別れは申し分ない晴れの日に

 鍵が開いたままの扉が開かれた。
 ビュウ、と風音が潜り込んだ先は酷く静謐で、予想と違った光景に幻太郎はパチクリと目を瞬かせる。電気はついていなかったし、以前訪れた時に「最近ハマってるんだよね」と流していた洋楽のBGMもまるで聴こえなかった。締め切られたカーテンから透け込んだ陽光からのみ照らされる室内は、どこかちぐはぐで幻想的な雰囲気すら感じさせる。
 ──相変わらず目が痛くなるような独特な色味の部屋ですねえ。
 足元に視線を下ろせば、散乱した布やデザイン案、そして特に名前の分からない小道具が転がっている。けれど、それに限って言えば至っていつもの光景だった。至って普通の、一見何も変わらない日常の片鱗に、幻太郎はいつもと違う何かを感じている。ひと月ほど前に訪問した時とは違う、拳ひとつ分ほどの小さな違和感。分厚く重い睫毛を綽然と上下させた後、丁寧に靴を脱ぎ、布の散らかる廊下を歩んでいく。部屋は主人に似ると言うけれど、自由気ままな性格同様、本当に見境なく散らかっている。それを上手く交わしながら進んでいけば、そして玄関からそう遠くない位置に、石像のように固まる何かを発見した。人間ほどの、そして幻太郎ほどの背丈の何かである。

「……」

 幻太郎の行動は早かった。まるで忍者の如く気配を消してその元へ歩み寄ると、静かに、しかし大きく深呼吸をする。心の中でビビデビデ──と準備をすると、一気に全てを吐き出した。

「……ブー!!!」
「ん゛にゃぁぁ!?!?」

 見た目からは予想もできない声量だった。恐らく腹からしっかりと声が出ていた。
 直後、石像のように固まる人物、もとい有栖川帝統はビュンと姿を消した。遅れて聞こえるのは水をかけられた猫のような情けない悲鳴である。逆毛を立てながら全身を使って音の正体の確認よりも高く飛びあがる様を見て「器用なものですねえ」と幻太郎は感心したようにその光景を眺めていたのだった。ちなみに何故魔法をかける際の呪文なのかと問われれば、たまたまここへ来る道の途中で灰被りのプリンセスのサウンドトラックが流れていたからの一言に尽きる。つまり何の意味もない。「いっでええ!」声をひっくり返しながらドスンとその場に崩れ落ちた帝統は、そのまま後頭部を壁に強打し、目を見開いていた。続けてロール状の布地がバサバサと降り注ぐ様子はまるで漫画のワンシーンのようで、二重の断末魔を上げる帝統にさすがの幻太郎も「……ブフッ」と震えた息を吐き出す。少し驚かすだけのつもりだったのに、なんてやり甲斐のある……その様子を口を隠してニヤニヤと上から見下ろす幻太郎は「おや、帝統……大丈夫ですか?」と軽やかに声を弾ませた。

「げ、幻太郎テメェ、お前…………って、おい」
「はい?」
「何だよその顔」
「おや帝統……貴方はついに人の顔にケチをつけるように……」
「……いやそうじゃなくて!その!顔だよ!」
「麻呂は悲しいでごじゃる……」
「だーーっ!ちげえ!顔!俺は何で化粧なんかしてんだって聞いてんだよ!」
「ああそういう」
「いやそれ以外ねえだろ!」

 帝統は「はぁぁぁぁ……」と大袈裟にため息を吐くと、 コツン、と背中を壁に押し当てた。そのままじっと睨めつける視線の先には、フフン、と何故かドヤ顔をキメているメンバーがいる。意味が分からない。どこから怒ればいいのか分からなかった。何でこいつは女装なんかしてるんだ。いや女装というか、化粧?つーかやるなら服まで気合い入れろや。何で服だけいつもと一緒なんだよ。
 的はずれな事を思いながら恨めしげに幻太郎を睨めあげるも、幻太郎は栗色の髪の隙間から眇めた視線を送り返す。睫毛は普段以上に濃く扇状に伸び、目蓋には艶色に光沢するアイシャドウが塗られていた。華奢な肩幅もあいまってか、初見であれば女性と言われても何の違和感もない仕上がりである。薄らと桃色に色付く頬を持ち上げながら「いやあ、乱数に張り切ってきてねと言われたので」と笑った。

「張り切ってって……俺らのチームは女装する変態集団かよ……」
「帝統も施してさしあげましょうか?道具は持ってきていますが」
「いらねーよ!ったく、何なんだよ今日は……」
「随分とお疲れのようですねえ……何かあったんですか?」

 白々しく口許を手で覆う幻太郎にイラッとしながらも、帝統は「何かあったも何も!」と語尾を強めた。

「……乱数の奴、女連れ込んでるなら俺らを呼ぶ前に先に帰しとけよな!」
「ほう、女性?」
「ああ。まあ俺を見るなりすんげえ形相で出てったけど……俺の方がビビっちまったぜ……」
「突然帝統のような身なりのものが入ってくればそれは驚きますよ。同情します」
「何で俺に同情しねーんだよ!」
「世の理です」

 しかしである。顎に指を当て、幻太郎はコテンと小首を傾げた。何か考えている表情なのには違いないが、その面の奥の本音を帝統は読み当てたことがない。今回も潔く探るのは諦め、頭を掻きながら「……そういや乱数は?」と疑問を投げかける。かつても家に呼びつけておいて当の本人の迎えがない事態は幾度もあったが、それにしても乱数は家のどこかにはいたような気がする。何かを仕掛けているにしても、そろそろひょっこりと姿を現してもいい頃だ。怒りをぶつけたい張本人がいないという事実に煮えたぎらない思いを抱えている様子の帝統は、やがて目を細めて盛大なため息をついた。

「大体よお、本人が不在だってのに人様呼ぶんじゃねえ」
「おや帝統、それがいつもご飯を提供していただいてる者の態度ですか?」
「そ、それとこれは別!……だろ」
「フフ。ここに乱数がいなくてむしろ良かったかもしれませんよ」
「だーー!悪かった!けど乱数がいないことには何も始まんねえだろ!」

 それもそうである。フリングポッセのリーダーはあくまで飴村乱数であり、幻太郎も帝統も彼の方針や指示に従うことが主で、こうして三人揃うのも乱数が招集しなければ叶わない。リップが塗られているせいか、普段よりも潤いのある唇をゆっくり開き「しかし、確かに遅いですねえ」一段落置いて、帝統を見つめ返す。

「乱数なら先程マンションの下で会ったのですが」







 
 走って走って走って、ただひたすらに走っていた。吐き出す息は荒く、心臓はドクドクと激しく鼓動を繰り返している。既に足の裏の感覚は麻痺していて、動かす度に今にも膝から崩れ落ちそうで、もう何が何だか分からなかった。体力の限界だってとうに超えていた。それでも後ろを振り返ればイケナイような気がしてひたすら足を踏み出し続ける。地面を蹴る度に弾けるものが汗なのか涙なのか自分の唾液なのかも分からない。こんなにも焦っている理由も、今となっては分からない。

「っ、はぁ、はぁ……っ!?」

 人通りの少ない住宅街にある、小さな公園。
 私はそれを見つけ次第、縋り付くように逃げ込んだ。ポツンと端っこに置かれたベンチに腰掛け、荒れ狂った息を整える。気管支が震えて、ヒュウヒュウと呼吸の中に悲鳴が混ざっているような気がした。いや、きっと悲鳴を上げていた。身体の内側から泣き叫ぶような熱が湧き上がって、溢れ出た汗がポタン、と地面に染みを残している。熱い、全身が炎に包まれてい?みたい。ただ座っているのもキツくなった頃には、上半身はズルズルと背もたれを伝って仰向けに寝転がっていた。ジリジリと陽は照っていて、灰になってしまいそうだった。熱い、暑い、あつい。今何度なんだろう、ていうか雲一つないんだもなあ、そっか。そりゃあ、あついか。

「……疲れた」

 思わず腕で顔を覆い隠した。
 目元が怠い。目元どころか、思考力さえドロドロに溶けたみたいだった。何一つ複雑なことは考えられなくて、頭の中にあるのはあつい、しんどい、苦しい、そんな言葉ばかり。ぴちゃん、と滴の弾ける音までが煩わしい。覆っているはずの腕を爛々とすり抜けてくる陽射しに、堪らずギュッと強く目を瞑った。
 そして、暗転。あれ、何でだろう。この感じ。重たいというか、眠たいみたいな。そう、眠たい、眠たいなあ。荒ぶる呼吸が落ち着いていくと同時に段々と意識が遠のいて、何度も首を横に振る。駄目だよ私、こんなところで寝たら。寝るならちゃんと布団に入って寝なきゃ、いつも言われてるのに。そう思っているのに、頭を動かそうにもびくともせず、杭でも打たれたように身体は持ち上がらない。暗くて暑い。けれどその分聴覚は研ぎ澄まされるのだろうか、先程までは自身の心臓の音しか聞こえなかったのに、今では潮騒のような蝉の鳴き声が耳の底で鳴り響いている。もう駄目だ、眠い。今すぐ寝てしまいたい。そうして意識が混濁の靄へと落ちかけた時、声が聞こえた。

「……名前」

 私の名を呼ぶ声、誰かが私を呼んでいる。けれどその声の主を認識することはできない。何度も何度も、私の名前を呼んでいる。砂利と靴底が擦れる音、段々と近づいてくる足音、私が返事をするまで、はたまたその姿をこの目で確認するまでそれは続くのだろうか。私の意識が先に落ちたが先か、声の主が口を閉ざしたが先か。ピタリと何も聞こえなくなった時には、私も真っ暗な世界に身を投じていた。何も聞こえなかった。セミの音も、自分の心音も、もう何も。

 

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