(アン)ハッピーエンド

 ふわふわと空に漂う雲のような笑顔、それを遠巻きに見て、いつも私は吊られて口元が緩んでいた。動かなかったら人形のように見えてしまう彼、意外と重いものを運べる彼、いつも棒付の飴を口に含んでいる彼、ピョンピョンと跳ねるように歩く彼、その全部が可愛くて、私の理想で、憧れで、ずっと眺めていたくて、ちょっとだけ、ほんのちょっとだけ仲良くなれたら──そう思ってた。








 眠りの浅いところで意識が揺れて、深く沈もうとすれば寸前で掬い上げられる。とても嫌な感覚だった。それを何度も何度も繰り返して、やがて灰青色の空に憎いほど眩しい朝日が滲んでくれば、そこでようやく濃霧の思考も醒めていく。ぼんやりとしていた世界がしっかりと輪郭を持った。ゆっくりと睫毛を上下させていると、明るくなった東の空がカーテンの隙間から滲んでいる。

ピピピ、ピ──

 枕元で鳴ったアラームにびくりと肩が揺れた。う、わあ……ビックリした。もうそんな時間だったんだ。暫く鳴り響いていたアラーム音にバクバクと心臓を鳴らしながらも、止めていいのか分からず暫く放置してみる。しかしその数秒後、恐らくスヌーズモードになってしまったアラームが再び鳴り響いた。……どうしたものか。勝手にアラームを止めるのも気が引けるし、直接起こすのも気が引ける。それでも最大なんじゃないかという音量で鳴り続けるアラーム音があまりにうるさいので、とりあえずは止めてあげよう、そう思って身体をモゾモゾと動かした時だった。
 何の前触れもなく横から伸びた白い腕がスっとスマートフォンに触れ、途端に鳴り止む電子音。あ、と思う間もなく、気付けばそのままその腕に引き寄せられている。グッと押し当てられたのはきっと乱数さんの胸板だった。何が何だか分からない状態の私に、寝起きの掠れた声が「おはよぉ、名前」と耳許で囁かれる。

「……っお、はよう、ございます」

 吐息が耳を掠めビクリと震える私を見て、満足気に笑う乱数さんの声が頭上に降ってくる。胸を押して少し離れれば、とろんとした瞳が弓なりにしなっていた。そのまま私を呆気なく解放すると、寝起きの気だるさも感じさせない動きでベッドから起き上がる。桃色の髪が朝暉に透けて揺れる姿は目眩がするほど綺麗で美くして、何度見たって息が詰まりそうだった。
 こうやって彼が半身を起こして伸びをする光景が目の前に広がっているなんて、少し前の私だったら信じられなかっただろう。実際、今でも信じられないのだけど。

 そんな彼をじっと下から眺めていると、視線に気づいたのか「なに、チュウする?」なんて悪戯げに笑った。この手のからかいには少し慣れてきていたので目を細めてフイッと顔ごと逸らす。本気で受け止めたって私の心がいくらあっても足りないというのは最近ようやく分かってきたことだ。
 乱数さんは中々に、いやかなり意地が悪い。特に私をからかうという面にかけては雲を貫く勢いでレベルが高い。完全にカンストされている。アハハと特徴的な高い声を響かせながら、彼は小首を傾げて私を見た。

「よく眠れた?」
「……あんまり」
「え〜どうして?」
「言いたくないです」
「残念。僕は聞きたかったなあ。名前の眠りを妨げてる原因は徹底的に排除しないとでしょ?」

 原因は、どう考えたってひとつでしょう。もう喉元まで出ていたその言葉は寸前のところで堪えた。そのせいで変な声が出てしまったけれど、素知らぬ顔をしてスーッと大きく息を吸ってゴクリと空気ごと思いを飲み込む。私が眠れない理由なんか、一つしかない。そんなこと乱数さんが一番分かっているくせに。「え〜なになに〜?」とニヤニヤしながら深追いしてくる彼は、本っ当に、意地が悪い。なんて白々しいのだ、と私は彼から逃げるように距離を取り(と言ってもベッド内だから大したことは無いけれど)、布団を鼻まで被って威嚇する。
 こんなやり取りも何回目になるのだろう。ふと、燦々とした朝の気配に、そんなことを思った。

 ──ちなみに今の現状として、恐ろしいことだが私は彼に軟禁されているらしい。
 軟禁、という言葉を当てはめるにはあまりにも優遇されすぎているけれど、此処を出ようとすればその顔に似合わない怒気の篭った低い声で釘を刺されるのだからきっと軟禁といってもおかしくないんだろう。家の中は自由に使ってくれていいよなんて彼は言うけれど、当然そんなことできるわけもない。無闇矢鱈に歩き回ることはできず大体はリビングか寝室でじっとしているだけの生活が続いていた。
 彼は私が家を出ようとしない限りは、酷く優しい。それこそ飴を与えるように。私が最後に底冷えするような恐怖を感じたのは一郎に連絡をしようとした時で最後だった。そこからは私がどれだけ抵抗しても反抗する姿勢を見せても、心の奥を見透かすように口許を緩ませるだけ。人というのは不思議なもので、初めは恐怖しかなかった相手でもずっと優しくされ続けていれば絆されてしまうらしい。
 甘い甘い飴のような蜜を少しずつ与えられ、いつの間にか、私は彼に抱く思いは少しずつ形を変えていた。今だって怖い。怖いけど、怖いのに──怖いだけじゃ、なくなってきている。

「……」

 けれど、一つ不安な点を上げるとするのなら、

「……乱数さん、今日って」
「なーに?」
「今日ってその……」
「……名前は知らなくてもいいよ。だって必要ないでしょ?」

 ああやっぱり今日もダメだった。分かっていたはずの答えを改めて突きつけられて、私はギュッとバレないように拳を握り締める。
 彼は優しい。優しいけれど、決して外に関する事は教えてくれない。それはどうやら曜日や日付も含まれるようで、私は今が何日なのか何曜日なのかも分からなくなっていた。かろうじで今が一週間目くらいかなというのは把握しているけれど、夏休みに家に篭っていたら日付感覚が狂っていくように外に出ないスマホを触れないというのは時の流れが分からなくなってしまう。現代病だと思う。何もせずにぼうっと一日を過ごしているのだから、余計それを加速させていた。

「……」

 ふと、思うのだ。乱数さんは一体私をどうするのが目的なんだろう。今は優しい。優しすぎるくらい甘やかされて、確実にドロドロと思考まで溶かされていっている。使い物にならなくなって、私が壊れてしまえばそれで満足なんだろうか。……その答えは、それこそ泥沼の中だけど。

 不意に、伸びてきた細い指が私の頬を撫でた。余計なことを考えていたからだろうか。小太刀を突きつけられるような鋭利な緊張感がするりと心臓を包み込む。ツ、と触れるか触れないかの距離で円を描き、ビクリと震える私を見つめていた。

「フフッ、今何考えてたの〜?」
「っな、何も……」
「え〜ほんとかなぁ?」
「本当です……」
「嘘はメッだからね?」

 コクリと頷く私を満足そうに一瞥し、彼はベッドから出た。「今日は夜まで帰ってこないけど、いい子にしてるんだよ?」そんな言葉を残して。

「夜ですか?」
「そうそう。僕も本当は行きたくないんだけどさぁ……ちょ〜っとばかり外せない用事なんだよねえ」
「……そうなんですね」
「家の中にあるものは自由に食べていいからね!」

 どうやら外せない用事というのは本当らしい。服を脱いで、歯を磨いて、気付けば乱数さんはあっという間に支度を整え、いつもの姿になっていた。ヒラヒラと水色のコートの裾を翻しながらご丁寧に私の元へとやって来ると「おはようのチュウはできなかったから、いってきますのチュウしよっか」とニヤリと笑っている。こうなってしまえば私の意見なんて聞いていないも同然だった。
 それでも無けなしの抵抗として視線を逸らす私の顎を人差し指でクイッと持ち上げると、薄い唇が近付いてくる。彼と肌を触れ合うことだけは本当に慣れない、いつも心臓の辺りが苦しくなる。楽しそうに笑う乱数さんは「鼻で息するんだよ、ほら慣れて〜?」と貪るように唇の輪郭を舌でなぞった。

「っはあ、チャージ完了〜!それじゃあ行ってきま〜す!」

 一通り満足したらしい。ハアハアと荒い呼吸をする私の頭を撫でると、ルンルンと踊るように玄関まで歩んでいく。最後に此方に手を振ったかと思えばパタン、とドアが閉じた。

「……」

 夜まで、帰ってこないんだっけ。そう言えば最近の乱数さんって外に出るは出るけどすぐに帰ってくるし、結構な割合で家にいた気がするな。無理してたのかな、ってことは久々の一人だ。そっか、今日は丸一日、一人なんだ。

「……」

 急な静けさが訪れた室内で、カチカチと時計の針が刻まれる音だけが響いている。私は暫くじっと誰もいない玄関先を見つめていた。人感センサーの電気がカチリと切れて、真っ暗になるまで、ずっと。

「……っ、」

 急に、湿った息が溢れ出た。緊張感が切れてしまったんだろうか。必死に堪えていた何かが突如として外れてしまった。

 堰を切ったように込み上げた感情は桶から吹き零れ、やがて小さな嗚咽に変わっていく。やだな、泣くつもりなんてなかったのに。そう思っても涙は止まってくらない。今の現状をいくら考えたって、答えを知るのは乱数さんだけで。私が好きだった乱数さんの歪んだ愛だけで。嬉しいはずなのに、乱数さんと一緒にいれるなんて夢みたいなはずなのに、今はとても怖くて苦しい。脳裏に浮かぶのは萬屋の皆で、きっと心配をかけているだろうなって思えば涙がまた止まらなくなる。乱数さんは普段はとても優しい。まるで本当に恋人のように甘い言葉をかけ、蕩けるような笑顔をくれる。けど、けど、

「いちろぉ…、じろ、さぶろう……ふっうぇ、」

 ねえ、会いたいよ。
 今、君たちに会いたい。

 ──その時だった。
 閉じられたはずのドアがガチャリと音を立てた。ひ、と肩が勝手に震えて、反射的に部屋に飾られている時計を確認する。乱数さんが出て行ってまだ5分程しか立っていない。もう戻ってきたってこと?けれどそれにしてはガチャガチャと鍵が見つからないような動きでドアノブがずっと鳴っている。
 ガチャガチャガチャ。無機質で迫るような鳴り方に段々と怖くなってきて、私は布団の中に潜り込んだ。乱数さんの匂いが布団中に染み込んでいてクラりと目眩がする。なんとなく、心のどこかで乱数さんではないという確信があった。乱数さんは普段こんなにガチャガチャと無闇に音を立てたりしない。じゃあ、誰だろう。誰なんだろう。慣れてなさげな鍵の回し方、もしかして空き巣?それとも乱数さんを狙った誰か?

 そして、ガチャリ。ついに鍵の解ける音がした。
 同時に空気がなだれ込む音が響いて、ああドアが開いてしまったのだと身体は小刻みに震えている。思わずギュッとシーツを握る力を強めて、バレませんようにと最大限に存在感を消そうと背中を丸める。けれど、その時ふと思った。それは流れ星のように恐怖で埋まっていた頭の中を横切っていく。
 ……あれ、そう言えば私、何で隠れてるんだっけ?

 ゴクリと生唾を飲む。ドクドクと鳴る心臓は恐怖からだけじゃない。そうだ、そうじゃないか。逆転の発想だ、私、よく考えろ。これはチャンスなのかもしれない。そう思って布団に少し隙間を作って、目だけを覗かせてみる。そして目を見開いた。群青色の肩ほどの髪に緑色のコート、揺れるサイコロ。その人物の姿を、私は一方的に知っている。

「……っ!」

 思い切り布団を跳ね除けた。バサリ!と大きな音が鳴って、突然姿を現した私に相手も驚いたのか「うおお!?」と猫のように飛び跳ねている。ひとつに結ばれた髪の毛が揺れ、目はぱちくりと困惑に染まっていた。そんな彼を一瞥して、私は覚悟を決めて迷わず奥へと駆け込んだ。突然自分に向かって走ってくる人間なんて恐怖の他ないだろう。この反応からしてきっと私がいるとは思っていなかったんだ、そりゃあ驚くし怖いに決まっている。
 でもごめんなさい、今はなりふり構っていられないの。何が何だか分からない顔をして両腕を胸の前で交差させる彼に内心謝って、けれどそれよりも先にコートの横をすり抜ける。そして玄関までたどり着くと、少し前に閉まったはずのドアを再び押し開けてそのまま体当たりする勢いで外に出た。

「……っあ、おい……っ!」

 家を出る寸前、振り向き際に見た彼の表情は何が起きたのか分かっていない様子だった。閉じられていくドアはスローモーションのように彼を小さくしていく。完全に閉まった頃には私はもうその場にいなかった。
 久しぶりの外は、太陽の光が眩しくて目を開けていられない。目を閉じても感じる橙色にグッと耐えて、それでも本能的に走り抜ける。ガチャン、とドアが閉まる音が背後で響いた。きっとこれでいい、これで良かった、これが正解だった。
 靴なんて履いている暇なかったから裸足の足にはダイレクトに地面の感触が伝わっているけれど、そんなことも気にならないくらいに必死だった。エレベーターを待つのも怖くて、階段を駆け降りる。何階分降りたのかは分からない。ただ無我夢中で段差を飛ばしながらグルグルと回っている。

「っ、はあ、はあっ!」

 マンションのエントランスに着いた頃にはもう汗だくだった。やっぱり正面から出るのは少し怖くて、キョロキョロと裏口を探して走り抜ける。その途中、マンションの住人であろう女性とすれ違った。全速力で走っている私を目を真ん丸にして見たけれど、そんなのに構っている暇なんかない。内側からしか開かないようになっている扉を押し開いて、私はようやく本当の意味で外に出た。眩しい、身体の中まで射抜く燃えるような陽射しだった。そんな光を背に、私は再び走り抜ける。

 きっとこれが正しいんだ、そう思いながら。桃色の揺れる髪を、思い出しながら。

/top
ALICE+