融けない林檎の毒の先

 名前から連絡がない。

 とある朝、一郎は個人的な趣味であるアニメのグッズの買い出しの帰り道に、そんなことを思った。今日は特に萬屋としての仕事がない。幼馴染のアイツにも昨日の夜わざわざ「明日は仕事ねえからな」と電話で伝えてはやったが、正直寝落ち寸前だった彼女がそれを覚えているかは不確かだ。

 まあいいか、それに仕事がないと言っても関係なく彼女はやってくる。両手にライトノベルやアニメグッズを抱え帰路に立つ一郎は、しかしふと嫌な予感がしてスマホを手に取った。そのまま慣れた手つきでアプリを開き、一番上にいる名前のトーク履歴を開く。『今どこにいる?』それだけ送信して、スマホをポケットに直した。彼女は普段から返信は早い方ではあったが、特にココ最近は恐るべきスピードで返信がくる。メッセージを送った瞬間に既読がつくというのは時折ゾッとしたりもするのだ。何か目当てがあるのか下心があるのか、分かりたいような分かりたくないような複雑な気分である。
 そんな名前のことなのだ──どうせすぐにでも連絡返ってくんだろ。そう思って再び一郎は事務所兼自宅へと足を進めた。紙袋から溢れたフィギュアが落ちかけて、慌てて体制を立て直す。あっぶねェ!期間限定の予約フィギュアが壊れるところだった!カサカサと紙が擦れる音がする中、ポケットの中のスマホが通知音を鳴らすことはなかった。

 昼食の時間が過ぎおやつの時間になれど、一郎のスマホが鳴ることは無い。何かおかしい。トーク画面を開いても既読すらついていない。そして久しぶりに乱数の姿もない。アイツ、乱数が今日から来ないの知っててあえて避けてんのか?一郎はイライラと足を揺すりながら、ソファに座る三郎を見遣った。

「……三郎」
「ん?何ですかいち兄」
「名前って今日来たか?」
「名前……?いえ、来ていません」
「連絡は?」
「……ちゃんと見てませんでしたが、恐らく今日は一度も」
「なんかきな臭ぇなあ」
「いち兄?」

 名前は昔から可愛いもの、美しいものに目が無い性格だった。だからか、少しあどけない幼さを残す三郎に対しての愛も深いもので、一方的にも近い連絡が毎日最低、朝昼晩と届いている。三郎が既読無視をしようと冷たい一言を返そうとそれは変わらない。好きなものにはめげない!という能力に関して、彼女は人一倍抜きん出ていた。三郎曰くゴキブリ精神である。特におはようとおやすみは最重要事項らしく、寝落ち等をしようものなら次の日には怒涛の勢いでスタンプやら愛の言葉が送られてくる。
 三郎は最初こそドン引きしていたものの、慣れというのは恐ろしく、今ではそんな連絡のやり取りも彼の日常の一部となっていた。彼女は雨の中三郎を待ち続け風邪を引いた時も、炎天下の下アイドルのライブで騒いで熱中症になった時も、体調不良のくせに萬屋を手伝い拗らせて肺炎となり入院した時も、どんな時でもその連絡を途切れさせたことは一度もなかった。

 そう、半日も彼女が理由も無く連絡を寄越さないことなど、一度もなかったのだ。三郎も漸く一郎の言わんとしてることを理解したらしい。まさか、と一人チェスの手を止め、一郎を凝視する。

「名前に何かあったと?」
「思い当たる節もないことはねえ」
「思い当たる節……?一体それは……」
「……乱数だ」
「……飴村乱数?」

 フリングポッセの、リーダー?途端に三郎の眉間に皺が刻まれ青と緑のオッドアイが動揺で揺れた。「けど、まだ分からねえ」一郎は首を横に振る。
 考えすぎ、という可能性も当然ある。彼女は稀に見せる鋭い部分こそあれど、基本的には呑気で楽観的な性格だ。寝てたと言ってひょっこり現れることだって想像できなくはない。だけど、と一郎の直感が、第六感がその可能性を真っ向から否定した。鳴らない通知音、三郎への連絡不精、でもそれだけじゃない。頭を過る桃色の髪がどうしても不穏な想像をさせるのだ。
 実際ココ最近の名前は乱数に対して、分かりやすい好意があった。可愛くて美しいものが好きな名前なのだから、それを具現化したような乱数に夢中になるのもまあ分かるし、更にその様子を近くで見てきた一郎はそれを散々理解している。天使だなんだと騒いでいた名前は乱数の本性を知る由もないし、当然一郎も教える義理はなかった。
 しかし乱数はどうだっただろうか。名前の話はした。萬屋には名前がいたから。別に不自然な流れではなかった。名前が不慣れなお茶を出そうとするから。名前がある日を境に見慣れない服を着始めたから。自然と名前の話題が合間に出た。乱数が、名前のことを尋ねるから、答えていた。ハッと一郎は揺らしていた足を止める。
 乱数は一体どんな目で名前を見ていただろうか。

「……いち兄、ただの杞憂で終わればそれでいいんです。でもそうじゃなかった時……時間は無さそうですね」
「……ああ」

 三郎は細い指で摘んでいたクイーンを盤上に投げ捨てた。コロコロと転がる駒は落ちそうなギリギリのところで止まる。何て世話が焼けるのだと目を細めると、下手ながらも三郎の相手をしていた名前の残像がふと目の前に浮かんだ。やがて、すぐに消えた。






 林檎の落ちる夢を見た。
 目が覚めた時は何故か酷く汗をかいていて、布地と背中の間が湿っぽくて気持ち悪い。夢の内容はともかく恐怖にも似た不快感が襲っている。何故かとても不吉な夢のような気がした。真っ赤に熟れた林檎が、ぼとりと地面に叩きつけられる、たったそれだけの夢なのに。たったそれだけの夢が、脳裏に焼きついて離れない。
 寝起きのせいだろうか、開いた上瞼は酷く重たく、まるで泣いた日の翌朝のような感覚った。それに……喉の渇きが凄い。冷蔵庫のミネラルウォーターでも取りに行こうと重たい目をこじ開けると、そこには慣れない景色が広がっていた。高い天井、白い壁、カーテンの隙間から差し込む陽光で照らされた部屋はあちこちに布や服が落ち、足の踏み場もない。
 あれ、どこ、ここ。そういえばベッドも柔らかい気がするし、それに、私は服を着ていなかった。サァッと血の気が引いていくのを感じた。現状を理解しようとベッドから出ようとした時、身体に絡みつく違和感に気付き「……ヒッ!」喉がキュッと締まる。重たいと思っていたお腹の上には細い腕が回り、太腿には脚が絡みついている。そしてその正体に、私の小さな悲鳴が届いてしまった。

 隣に眠る彼──乱数さんはピクリと少し頬を揺らした後、涼しげな目蓋を持ち上げる。起こしてしまった。反射的に湧き上がるのは睡眠を邪魔してしまったという罪悪感と、起こすべきではなかったという自分への警告と後悔だ。寝起きとは思えない軽やかな動きで、何度か長い睫毛を上下させ、丸く大きな瞳は私という世界を映し出している。それだけで昨晩の出来事が一瞬でフラッシュバックした。頭が恐怖で冴えていく。虫を這わせたような気持ちの悪さと、心のざわつきが収まらない。

「ん〜〜おはよぉ」

 鈴を舌で転がしたような甘い声だった。どんな状況でも、やっぱり飴村乱数さんは美しく、この状況でもいつもと何ら変わらない天使のようだった。
 例えば鉱物に光を当てたように煌めく瞳が、例えばふっくらと潤う唇が、例えば、透き通るような肌が。
 けれど私は知らなかったのだ。 「名前、」甘いだけじゃない、一言名前を呼ぶだけで全身の力が抜けてしまうような低く艶のある声を、細められた目の奥にある深い淀みを。ゾクリとする不思議な感覚に、逃げるように顔を横に向ける。息が苦しい。その顔を見るだけで、今や恐怖で全身を氷漬けにされるような感覚だ。ドッドッと心臓が突き破る勢いで大きく暴れていた。

「ありゃ、何でそっち向いちゃうの〜?」
「……」
「分かったっ!僕といっぱい愛し合ったから照れちゃってるんだよね?」
「……っ」
「可愛かったなあ、名前の火照った顔。顔がくしゃくしゃになっちゃってさ〜」
「や、やめてください……っ」
「え〜ん……どうして?気持ちよさそうに僕におねだりしてたよ?」
「やめて!」

 堪らず彼の口を塞ごうと身体を捻じれば、分かっていたかのように腕をシーツに縫い付けられた。どこまでも深く蒼い虹彩が私を射抜く。ゾクリと身体が震え上がった。

「やっとこっち向いてくれたね、おねーさん」
「……あ、」

 ヒンヤリとした冷たい手が頬に触れる。あまりにも自然に触れたその手に、抵抗といった言葉が抜け落ちたような気がした。時間の感覚もまるで無くなっている中、緋と橙が混ざったような夕暮れがカーテンの隙間から乱数さんの半身を照らしている。その姿は絵画から出てきた蝋人形のようで、直接目を当てることさえ億劫に感じた。緩やかなウェーブを描く桃色の髪を睨んでいれば、視界に入る白く細い指。彼の顔が近づいてきて、ギュッと固く目を閉じ全身が強ばった。
 しかし数秒経っても何の衝撃もない。恐る恐る目を開けると、チュッと小さいリップ音と柔い感触が軽く唇に触れる。

「……なーんちゃって。そんなに怯えないで?」

 そう言って彼はあっさりとベッドから出た。下着だけをつけたその姿は酷く雄々しくて、本当に私の知っている乱数さんなのかと疑いたくなる。そして、昨日の情景が鮮明に蘇り、色々と死にたくなった。下腹部はじんじんと痛むだけではない気がする。羞恥心と情けなさでじわりと涙が張るのを感じるも、視界の端の乱数さんは慣れた手で煙草を咥え、ライターで火をつけた。フゥ、と吐き出される煙は幻想的に部屋を登っていく。乱数さん、たばこ、すうんだ。

「なあに?そんなに見て。僕が煙草吸うの、意外?」
「……」
「ね〜〜そんな怖がらないでちゃんと話そうよう!僕は名前のことが好きだよ?」
「……っ」
「アハ、そんなに怯えられるともっと虐めたくなっちゃうなあ」

 萬屋で見た乱数さんは限りなく表面的なものだったようだ。私は本当に彼のことを何も知らなかったらしい。煙草吸うこともないと思ってたし、その……そういったことにも興味が無いと勝手に思っていた。

 そう萬屋での乱数さんは──そこで弾けたように一郎や二郎、三郎の顔が思い浮かんだ。ハッとする。皆に何も連絡が出来ていない。私が最後に一郎と連絡を取ったのは乱数さんと萬屋で出会う前の夜だし、一郎と電話をしながら寝落ちてしまった記憶がある。それから、一度も連絡を取っていない。
 その事実に気づいて私はすぐに両手でベッドの上を弄った。けれど見つからない。なら私の服の中?キョロキョロと突然動き始めた私に乱数さんは目を丸くしていたが、やがて「もしかしてケータイ?」とニッコリ笑うのだった。ぎこちなく頷く私に、更に乱数さんは笑みを深くする。その意味を知ったのは、乱数さんの右手に掴まれる見慣れたスマートフォンを視界に捉えたからだ。

「……返して、ください」
「声が小さくて僕聞こえないよ〜ん」
「か、返してください!」
「え〜なんで?いるの?これ」
「い、一郎に……連絡を、」

 そう私は、

「……一郎?」

 突如空気を裂いた、地を這うような低い声に固まった。いまの声、一体どこから……?信じられないことに、この空間には私と乱数さんしかいない。なのに、今聞こえたのは普段の乱数さんからは到底想像もつかない唸るような声だった。気付けば鋭い眼光で私を射すくめる乱数さんのオーラは威圧感で覆われていて、本当に彼から発せられた声だと確信せざるを得ない。身体は石像のように固まり、圧倒的な存在感に息を飲んだ。

「俺の前で違う男の名前出すなよ」
「……っ」
「次出したら二度と外歩かせないようにするから」
「……っあ、」
「返事は」
「……は、い」
「……えへへ。今の怖かった?名前おねーさん!ちゃんと約束守るんだよっ?」

 煙草の火が消えた。灰と化した紙片がガラスの灰皿にポトリと落ち、ジュッと小さな音を立てて紫煙が伸びる。それは真っ赤な熟した林檎がぽとりと落ち地面に叩きつけられる、あの夢となんだか似ていた。

「僕がいいって言うまで絶対僕から離れちゃ駄目だよ。もし逃げたら、メッ!だからね?」
「そんなの、い、いつまで……ですか……」
「う〜ん、いつまでだろ?もしかしたらいつまでもとか?」
「……や、やだ……っ!」
「アハ、冗談だよ!でも僕が満足するまでは此処にいてね。僕だけを見て、僕だけの名前を呼んで?」

 こんなの、一方的な愛の押し付けだ。それに乱数さんが私に向けて言っている、その事実が未だに腑に落ちない。乱数さんが私を好き……な、わけがないのに、おかしいのだ。

「ほら、早く呼んで?僕のことを不幸にするのも幸せにするも、全部名前次第なんだから」
「ら、乱数さん……」

 ぼとり、と音がした。地に叩きつけられるような、何かが推し潰れるような、毒に侵されるような、


「……ふふっ!おねーさんが僕の手でどう壊れていくのか、これからが本っ当に楽しみだなっ!」


 林檎が落ちる、そんな音が。

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