やすらかな依存を君に

 また夢を見た。
 林檎がぼとりと落ちる夢、奇妙な夢を。この間はそこで目が覚めたはずなのに、どうしてか今回の夢は途切れることなく依然として続いていた。これは夢だ、夢の中で夢だと自覚していることを、何て言うんだっけ。そんなことを思いながら自然と足は落ちた林檎の方へ向かっていく。ひたりひたりと触れる地面は柔らかく、青々とした初芝が絨毯のように終わりなく広がっていた。フサフサと足裏を擽る感触が気持ち良くて、意識はぼうっとしている。これこそまるで"夢心地"、というやつなんだろう。
 やがて足は止まった。目の前に聳え立つのは、大きな一本の木だった。見上げても全てを視認出来ないような樹の下で、ただ一つ落ちた林檎に、私は吸い寄せられるように手を伸ばす。そっと拾い上げたソレは酷く色艶で鮮やかな紅色をしていて、芳香な匂いを漂わせていた。食べてと言わんばかりの艶やかさに、ゴクリと喉が鳴る。何度も生唾を飲んだ。今すぐにでもかぶりつきたいような欲求に駆られていた。そう言えば、お腹空いたし、喉だって乾いた。今すぐこの林檎にかじりつけば、瑞々しい果汁は滑らかに喉を撫で、実の詰まった果肉はお腹を満たしてくれるんだろう。
 じっと両手に乗った林檎を眺めながら、狂おしいほどの誘惑に涎が垂れそうになる。分かりやすく私は葛藤していた。夢の中なのに、何をしたっていい私だけの世界なのに。駄目だよと誰かに言われたわけでもないのに。

 そして、我慢の糸が切れた。プツリと、あるはずのない糸の切れる音が、脳内に、この世界に、夢の世界に、響き渡った。
 気が付けばクシャリと勢いよく齧り付いている。自身の歯型の通りに齧り取られた林檎からは思い描いた通りにトロリと蜜が垂れ零れ、今まで味わったことのない甘さに体の底から多幸感が込み上げた。でもそれだけじゃ満足出来なかった。もう一口、あと一口、食べたい、食べちゃダメ、食べてもいい、いいよね、いいんだ。脳みそはもう蕩けて思考は泊まって、再び齧りつこうとした時には、真っ赤に熟れていたはずの林檎はどす黒く色を変えていた。
 あれ、何で──そう思う間もなく悲鳴を上げるほどの苦痛と吐き気が襲って立っていられなくなる。蹲って泣きながら助けを求めて、そして、暗転。

 
 飛び起きるように目を覚ました。
 ガバッと勢いよく上半身が持ち上がったかと思えば落下しそうな浮遊感に襲われて、ヒィ!と小さく悲鳴を上げながら慌てて両手で身体を支えきる。ぼやけた視界が明瞭になってくる頃には、自分が寝返りも打てないベンチに寝転がってることに気付いてとんでもなく驚いた。ゆっくりと本来の正しい体勢で座り直すと、額に溜まっていた汗がスゥと頬に垂れていく。呼吸を整えながら思わず両手で頬を触ると、寝ている時から汗をかいていたようで、肌はしっとりと濡れていた。……ああでも良かった、夢だったんだ。そう安堵するほどには、あまりにも苦しくて気持ち悪い夢だった。ゴクリと唾を飲み込むと、随分と喉もカラカラに渇いていて噎せそうになる。深く息を吐きながら顔を上げると、そこに広がるのは翠の芝生でも大木でも真っ赤な果実でもなく、何気ない公園の風景だった。……公園?そう疑問を感じるも、すぐにドクン、と心臓が早鐘を打ち始める。頭よりも身体の方が反応が早かった。
 行かなきゃ、ブラブラと宙に浮いていた両脚を地面につけて、走り出そうとして、「いっっっ!?」ギュッと固く目を閉じてその場に蹲った。さっきまで寝ていたせいでぼんやりとしていた意識も、刺さるような激痛で一気に覚醒する。吹き出るような脂汗と共に小さな呻き声が噛み締めた隙間から漏れて、恐る恐る目蓋を上げて足の裏を見れば、そこは赤黒く染まっていた。紛れもなく私の血だった。足全体が無数の切り傷や擦り傷ばかりで、そこから流れ出た血が砂利や汚れと混じって黒く固まっている。裸足だったことを思い出して驚けばいいのか、感じたことの無い痛みに泣けばいいのか分からなかった。浅い息を吐きながら両腕に力を入れて、やっとの思いでもう一度ベンチへと腰を下ろす。グロテスクな傷口を見たせいだろうか、先程までは感じなかったのに今でもジクジクと鈍い痛みが収まることはなかった。いっそ笑ってやりたかった。笑ってやりたいのに視界には薄い膜が張っていて、弾けるように色んな情報が一気に脳になだれ込んでくる。
 ──そうだ、私は、乱数さんから逃げ出したんだ。
 それだけを理解するのに、随分と時間がかかってしまった。走って走って走って、そして体力が尽きてこの公園へと行き着いて、馬鹿な私はそのまま眠りこけてしまっていたらしい。ベンチで眠ってしまうなんて常識以前の問題だと言うのに、信じられなかった。……そもそもこの公園は何ていう公園なんだろう。去り際のあの男性は当然乱数さんの知り合いなのだろうし、乱数さんにも既にバレてしまっているんだろうか。

 動かなくてはいけないのに、身体は重たかった。
 滲む汗が乾く気配は無い。むしろ身体の中心からじんわりと熱が込み上げて思わず空を仰ぐ。何も知らない群青色は突き抜けるように高かった。晴天の午後だからだろうか、高く昇った金色が何もかもをくっきりと照らしている。草花は澄み渡るような空の下で靡き、木々の緑は地面に広い影を落としながら揺れていた。 降り注ぐ金色の光も、眩しすぎるくらいに降り注いでいる。乱数さんの家の中はいつだってエアコンがかかっていたからか、こんなに外が暑くなっているなんて思わなかった。文明の器機に頼った生活をしていたのだから、いきなり外に飛び出して走り回ったりすれば、熱中症にもなるのは自明のことだったのかもしれない。
 ザァ、と初夏の風が長い髪を攫う。温く吹く風では火照った身体に少し物足りなかったけれど、深呼吸をして思考を巡らせていく。まずは、まずはそうだなあ、何をしたらいいんだろう。ポケットがある場所に手を当てても何か役立ちそうなものが入っていそうな膨らみは無い。そりゃあそうだ、これは乱数さんがにこやかに渡してきた試作のワンピースで、財布も入っていなければ当たり前にスマホだってない。文字通り今の着の身着のままで、その身一つなのだ。
 そんな私に考えられる今の選択肢は正直二つだけで。誰か親切な人が通りかかるのを待つか、歯を食いしばって地を這ってでも此処を離れるか、そのくらいだろうか。兎に角こんなところでじっとしていたら色々と良くないのは分かっていた。そうは分かっているのに、身動きが取れなくなってしまったと自覚するにはあまりに、不釣り合いな、良い天気だった。これがどんよりとした灰色であったなら、分厚い雲に覆われた日であったなら、もっと別の展開になっていたんだろうか。こんな目にあったと素直に受け入れられるような心持ちだったんだろうか。

「…………」
 何か行動しないといけないのに、焦燥感ばかりが昂って良い具体案が思い付かない。乱数さんが私なんかを引き戻すようなことはしないと思いたいけれど、彼が私の思っている『天使』なんかじゃないことが分かってしまったから。今はとにかく、そうだ、一郎に、皆に会わないといけない。
 そう思えば身体はすぐに動いた。ベンチの背もたれに体重をかけながらワンピースの裾を両サイドに、力一杯引っ張る。ビリ!と嫌な音をたてて裂けていく布を傷のある足へと巻き付けた。「いっ……った、!」綺麗なサテンの布地が血で汚れていく。試作だから縫いが甘かったのか、思いのほか簡単に破れたワンピースは、みっともないという言葉がピッタリな姿へと変貌した。こんな風に使ったと知れば彼は怒るだろうか。少しだけ、心苦しい──けれどその想いに蓋をして、一郎達に会うために、その一心で立ち上がって深く息を吸う。薄いサテンの布一枚が隔たれただけで、幾分か痛みはマシになったように思えた。それでも覚束無い足取りでフラフラと公園の入口付近まで歩き続けると、少し先の方でジャラリと金属の擦れる音がする。心臓が嫌な鳴り方をしたけれど、今更元に戻るなんて出来なかった。歩を進めていけば、もう一度ジャラ、と今度は先程よりも近くで音が聞こえる。恐る恐る視線を音の方へゆっくりと逸らし、そして目を見開いた。その正体を見て、歩んでいた足は止まり、ゆっくりと身体ごと尻込みになっていく。ズリ、と思わず退く瞬間に地面と足の裏が擦れて、悲鳴にならない痛みが喉元でくぐもった。心臓がこれ以上なく早く脈打っている。息が苦しい。浅い息を何度も繰り返して、眩しい太陽を背に、キラリと反射する銀色を理解しようと、この状況を理解しようと必死だった。ヒュ、と乾いた音が唇から漏れる。私が膝から崩れ落ちるのと、目の前の男が此方に向かって歩き出すのは、ほぼ同時だった。こわい、こわいこわい………助けて──そう願った先にいる人は、一体誰なのだろう。











「乱数さあ……」
「ん〜なあに?帝統!」
「なあにって……まあ人のプライベートにはあんまり口出ししたくねぇけどよ……」

 じっと帝統が頬をかきながら見つめる先にはソファの上でタブレットを操作する乱数の姿があった。タブレットから視線を外すことはないものの、いつもの弾むような声で乱数は「何さ、帝統のくせにハッキリ言いなよ〜!」と笑いながら言葉を返す。ハッキリつっても……と苦笑いを通り越し呆れた顔でその様子を見守る帝統は幾つか言葉を考えたものの、結局そのどれも飲み込んで「……悪趣味」とだけ言うと小さく溜め息を吐いた。すると乱数は不意にタブレットから手を離し、ゆっくりと帝統の座る反対側のソファへと視線を持ち上げる。大きな藍色の空を映したような瞳を三日月に曲げた彼は「どれが?」そう笑いかけた。どれがって……どれが!?思いのほか開き直ったとも取れる返しをされて、乱数の性格は分かってはいたつもりだった帝統も次の言葉が見つからない。「いや……それはだな……」モゴモゴと段々語尾を小さくしながら責められているような気さえする大きな瞳から視線を逸らしていけば、その先に幻太郎を発見した。コレだ!と思った帝統はすぐさま「そ、そうだ!幻太郎のこの格好とかもだよ!」呑気に急須で茶を入れる幻太郎にビシッと指をさす。突然話を振られた幻太郎は、それでも大して驚くことも無く「……およ?」といつもより長い長い睫毛を持ち上げた。

「男なのに化粧してくる奴がいるか!」
「帝統それは失礼ですよ。世の中にはじぇんだーれすというジャンルの人間も存在します」
「む〜、そうだよ帝統!幻太郎可愛いじゃん、さすが雪のなんとかのご尊顔〜!」
「雪解けの雫のごときご尊顔です」
「あ、そうだった!僕のバカバカッ!」
「自分で言うなよ……しかも俺が言いたいのはそうじゃなくてだな……!」

 結局、あの後数十分と経ってから乱数はいつも通り現れた。幻太郎曰くマンションの下ですれ違ったらしいが、コンビニに行ったような素振りもなく、かと言って家主のくせに家にいなかった理由を言うわけでもなく、ただただ「やっほ〜!今日は何して遊ぶ〜?」なんて笑いながら、自身の家のドアを開けたのだ。先程までいた少女について何も触れることなく、幻太郎の化粧についても何も触れることなく、至って普段通りの笑顔で。そうも自然に過ごされては何も切り出せず流されてしまうのが有栖川帝統という人間である。マイペースに話を進める二人を前に先程まであった怒りも、気付けば全て吹き飛んでしまっていた。ガツガツと最近流行りの宅配アプリを使って注文した炒飯を頬張りながら、すっかり当初のことなんて忘れて競馬の速報をチェックしていた時だ。何気なくトイレに行ってソファに戻ってくる手前、乱数の操作するタブレットの画面を見てギョッと目を見張った。何かいけないものを見てしまった気がしたのでそのまま席に戻り残りの炒飯を口に運んでいたのだが、彼の少しの良心により、出会い頭の記憶が再び甦った。思い出してしまえば、それ相応の何かがない限り忘れることは出来ない。特に面白いテレビもやっていない。ミーティングという名の雑談は一通り終わってしまったし、炒飯だってたった今食い終わってお腹は満たされている。いつもなら賭博をしにそのまま帰るところだが、今日は生憎、外は夏最高気温に達するとさっきのニュースで聞いてしまった。出来ることならもう少し日が落ちて動きやすくなるまでエアコンの効いた乱数の部屋にお邪魔したい。つまり、一度脳裏を過った事柄を帝統は忘れるに忘れられなかったのだ。
 そうして冒頭に戻るものの、乱数は飄々とした笑顔で帝統の質問を交わしていく。いつか幻太郎が暖簾に腕押しだ、と人のことを言えない感想を零していたが、まさにその通りだと思った。出会い頭の少女のことを聞いてもきっと乱数は何も答えやしないんだろうと、分かってはいるのだが。

「それに小生は乱数が撮影があると言ったので化粧を施してきたまでですよ」
「え〜!?そんなこと言ったっけ!ごめんねっ、折角お洒落してきてくれたのに活かせなくて」
「いや撮影だからって何で化粧すんだよ……」
「ふふふ、帝統も分かっていませんねえ。最低限のマナーと対策です。近頃のモデル界では化粧をしない男性は男色家と認定されあらぬ噂を焚かれた挙句身ぐるみ剥がれてピーをピーされると聞きましたよ」
「う〜ん。じゃあ来週のポッセの撮影会も危ないかなあ?」
「げっ!?ま、マジかよ!?つーか来週撮影会あんの!?」
「まあ嘘ですが」
「……嘘……ってことはやっぱりただの趣味じゃねえか!」
「違います。現在執筆中の作品に最近流行りの化粧男子を組み込もうと思いまして。その資料がてら」
「何だよ最近流行りの化粧男子って……」

 ツッコミを入れるのも面倒くさくなった帝統はジト目で幻太郎を見ているが、幻太郎は痛くも痒くもないようで「しかしまあそろそろ落としますか」と乱数にクレンジングの有無を聞き出す始末である。それに「うん、あるよ!」なんて答えている乱数も乱数だ。乱数は決して化粧はしていない。ならばクレンジングがある理由も、きっと女性絡みでしかないんだろう。ああ、頭が痛くなってきた……意外に苦労人な帝統はコメカミに指を当てて露骨に溜め息を吐いた。そんな彼を気遣うような口ぶりで乱数は「帝統大丈夫〜?」なんて棒付きキャンディを差し出してくる。人の気持ちも知らないで……と思いながらも、それはそれとしてキャンディは素直に受け取ろうと手を伸ばす。「……んにゃ!?」しかし、サラリとその腕は宙を切った。驚いて顔を上げれば、したり顔の乱数が蒼い目を細めながら帝統を見下ろしている。ソファに座っている帝統と、その前に立つ乱数。いつもの軽い悪戯かと思っていた帝統は、乱数の様子が違うことに気付いてゴクリと息を飲んだ。普段は小柄で子供じみた喋り方をするくせに、乱数の時折出すこの圧倒的な威圧感にも似たオーラが実は苦手だった。無意識に表情を固めたままでいると、後ろのソファで放置されているタブレットがピロリン、と通知音を響かせる。

「ねえ、帝統」
「……な、んだよ……!」
「今日ね、見たでしょ?」
「み、見た……?」
「うん、帝統はね、見てるんだよ。その子はね、僕の大事な子なんだあ」
「お、おい乱数……俺はまだ何も言ってねえぞ」
「だからね、帝統」

 もしかしたらパンドラの箱を開けてしまったのかもしれない……そう本能的に判断した帝統はタブレットに映っていた少女のことも、今朝の出来事も、全部をゴクリと生唾ごと飲み込んで、その薄い唇が「分かるでしょお?」と言葉を紡ぐのを見守っていた。一体何が分かるというのか。そう言いたかったが、乱数の周りを包む空気がそうさせない。

「でもでも、悪い子にはお仕置しなきゃいけないよね」

 帝統はヒクヒクと頬を引き攣らせる。もう誰に何を、なんてことも考えることは辞めていた。そんな一方的な問答も幻太郎がタオルで顔を拭きながら戻ってくることで呆気なく終了を迎え、「幻太郎おかえりー!」と駆け寄る乱数は先程の威圧感などまるでなく、それこそ小動物のように幻太郎の周りをぴょこぴょこと飛び跳ねている。顔を天井に向けたまま脱力する帝統は、やがてボフンと柔らかなクッションに横からダイブし、バクバクと鳴る心臓を押さえた。……こ、こっえ〜!あんな乱数久々に見たわ……!それはいつか幻太郎が乱数に踏み込んだ質問をした、あの時を彷彿させた。そして帝統は無かったことにしよう、と素直に思った。彼女は全くの無関係で、何も知り得ないただの女で、時折乱数が家に連れ込むオネエサンとやらの一人だと思い込むことにした。乱数に目をつけられるのは真っ平ごめんである。
 そう思って適当につけたテレビでは、報道ニュースが流れていた。何となくチャンネルを変える気にもならずぼうっと寝転がりながら画面の向こうで淡々と原稿を読み上げるアナウンサーを眺める。コイツ意外と厚化粧だな。おっこのニュースの次はスポーツ特集か。競馬の解説あっかな。ていうかこの辺で連続通り魔なあ。それも捕まってねえのか。物騒とも思えるニュースも上の空で他人事であるが、それ以上もそれ以下も彼には無い。

 ──いやになるくらい、こわいおもいさせなきゃね、
 そう呟いた乱数の言葉も、去り際に見た彼女の涙も忘れよう。だって決して有栖川帝統は正義のヒーローではない。なら、ヒーローではない帝統には、それは無関係なことなのだから。

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