おぞましい愛の噺

 名前を目撃した、そんな連絡が入ったのはとある暑い日のことだった。
 唐突に何の前触れもなく、喉から手が出るほど欲しかった情報が呆気なく目の前に舞い降りてきたのだ。どこの誰かも分からない相手はただ一言「名字名前をシブヤで見た」それだけ言うと電話を切ってしまった。ツーツーと無機質な音のみを反響させるスマートフォンを静かに耳から離した一郎は、暫く固まったようにその場から動かない。不審に思った三郎が「……いち兄?」と声をかけるまで、ずっと。
 弟の声でハッとしたように意識を戻した一郎は先程までの様子が嘘のように部屋の中を駆け回り始める。ついていけないのは弟二人だったが、切羽詰まったような、それでいて光が灯ったような一郎の瞳に何か勘づいたかのように顔を向き合わせた。そして予想は的中する。

「……名前がシブヤにいるらしい」財布とスマホをポケットに乱雑に押し入れた一郎の声が耳に届くが先か、彼等が動くのが先か。
 
 ソファに寝転がっていた二郎は目を見開いてその場に立ち上がり、三郎はガタンと椅子を後方に倒しながら一郎を凝視している。
 名前がシブヤにいる。どうしてシブヤにいるのだろうなんて、そんな些細なこと今はどうだっていい。名前がいる、いるのだ、少し離れたところに、しかし手の届く距離に確かに名前が。

「二人は此処にいてくれ。俺が行ってくる」
「い、いち兄!俺達も……!」
「二郎、この電話が嘘か本当かも分かんねえ。ただの悪戯かもしれねえしな。何かあったら連絡するから待っててくれるな?」
「……いち兄、電話の相手は……?」
「……さあ、な。非通知だった」
「非通知……?」

 三郎は考えていた。
 非通知でわざわざ一郎に、それもピンポイントで名前の情報を提供してくれるような、そんな都合のいいことが果たしてあるのかと。

「……毎日名前のことを聞き回っている意味あったのかな」二郎の喜びが滲んだ声に三郎も思わず頷きそうになる。
 疑わしい。怪しい。信用出来ない。けれど本当に名前が見つかったのかもしれないと、兄や自分達の成果が出たのかもしれないと、誠真実かもしれないと期待してしまう自分もいる。

 三郎がそうして立ち尽くしている間にも一郎は玄関のドアに手を掛けている。名前、名前。もしも本当にシブヤにいるのなら、それでいい。無事でいたならそれでいい。
 ただ。
 連絡も入れずに姿を消したことだけは、何があっても絶対に許さないけれど。

 情報通りの場所に辿り着いた時には、一郎の額には大粒の汗が滲んでいた。腰を曲げて荒い呼吸を整えながら辺りを見渡していれば、少し言ったところに閑静な公園が広がっている。シブヤつってもあまりに範囲が広すぎるよな……そう思っていたところに、心を読まれたかのように再び着信音が鳴った。そうしてまた一言、また一言、徐々にエリアが狭まっていく。己を導かれるかのように情報を与えられながら一郎はついにここまで辿り着いた。
 ここに名前がいるのだろうか。
 フラフラと引き寄せられるように公園の方へと足を進ませるけれど、情報がもし正しかったとして、どうして名前がこんな所にいるのだろう。脳裏に過ぎるのは高い声で笑うかつてのチームメンバーだった。アイツの家もこの辺だっただろうか、そんな嫌な予感を振り切りながら防護柵を跨ぎ中に入る。熱い陽射しがジリジリと背中を焼き、長い影を伸ばしていた。
 どこにいんだよアイツは。目を凝らしながら長い黒髪を探すが、名前らしき人影は見当たらない。というより、そもそも人がいない。やはり出鱈目な情報、あるいは悪戯だっただろうか。無駄足になりそうだと嫌な予感も過ぎるが、それでも縋るしかなかったのだから情けなく自身を笑いそうになる。ぐるりと公園を見渡して力の抜けた一郎は、フラフラとベンチに腰掛けた。ぼうっと空を見上げれば腹立たしいまでの青空が広がっている。まるで突き抜けるような晴天は、こんな日には似合わないというのに。

「……名前」

 そうしてひとたび視線を地面に下げた時である。下を向かなかったせいか、そこで漸く布切れのような何かが足元に転がっていることに気が付いた。何だこれ?やけにツルリとした表面をした布切れは、力づくで千切ったかのようなアンバランスさでヒラヒラと風に吹かれそうになっている。……布切れ?何だこれ。誰かここで手芸でもしてたのか?目を凝らしていたせいだろうか、サテン生地であろう布切れ周辺の砂がやけに赤黒いことに気が付いた。
 嫌な予感が今度は冷ややかなものとなって背筋を駆け上がる。こういった本能的な直感は悔しいくらいに的中することを本人が一番よく知っていた。
 おいおい、まさか……嘘だろ。
 ザリ、と足元で砂が乾いた音を立てる。思わず立ち上がってしまったものの、どうしたらいいのかは分からない。ただどうしようもない不安で胸の内が埋め尽くされて、いてもたってもいられない焦燥感だけが募っていく。……勘弁してくれ。名前、お前本当に何に巻き込まれてんだよ。静かに立ち上がる。こめかみを伝う汗が顎にまで到達し、ポタンと地面に弾けた。心臓が痛いくらいに脈打ってうるさかった。直感のような第六感を頼りに足が勝手に動いていく。口の中が渇いて仕方がない。それでもゴクリと息を飲みながら近付く先には、何かがあるという確信があった。やがて脚の動くスピードは上がり、段々と駆け足になっていく。
 土からアスファルトに変わった先に赤黒い染みのようなものが見えた。そしてそれは少し先の路地裏に続いている。そこに幼馴染がいるのか、名前がいるのか。いるなら返事をしてくれ、頼む、頼むから。そこにいるのなら、無事でいるのなら、どうか。

「……っ名前!!!!!」

 





 何事にもリスクというのは付き纏う。当たり前じゃないか、人生そんなに甘くない。何かを得ようとすればそれ相応の何かを覚悟しないといけない。例えば誰かに告白しようとしたら振られた時の大ダメージを想定しとかなくちゃいけないし、美味しい生牡蠣を食べようとしたら食中毒になることも自己責任で食べなきゃいけない。とまあそんなちっぽけなことは置いといて、そうでなくたってこのご時世なのだからと、口うるさく言っていたのは幼馴染の一郎だった。複雑な環境下で生きてきた私達にとってお互いの存在というのは幼馴染を超えた関係であるのは確かで、傍にいるのが当たり前で、特に何も用が無くたって一緒に過ごして、ある程度大人になって昔ほどは一緒にいられなくなってもその認識は変わらなかった。
 それなのに、数年前に一郎と突然距離が出来たような気がした。H歴になってから少し経った時のこと。私に隠れてコソコソと何かやってるみたいだった。私は自分でも自覚している世間知らずなので、彼等との距離を埋める為にスマホを購入しフル活用するようになった。まずはチャットから。突然の怒涛の愛情表現にどう返せばいいか困惑していた三郎は毎日送るメッセージに段々と応えてくれていたし、鬱陶しそうにしてたって私が風邪を引けば丸一日付きっきりで看病してくれた。夜遅くなると言った時は、自然と二郎が家まで送ってくれるようになった。作戦は大成功である。三郎におやすみとメッセージを送った後は、離れかけていた一郎と寝る寸前まで電話をして寝落ち電話をするのがいつしか日課になっていた。みんなみんな、なんやかんやで私と繋がってくれてた。離れたと思っていた一郎がまた此方に戻って来てくれて、萬屋を始めて、皆で過ごす時間が前以上に多くなって、それが全部だと思ってた。
 H歴になって、暴力が無くなって、戦争が無くなって、平和になったんだと思っていた。きっと甘やかされすぎて脳みそがアイスクリームになってしまったのだと思う。デロデロに溶けちゃって平和ボケして、一郎達がいればこの小さな幸せがずっと続くと思い込んでた。何も知らなかった。自分の見てるものだけが全てだとお花畑なことを考えてた。馬鹿だった。
 一歩外を出たら危険な出来事なんてそこら中に転がっているっていうのに。私が私であるように、一郎達にだって自分の世界がある。私の知らない彼等はいる。事実、私は今になってもあの時一郎が何をしていたのかあまり分かっていない。伝説と呼ばれるチームにいたらしいことは知っているけれどそれ以上もそれ以下も何も知らない。そんな当たり前の事にもまるで気付かなかったのだ。三郎の言葉を借りるとするなら、私は低脳な大馬鹿者に違いない。

「……ら、むださん」
「あっはは〜なあに?」

 くるりと横髪を揺らしながら振り返った乱数さんは、目の前に転がっている男の上でニッコリと笑ってみせた。文字通り伏せた背中の上に乗って。「間に合って良かったぁ。怪我は……う〜ん、まあそりゃあるかぁ」そうして目線がゆっくりと情けなく地面に崩れ落ちている私の脚元へと落ちていく。同じように私も自分の様子を改めて眺めるけれど、酷いものだった。乱数さんに貰ったワンピースの裾は不格好に千切れ、足の裏から黒くなった血が滲んでいる。きっと顔面だってボロボロだ。目蓋は重いし、瞬きするだけでじんわりと染みてくる両目はきっと兎の瞳さながら真っ赤に充血しているに違いない。そんな私を暫く無言で眺めた後、乱数さんはぴょん、とそれこそ兎のように私の前で膝を抱えて座り込んだ。

「うわ……いったそ〜。よくこれで歩けてたね?」
「……」
「ねえ、痛い?名前」
「……っ、」
「名前ってば〜僕のこと無視するなんて、めっ!だよ。それともなあに?ビックリして声が出ない?」

 乱数さんの右手には、いつの間にか見慣れた棒付きキャンディーが握られている。私はそれが薄い唇に運ばれるのを眺めながら、震える身体を押さえつけるのでいっぱいいっぱいだった。色々ありすぎた。もう全て訳が分からなかった。突然刃物を持った不審者に襲われかけたのも、寸前のところで突如乱数さんが現れたことも、そうして乱数さんが助けてくれたことも。一歩乱数さんが来るのが遅ければどんな目に遭っていたかなんて容易く想像がついてしまう。ゾクリと背筋を駆け上がる悪寒に自分の肩を両腕で抱き締めた。実のところビックリして声が出ないというのは正しい。けれど、その理由はきっとこれだけじゃない、
 ──でも、そりゃそうじゃないか、だって、だって。
 何度強く目を瞑って開いても、眼球の奥がじんわりと痛むだけでこの状況は何も変わらない。ゴクリと生唾を飲み込んでもバックンバックンと今にも飛び出てきそうな心臓はまるで落ち着かない。
 私は乱数さんの家から黙って逃げてきたのだ。今日は夜まで帰れないって、そう言っていたから。大事な用事があると言って外に出たから。それなのにどうして乱数さんが此処にいるのだろう。どうして私の居場所が分かったのだろう。考えても結論は出やしない。きっと乱数さんにしか分かり得ないことだから。
 不安で喉が詰まって返事が出来ない私を見つめ、にっこりとした笑みを浮かべたままの乱数さんは飴玉を転がしながら口を開いた。「でもね、」そんな前置きをして。

「駄目だよ名前。勝手に家を出ちゃ。帝統もビックリしただろうし!僕、ほんとに心配したんだからねっ!」
「……帝統?」
「もー!僕ん家で会ったでしょ?えーっとね、髪の毛は紫色でコート着てて……う〜んサイコロ付けてる男の人だよ!」

 ひやりと冷気が差したみたいだった。その情報だけで簡単にあの時の光景が頭の中で再生され、寒気に似たものが再び全身を駆け上がっていく。どうして、そんな言葉が真っ先に思い浮かんだものの、乱数さんのお家に訪ねてくるくらいなのだから彼が乱数さんに言ったのかもしれない。それで戻ってきたのだろうか。夜まで帰ってこないような大事な用事があっただろうに、私なんかの為だけに。戻ってきて私を探した?それとも、それとも。

「さあ帰ろう、名前」

 無垢な笑顔だった。あどけなくて、無邪気で、お茶目で、私が知っている天使のように花が咲いた笑みを浮かべて彼は言う。
 僅かにかいていた汗はすっかり乾き切り、全身の熱を奪い去っていく。まるで氷が浮かぶ冷水に浸かっているみたいだ。

「名前に僕の仲間を紹介したいんだ〜っ!きっと気に入ってくれると思うよ!」

 それとも乱数さんは、初めから全部知っていたのだろうか。

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