ちゃん‥‥は、また同じことを‥‥っ!」


それ以降、桃井は口を開かなかった。桃井の涙の理由も分かった黄瀬も、気まずそうに口を閉じる。廊下の窓から注ぐオレンジ色の太陽は、今の二人の空気とは中々調和することはなく。ガラスにヒビが入ったような、斬れるはずのない水を真っ二つに切断したような、言い表しがたい複雑な空気。
ヒソヒソと話をする生徒にカシャリと写真を撮る生徒逹を横目で眺め、噂になることを半ば諦めた黄瀬は静かにその場に座り直した。ひんやりとした石の冷たさがより黄瀬の心をざわめかす。


「‥‥言いにくいッスけど、」
「‥‥‥」
「名字っち逹が決めたことなら俺達はそれを認めるしかないじゃないんスか?」
「‥‥‥」
「俺は‥‥そう思うッス」


嘘だ。本当はそんなこと思ってなどいない。黄瀬はぼんやりと思考の鈍っている頭で考えながら内心自分を笑った。それでも口から溢れる言葉は気持ちに反したものばかり。


「‥‥うるさい最低男」
「なんかキャラ違うッス」
「‥‥‥」
「俺達は待つしかないんスよ」
「‥‥‥」
「俺達は、何にも出来ない」


そう言い終えると同時に桃井はガバッと勢いよく顔を上げた。流れるよな動きで黄瀬の胸元に掴みかかる。突然の事に驚いた黄瀬はバランスを崩して階段に背中をぶつけた。しかし所詮は女の力であるため持ち上がることもなく、半ば押し倒すような形で止まっている。零れ落ちはしないものの、視界が滲む桃井はやはり――泣いていた。
まさかここまで変わるとは思っていなかった黄瀬は、唖然と息を飲む。ゆらり、廊下の角に影が映った。


「‥‥ど、してそんなこと言うの‥っ。名前ちゃん‥‥は、本気で大ちゃんのことを、」


ガタン。遮るように鳴らされた音に振り返れば、そこにいたのはどこか寂しそうにこちらを見つめている名前だった。足元に落ちる鞄はきっと##NAME1##のもので間違いないだろう。二人と視線が絡み合った名前は、ぎこちなく笑った。桃井はその笑みを見て、更に顔を歪ませる。
どうして笑うの。泣いてよ。素顔見せてよ。そう言いたくても名前の儚く笑うその姿が、後一歩のところで言葉を漏らせない。
「‥‥ごめ‥、んね」掠れた声でそう一言呟いた名前は、震える手で鞄を掴むと二人に背を向けた。止める間もなく走り出した名前に、桃井はグッと唇を噛む。追いかけたい。今すぐにでも追いかけて抱きしめてやりたい。でも――、私じゃ無理。


「きーちゃん」
「‥‥何スか?」
「名前を、追いかけてあげて。私じゃ‥‥きっと駄目だから。抱きしめてあげて」


そっと背中を弱々しく押した。僅かな力を背に感じた黄瀬は、フッと口角を上げて「言われなくても」と名前の後を駆け足で追い掛ける。1人残された桃井は目元を両手で覆うと、自分の無力感を噛み締めながら愛しい親友を脳裏に思い浮かべた。決して自分の前では弱音を吐いたことがない名前。いつも周りを最優先にする名前。何事も全てが一途な名前。


「‥‥ばか」


指の隙間から流れ落ちた一筋の泪は、キラリと弾けて大理石の階段を濡らした。






「名字っち!」
「‥‥黄瀬、くん」


ふらふらと頼りない足取りで歩く名前の肩を掴んだのは、少し息の上がっている黄瀬だった。無表情だった名前は、やがて必死に筋肉を動かして笑みを作る。でも笑ってない。笑えていない。どうしたの?そう尋ねてくる名前の唇が僅かに震えているのも、目元が赤くなっているのも、その全てが黄瀬の心を掻き乱すには十分だった。


「‥‥名字っち」
「さつきと一緒にいなかった?」
「え?」
「大丈夫?さつき1人ぼっちじゃない?」


早く戻ってあげて。そう言って笑う名前があまりにも寂しそうで。迂闊に触れてしまえば呆気なく消えてしまいそうで。
黄瀬は伸ばしかけていた腕をどうしたらいいのか分からずにいた。中途半端に伸びた手は何かを掴む事もなくただただ宙をさ迷っているだけ。口を開こうとしてもどの言葉をかけたら良いのか分からない。どうすれば名前を傷つけずに慰める方法が分からない。今ほど女心の分からない事が苦に思えたことはなかった。
いざというときに役に立たない自分を悔やんでいれば、それを察した名前は「なんか‥‥ごめんね」と眉を下げる。名前だって黄瀬の性格ぐらい大まかには分かっているつもりだ。今どれほど心の中で葛藤を繰り広げているかということも、桃井と分かり合った上で自分を追いかけてきていることも。全てを理解した上でなお、#name1は「帰ってあげて」と笑みを作る。


「嫌ッス」
「‥‥どうして?」
「このまま帰ったら名字っちがそのまま消えちゃいそうな気がするから」
「そんな消えるだなんて」
「笑ってもいいッス。でも俺は、自分が大丈夫だと思うまで名字っちの傍から離れないんで」


今度こそ、何かを掴むわけでもなかった手は名前の腕に触れた。そのまま強く引っ張ると、大した抵抗も無くただただ黄瀬と向かい合う。照れた様子もない名前は、何も感じないというよりも意識をどこか違う所へ飛ばしているようにも見えた。まるで力というものが入っていない。掴んだ腕も、少し力んだだけで折れてしまいそうなほど細かった。


「黄瀬くん」
「‥‥何スか」
「あたしさぁ、駄目かも」
「‥‥‥話してみて」
「知らないよ?あたし、その優しさに甘ちゃうよ?」
「大丈夫ッスから」
「あたしね、今まで見ないようにしてきたけど今回は本物だった。完全な拒絶」
「‥‥青峰っちは、」
「分かってるよ。ファンの子達から守るためでしょ?」
「‥‥‥」
「分かってる。理解してる。分かってるけど、分かって、る‥‥け、ど‥‥っ」
「‥‥‥」
「やっ、ぱり‥‥つら、いん、だ‥‥っ!」


名前が目の当たりにしたのは完全な拒絶。近寄ろうとすれば避けられ、メールをすればアドレスが変更され、待ち伏せをすれば面倒くさげに「消えろ」の一言。
今まで何度も二人の喧嘩を近くで見てきた桃井も今回は眉をしかめていた。ただの喧嘩の割にはあまりにも青峰の態度がキツすぎる。しかし、本気で嫌っているのかと思えば、名前が笑っているる時を見る目が優しすぎる。そして桃井は察した。ああ、また同じ過ちを繰り返すのかと。


「‥‥今日ね、別れようって‥‥いわれ、て」
「‥‥‥」
「分かってるんだけどね、分かってるんだけど」
「名字っち」
「新しい相手見つけろよって‥‥無責任すぎるよね」


何かが外れたようにポロポロと涙が零れた。拭うこともせず、ただただ重力に従って地へと落ちる。もう、何もかも限界だった。あれ。恋って、こんなに辛かったっけ?自分に問いかけてみても答えはない。あるのは確かな涙だけ。


「青峰っちとは話したッスか?」
「‥‥ううん。違う。未練はもうない」
「じゃあ、」
「あたしも分からない。ただ‥‥苦しいなって」


キリキリと黄瀬は奥歯を噛む。抱き締めたい。今すぐに強く強くこの胸に押しつけて息が出来ないくらい自分でいっぱいにしたい。それが出来ないのは、自分を見つめていた視線が一瞬ずれたから。その先にあったのは、蒼い髪のあいつだったから。


「俺はいつでも待ってるッスよ」
「‥‥え?」
「名字っちからあいつが消えるまでずっとずっと」
「‥‥黄瀬く、ん?」
「その時が来るまでは、まだ青峰っちが好きでも大丈夫スから」
「‥‥っずるい」
「ただ、その時が来たら――」


無理矢理にでも俺のものにするから、覚悟しといてほしいッス。
そう言って頭を撫でたのは純粋な自分の気持ちか。それとも窓ガラスに映る複雑な顔をしたあいつか。


「遠慮なんてしないッスから。例え裏にどんな理由があろうとも、俺は譲らないッス」


そう言った後もう一度窓を見る。苦しそうな顔をしていた。あいつも、俺自身も。



全て叶うまで一体どれほどの時間が必要なのだろう

/top
ALICE+