「あー、駄目だ。もうめちゃくちゃにしてやりたいよ」

苛々が限界まで濃縮されたような声が、まるで風に乗るように私の耳へ届いた。ビクリと肩が震えたが、どうする術を持たない私は、ただふるふると首を振るしかなかった。私だってこんなこと、したくなかったけれど。"いいこと教えてやろうか"血を見ているような赤い瞳を煌めかせて笑ったジュダルの顔が、ふと脳裏に浮かんでは消える。彼の言ういいこと、がまさかこんなことだったなんて。
まるで人生でこれから起きる屈辱を全て一身に浴びせられているようだった。後悔しかないし、ホイホイと着いていった過去の自分にも叱咤してやりたい。なんて惨めなんだろう。「紅覇様……っ」口から漏れた声は、やがて空気に消えるように吸い込まれていく。


「僕もね?別に困らせたいわけじゃなかったし、これから先ゆっくりとこなして行こうって思ってんけどねえ」
「あの、紅覇様、」
「気が変わっちゃった」
「いっ…!」


グリグリと、馬乗りになった状態で彼は包帯の巻かれた場所をわざとらしく押さえつける。故意的に圧迫される傷跡からは血が滲んで、真新しい傷は塞がるどころか悪化するだけだった。どれだけ顔を歪ませても、紅覇様は笑うだけ。薄紅色の瞳の奥には、炎の形をした龍でも暴れている気さえするほどに、酷く情を持って揺れていた。
怒っている。
どう見ても。
どう考えても。どう受け取ったって。
紅覇様は、怒っているのだ、私に。
あたしがした行動に。
私のしようとした行為に。
珍しく取り乱してしまうくらいに、彼は。
そう考えれば考えるほど心臓が何かに鷲掴みされているような感覚に陥った。今にも握りつぶされてしまいそうだった。その時、グチリ。耳を塞ぎたくなる音を鳴らして、私の太ももは感覚を失うほどの激痛に追われる。紅覇様の膝がちょうど当たるところで。白く柔らかい生地の服が、血を吸い込んで赤く彩られていく。ああ、本当に、潰されそうだ。

「ぁ…っ!紅覇様…!」やめて、といくら言っても紅覇様は中断しようとする仕草さえ見せない。
それどころか、怒りをぶつけるように、私を傷つけては笑うのだ。怖い。恐ろしい。逃げたい。そんな言葉ばかりが頭の中で錯乱していた。


「さっきの言ったことさぁ…もう一回言ってみてよ」
「……さっき、って…」
「僕を怒らせた決定的な言葉だよ。自覚がないわけじゃないでしょぉ?」
「そ、んな…」
「言えってば」


有無を言わさないような口調と共に、耳元でガリッとした音がダイレクトに脳内に響く。時間差でやってきた焼けるような首筋の痛みと近づく紅覇様の顔に、ああ、噛まれたのかと理解する。痛かった。どうしようもなく、どこが痛いのか麻痺してくるくらいに、全身が痛みに悲鳴を上げていた。どれくらい、こうしているのだろう。時間が過ぎるのが恐ろしく遅く感じて、不覚にも泣いてしまいそうになる。紅覇様がここまで変わってしまったのは自分のせいだというのに、それでも彼を怖いと思ってしまう。震えで上手く開かない口を必死に動かして「ジュ、ダル神官殿と…、」と小刻みに揺れる声を出せば、言えと言ったはずの本人は憎しげに眉間にシワを寄せる。

その表情は今の私にとって、踏み潰された蝶を見るよりも目を塞ぎたくなるものだった。また一層、体が強張る。さながらそれは、百獣の王にひれ伏す草食動物と酷似していた。
逃げようとする気さえ失せるほど。
逃げることすら不憫だと思えるほど。
このまま、いっそ。


「ジュダルくんにやれって言われて、それで簡単に身を任せちゃったの?君は誰のものだっけ?誰に命を誓ったんだっけ?誰の許可がいるんだっけ〜?」
「……こう、は様です…っ」
「なのに僕には一言も言わなかったよねぇ。まあ言われたところで同じことしてるんだろうけどさ〜。まあこれはお仕置きだから殺さないし、そんな怯えないで?」


そう言って、彼は赤い舌を出して血の滲む傷口を舐め上げる。ピリリと、電流が走り抜けるよいな感覚が襲った。痛い。それは傷口に塩を塗るような痛みに近く、それでいて胸が引き裂かれそいな痛みに他ならなかった。内面的な痛みが、具体化されてしまったような。痛い。どうしようもなく、これ以上ないほど、痛い。けれど紅覇様はやっぱりやめようとしなかった。薔薇が散るように髪を白いスーツの上に投げ出しながら、私の血を求めるように舌を這わせる。執拗に上下する熱を持ったそれはザラザラとしていて、鎖骨へ、首元へ、耳元へ、場所を変えてはくまなく肌の上を這っていた。


「やめ、てください…ふっ…!」
「名前の血は不思議な味だよ。ねえ、ジュダル君ともこんなことしたの?」
「してない、です…っ」
「ふうん。じゃあコレは僕が初めてなのかぁ」
「……痛、……ひっ!」
「ふふ。名前は強くないもんね。これ以上ないくらい弱くて脆くて」


傷口なんてどこにもないはずの耳の中に、紅覇様の舌が捻じ込まれた。先ほどとは違う、ゾワゾワとしたものが足先まで一気に駆け抜ける。思わず身を捩ると、未だ圧せられている腕が静かに悲鳴を上げた。恍惚とした紅覇様の顔が怖くて顔を上げれない。


「ねえ名前…僕がさぁ…もっと痛いことしてあげようかぁ?」
「…っ!やめ、てください…!紅覇様…!」
「何でぇ?ジュダル君とは色々したのに?僕とはダメな理由がわかんないよ」
「神官殿とは決して…っ」
「あーもう、うるさいな。今目の前にいるのは僕だってのに神官殿神官殿ーって。生意気だよ、名前のくせに」
「……ひっ……いたっ」
「痛いの、いや?」


まるで、私の意思なんか関係なかった。優しく歌うような華やかな声とは裏腹に、今まで圧していた太ももを、思い切り捻じりあげる。声にならない激痛が走ったところで、とうとう私の右足の感覚は一粒零れ落ちた涙と共に何も感じなくなってしまった。
限界を超えると、痛みでさえも感じなくなってしまうらしい。


「ありゃ、逃げれないねー。大丈夫、怪我は後で僕がしっかり診てあげるから」
「こ、うはさまは、私が…お嫌いなのですか…っ」


嫌いで、憎らしくて、恨みがましくて。
だからこそ、私にここまでするのですか。
私の は、紅覇さまとは近すぎず遠すぎずの距離感を保っていたはずだった。
いつだって私は影にこっそりと生きていて。
光である皇族の方々をひっそりと大きな月のようにあろうと見守っていて。
それでも、それなのに。

(…自覚は、あるのかもしれない)

一線を越えてしまったのだ。普段から優遇してもらっていたジュダルさんと。昨日。流れに身を任せて。雰囲気に身を委ねて。愚かだった。私のような中級貴族のものが、神官殿と近づくなど。
初めは何も知らなかった。何も分からなかった。だからこそ、着いていった。無知で頭が回らなかった馬鹿な私の は、何も考えずに。考えさえせずに。
けれど、逃げ出そうともしなかった。
その結果がこれだ。惨めで、滑稽で、どうしようもなかった。


「嫌いじゃないよぉ?むしろ僕は君を気に入ってる」
「…な、ら何故…っ」
「好きだからだよ。僕は君が好き、傷つけるのも好き。それにこれはお仕置きだしねぇー。僕の許可無しにフラフラとジュダル君に着いていった、馬鹿な部下へのねー?」


嬉しそうに、目が細められる。
影になった瞳に映るのは、黒みが強まった赤だった。太陽を深海越しに見ているような、宇宙から深海を見ているような。感覚の分からない足が、無意識に逃げようと微かに動くのが見える。それほどまでに、今の彼は狂気的だった。
小刻みに揺れる震えは止まらない。
しかし、それが不意に止まった。
不自然なほど、タイミングなんてまるであったもんじゃない様子で。
紅覇様が薄く艶のある唇を閉じたまま、三日月に両端を上げた時。
ピタリと。一切な体の震えが止まった。

たったそれだけではあったが、それ以上のものがあった。代わりにドクドクと全身に熱い血が送られていくのが分かる。本能で察したんだ。勝てない。逃げれない。足掻いても、足掻く分だけ無駄だって。
諦めた。同時に受け入れた。紅覇様の罰を。


「あれ、震え止まったね」
「私は、紅覇様の部下…です…から」
「うんうん。そうだねぇ?今みたいにおとなしい方が僕は好きだな」


流れる涙の筋を、紅覇様の赤い舌が掬い上げる。いつの間にか苛々を圧縮したような声色は、姿を見せなくなっていた。


「僕はね、自分の好きなものにはたぁーっぷり、愛を込めるんだ。だから、その愛に必死になって、がむしゃらになって、」


耐えてね?

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