足りぬ存ぜぬ獣の内

「おねーさんって一郎の彼女?」


 そう言って突然目の前に現れた彼は、まるで地に降り立った天使のように見えた。突然現れた存在に胸の高鳴りが収まらない。今思い返せば、初対面の人に平気でそんなことを聞ける乱数さんはあまりに無遠慮で、プライバシーやらそんなものは何も無かったし、律儀にそれに応える私もどうかしていた。どの角度から見たって、それは初めて話す会話ではなかったと思う。「い、いやいや、まさか!私たちは幼馴染……です……?」そう迷いながらも返答すると、桃色の髪を跳ねさせて、彼は意外そうに笑った。煌々の宝石をはめ込んだ瞳、触れなくとも分かる陶器のような滑らかな肌、風に揺れる髪は一本一本が太陽に照らされて透けている。あ、天使だ。やっぱりこの人は本当に天使なんだ。改めて私は謎の納得をした。
 そんな彼とこうやって話すようになったのは、ひとえに一郎のおかげである。私が訪れた萬屋に、彼もいた、ただそれだけの本当に偶然の出会いだった。
 なんてことない、幼馴染の一郎に頼まれて生活品の補完や依頼を手伝っているところに訪問してきただけで、私は知り合いの知り合いという遠い関係性。この見た目でファッションデザイナーをしているらしい彼は、デザインに思い悩むと外をぶらついてアイデアを得るという。なんて立派なんだ……!第一印象から既に天使補正がかかっているので私は素直に感動した。飴を常に舐めていると聞いて、なんてイメージ通りなのだ!とさらに感動した。
 一郎にキャッキャと食い気味に言うと幼馴染が色めき立つ姿はあまり見たくないのか、複雑そうな顔で宥められる。と言っても私はアイドルを見ている感覚に近いので、一郎のヲタク魂とそう変わらないと豪語していた。そんな変な顔しないでよ、だって間違いないじゃん。
 ニコニコと蕩けるような笑みを浮かべ棒付きの飴を口に含む姿は、動かなければ本当に人形のよう。思わず息をしているのかと心配にもなる。街の喧騒とはまるで合わない浮世離れした美しさに、ぽけ〜としていると「何してんだお前は」スパァンと一郎に頭を叩かれた。とても痛い。呆れた顔で暗にはよ作業せえやと訴えかけてくる一郎に、渋々頷いた。すみません、地上に降り立った天使に見惚れてました。これは不可抗力なんです。「働け」もう一度叩かれた。ごめんなさい。

 次の日も次の日も、乱数さんは池袋へとやって来ては萬屋に顔を出した。癖のように棒付きの飴を指先で遊ばせながら、一郎と話をしている。私は馬鹿なので毎日デザイン案に詰まってるのかな?と思っていたけど、どうやら次のテリトリーバトルで込み入った話があるらしい。その類の話は私はサッパリなので、会話に混ざりたくても混ざれず、稀にお茶を出すことで乱数さんから存在の認識を得ていた。普段からお茶など出す訳もなく、一郎には私の魂胆は見え見えなのでその視線は冷たい。でもめげない。
 少し遠くから二人の様子をチラチラと見るだけの私だったが、そんな私なりに気づいたことがある。
 発見その一。一郎は乱数さんが来る度にそれなりの対応はしてるものの、幼馴染の私にはあんまり歓迎していない様に見えるのだ。表立って違和感があるわけじゃないものの、何となく分かる。なんせ私は一郎の幼馴染である、些細な表情の変化になんてすぐに気づいた。ハッハ〜ン。さては一郎、乱数さんがあまり得意ではないな?どう見ても元よりタイプが違う二人だから当然と言えば当然かもしれない。乱数さんは好意的に見えるけど、一郎は時折見せる表情が引き攣っている。
 発見その二。彼等は会話をしている途中、何度か私の方を見遣るのだ。これは勘違いではない、私がチラ見のプロなのでよーく分かる。きっと彼等の会話の中で私の話題が出ているのだ。それに気付いた時、何だか照れた。
 そしてそれ以降、私はちょっぴりお洒落をするようになった。

 そして乱数さんが萬屋に訪れるのが若干習慣付き始めた頃だ。いつものように萬屋へ向かうと、そこには一郎の姿はなく、代わりに視界の中央で、背丈の低いシルエットを捉えた。フードを被り此方に背を向けて入口に立つその姿に三郎かな?と思い歩み寄るが、声をかける一瞬の隙、フードの中から見えた色素の薄いビー玉の瞳が淡く光った。
 あ、と意識とは無関係に心臓が脈打つ。私の存在に気づくと、フードを脱ぎ、砂糖みたいな甘い笑顔で笑いかけた。

「やっほー、名前!」
「ら、乱数さん……!今日は随分早いんですね?あ、一郎は多分まだ来てなくて、ちょっと待ってください、すぐ呼びます」

 乱数さんが萬屋に訪れる目的は一郎の他ない。きっと早めに待ち合わせしてたはずなのに、一郎が寝坊でもしてしまったんだろうな。勝手にそんなに推測をして、スマホを取り出し着信履歴を開く。一郎、一郎……っと。あ、あった!昨日の夜もなんとなく電話していたから簡単に見つかったそれに、あとワンタップで発信──という時だった。
 操作をしていた私の手首を誰かが掴み、それと同時にスマホがの重みが離れていく。「へ?」まるで悪びれる様子もなくスマホを取り上げた正体は、ニコリと笑って「今日はね、一郎はいらないんだ〜!」と口にした。

「い、いらない?」
「うん!一郎はいらないよ!それより今日のワンピースすっごく可愛いね!お洒落してきたの?」
「へっ!?え、あ……あの、似合わないのは分かってるんですけど……たまには」
「僕ずっと前から名前ちゃんはワンピース似合うと思ってたんだよねえ〜。ダボッとしたのもいいけど体のライン出した方が絶対可愛いよ?」
「ひえ……あ、ありがとうございます……恐縮です……」
「アハ!なんでそんなに他人行儀なのさ〜!」
「い、一郎に会いに来たんじゃないんですか?!」
「僕一郎の彼女じゃないよ〜?」
「で、でも萬屋……」

 貴方のために着てきた洋服だなんて言えるわけもない。恥ずかしさを隠すように一郎のことを尋ねると、乱数さんはあったりと一郎に用がないと言い切った。私は軽くパニックである。一郎に会いに来る以外の目的がサッパリ分からず、ていうか私の存在はあくまで一郎のおまけ程度でしかない。そんな私が彼と二人きりなんてハードルが高すぎた。更にはスマホは彼の手中に渡っている。
 何をどうしたらいい分からずあわあわとしていれば、ポッケから飴を取り出して頬張り、私にも同じく飴を差し出すのだった。驚くほど彼はいつも通りだ。「わ、ありがとうございます……」目の前に差し出されたそれに軽くお礼を言って、棒付きの飴を舐める。その様子をじっと見つめる乱数さんは、宝石を三日月にして笑っていた。「美味し?」甘くて脳が麻痺しそうな飴を舐めていると、だんだんと意識が朦朧として、平衡感覚がなくなっていくのを感じる。まるで甘い飴に酔いが回り、夢の中にいるようだった。
 あれ、緊張してるのかな、私。憧れの乱数さんと二人きりで話すことなんてなかったし、そもそもこれ自体も夢なのかもしれない。そういや一郎昨日の夜なんか言ってたっけ……。乱数さんの輪郭がぼやけていく。ううん、違う、乱数さんがぼやけてるんじゃない、私の世界が歪んでるんだ。
 そう気付くのは目蓋が閉じ、視界が暗転するほんの数秒前のことだった。





 息ができない。
 ふわふわと曖昧な意識の中で、私は首を掻きたくなるほど苦しんでいた。息が吸えない、吐き出せない、何かが私の呼吸を酷く邪魔している。苦しい──限界を感じると共に、ハッと目が覚めた。
 視界は未だ白くぼやついていて、あまりに気分の悪い目覚め方に訳がわからず困惑する。白い世界が徐々に色付いていく中、私は目の前の存在に固まった。「……フフフ、よく寝たね?おはよぉ」触れればドロリと溶けてしまいそうな甘い笑顔、濡れた艶やかな唇。ゆっくりと離れていくその唇から伸びる糸は私へと繋がっていた。ハァ、ハァと何故か息苦しくて心臓のあたりを押さえる。何がどうなっているのか本当に分からなかった。

「名前ったらすっごく汗かいてるよ?そんなに苦しかった?」
「ら……乱数さん……?」
「ん、なあに?」
「なにがなんだか私、分からなくて……」
「アハハ!知りたい?」
「し、知りたいです……此処は一体、」

 混乱して声が大きくなっている私の唇に、そっと乱数さんの細い指が触れた。それ以上は喋るなとでも言うようなその仕草に本能的に口を閉じる。なんだか……乱数さんの空気が、いつもと違う気がした。
 口が開けないので目線だけを動かして四方を確認するも、今度こそ頭が追いつかなかった。背中には柔らかい感覚、今私が見えているのは天井と、それを背景に存在する乱数さん。少し冴えた頭で考えても、今の状況はやはりおかしい。どう考えてもこの空間は私の知り得ない場所であり、目の前の乱数さんは当然のように私を組み敷いている。それでいて、彼は私を心底心配しているかのように頬を撫でるのだ。私は乱数さんとは顔見知り程度のはずで、一郎のおまけのはずで、お茶出しの時くらいしか話す機会がないのに。なのに、乱数さんはまるで恋人のように肌を撫でている。
 瞳の奥に明らかな情欲と執着が見えた時、ドクン、と不安は恐怖へと姿を変えた。どう考えてもおかしいのだ。今のこの状況はよく考えれば異常だった。なんで、乱数さんが……どうして、怖い。純粋な恐怖に思わず涙の膜が視界を覆う。

「え〜!?名前泣いてるの?泣いちゃダメだよ、僕も悲しくなっちゃう……え〜ん」
「……っ乱数さんが怖いよお……」
「僕が怖い?」
「何だか、いつもの……っいつもの乱数さんじゃない……天使じゃない……ふっ、うぇ」

 私の知っている乱数さんはいつも明るい陽の下、純白という言葉が当てはまり、目が合えば花のように笑う人なのだ。ところがどうだろう。今目の前にいるのは乱数さんは純白とは程遠く、日が沈み薄暗い部屋の中で影を纏っている。
 私の言葉に特に返すことも無く、人形のように軽く口角を上げたまま動かない。いつもは可愛らしく見えるのに、神業じみた美しさが今は酷く恐ろしく見えた。ビクリと震えた私を逃がさないとでもいうように、伸びてきた両手が頬を包み込んだかと思うと、棒から外れた飴玉を口に含み、その端正な顔がゆっくりと近づいてくる。恐怖で身じろぐも、私に跨る体重のせいで逃げるどころか身動き一つ取れなかった。整った歯並びから覗く真っ赤な舌には、飴玉がちょこんと乗っている。


「僕たちね、さっきまでいけないことしてんだ。覚えてる?だから今から続きしちゃうね?」


 言い切るよりも前に、柔い唇が触れた。その感触に目を見開いて抵抗しようとしても押さえつけられた身体は言うことを聞かない。果実のように甘い香りを放つのは彼が含む飴玉なのだろうか。矢継ぎ早に降り注ぐ彼のキスに吐息が漏れる。楽しそうに彼は私の閉ざされた唇を無理やりこじ開け、探し当てた舌を絡めとった。脳天が痺れるような感覚に視界が滲んでいく。まるで食べられているようだった。呼吸することを許さないと言われているみたいに。そしてこの息苦しさを私は知っているのだ。生き物のように歯列をなぞり、上顎を舌先でつつかれて変な声が漏れてしまう。羞恥心と息苦しさでどうにかなってしまいそうだった。
 心臓はドクドクと破裂しそうなほど激しく鼓動し、酸素を求めている。漸く離れたと思えば、目の前の男は美しく口角をあげて笑っていた。

「名前ったらか〜わいい。キスされて気持ちよくなっちゃった?」
「ハァ、ちがっ……う……ハアッ」
「涙目になって僕を見てもダメだよ!そういうのってもっと男を煽る要素にしかならないんだから」
「……ひぁ!や、やだ……ごめんなさい……」
「えへへ、なんで謝ってるの〜?」

 スルリと冷たい手がスカートの中に入り込んで太ももを撫でた。「可愛いね。ワンピース本当に似合ってるよ」やだやだと涙を溜めても、乱数さんが止めてくれる気配はない。違う、もっと別の可愛いが欲しかった。こういう可愛いじゃない。どうして、なんで、私なんかを。

「大事に隠されてるものってどうしてこんなに魅力的なんだろうね〜」

 どこか意味深な言葉を呟いて、再び湿った唇を押し付けて、深い口付けをする。身体の内側が燃えるように熱い。恐怖と痺れる快感がせめぎ合い、訳が分からないまま翻弄されていた。生温い涙が一筋、頬へ流れる。彼の蒼い虹彩が不気味に揺れ、そしてゆっくりと何かを伝えるように細められた。


「フフ。絶対返さないよ、おねーさん」

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