私が呼ばれなかったのには、まあ、まあまあ不満はあるが、“彼”がそうしろと仰るのなら、私は従うしかない。
思えば私は、誰かに“恋愛感情”抱く時から、どっぷり彼に浸かっている、最早此れは呪縛と言って良い。
私は本来、女性が好きな性質であったが、何を如何間違ったのか、同じ性別である彼に、身も心も、臭く云えば愛の奴隷になっていた。
愛の奴隷、か。
本当にね。離縁した妻とて、何処か彼の雰囲気を持っていた。

貴方に全てを捧げます――。

此れで私の人生は決まってしまった。
全く如何かしていると思うよ。前妻からは、女に取られるなら未だしも男に取られるなんて……と嘆かれては居たが、彼は、性別等越え、私の人生に滑り込んで来た。

御前とコンビを組む事になった、多少遣り難い男かも知れんが、宜しくな。

差し出された手を握ったのが、墜落の始まりだった。
私はすっかり彼に絆され、何時しか彼を、恋愛対象で意識し、戻れぬところ迄来ると、惚れてしまった。
正直妻には泣かれたが、彼を傷付ける事の方が何倍も嫌で、同時に、何食わぬ顔で彼を傷付ける“先生”に良い思いしなかったの、不思議と当然であった。

あんな、宗廣はん、ほんま、彼奴を救ってくれんか……

恋敵からそう云われ、彼の人生を受け入れるには未熟で不充分な私だが、だったら受け入れようではないかと思ったのは事実。彼が此れ以上傷付かないのなら、妻と離婚するのも構わなかった。
私は妻を捨て、子供が居なかったのが幸いだった、禁断の果実の味を知ってしまった。
其れはとても、甘美で、何にも変えられぬ甘さを持った果実だった。

ほんまな、此奴、とんでもない男好きなんよ…、男好きで、肉体も精神もぐちゃぐちゃにされんのが好きなんよ……、だからと云って誰も愛さへん、そんな男なんよ…。

御前は其れに打ち勝てる…?
最早挑戦だった。
彼の重度の淫乱加減は病気に近く、ゾッとする背徳であったが、縋り付き、愛情を求める彼を突き放せなかった。
云うではないか、エデンの果実は、とてもデリシャスだけれど、非常にデンジャラスだと。其の甘さに、溺れてしまうと…。

愛して……。

彼の言葉に私は全てを投げ売った。
「今晩は、菅原さん。」
「ほんま大丈夫、何も無い…」
酔いに任せる彼は笑うだけで、エデンの果実に溺れた私達の気持ち等知らぬ。
確かに貴方は、真実(菅原さん)の愛で傷付いたかも知れないが、其れを見て来た私は、貴方以上に傷付いている…其れを貴方、御存知ですか?
「ほら、大丈夫ですか?誕生日だからって、羽目、外し過ぎですよ。」
「大智ぃ……」
其の一言で充分だと納得するのに、此の苛立ちはなんだ?
彼の肉厚な唇から私の名が漏れたというのに、薄ら寒い薄情な唇が歪むのは見過ごせなかった。
私はそんなに、彼の嫌った支配をしてしまうのか?
「珈琲でも、如何です?あ、標準的な意味で。」
午前二時前、先生は私の申し出に素直である。
先生は京都出身、詰まり、己の存在を快く思わない私の云った“珈琲如何です?”を京都ニュアンスで取られると思い、態々言葉を付け加えた。
面倒臭い人種である、京都人。
「ほんなら一杯だけ、招ばれましょ…」
珈琲は確かに一杯、されど、カフェインによって放出される快楽物質では無い非の快楽を、貴方は充分に知ってらっしゃるのでしょう?
先生が溺れた楽園に、今では私がどっぷり浸かる。
なんなのだ、此の方は…。
男を自堕落させる為に生まれたのか…?
「お、御前等、未だ居ったんか。」
我が家にはシェパードが二匹居る、此れ全て、現役を退いた元警察犬で、かなり高齢である。そろそろ来るかも…と私は不安だ。
犬達に愛情は確かにあるが、彼等が死ぬ事によって受ける彼の精神的ダメージが不安なのだ。
彼等は先生の足に鼻を押し付け、匂いを嗅ぐと太い尾をゆっくり動かした。
「あはは、覚えててくれたか。」
「御影、千影、いらっしゃい。」
先生に懐く…其れが気に食わない心の狭い私は、キッチンから彼等を呼んだ。一斉に振り向き、又一斉に其の場から離れた。
例え犬でも、彼の所有物が先生に懐くのが気に食わない。抑彼等、私に懐かない、尻尾の一つさえ振らんのだよ、此奴等は。昔から。
其れを引き取った時私が嘆くと、だって御前は上司じゃないか、と彼は云った。
そう此の二匹、元は私が顎で使っていた。敬意が滲み付いているから、今更対等にはならんだろう、と彼。尻尾は振らないが、私が褒めると、えへ、と舌出し笑う。だからまあ、可愛くて仕方ないのだが。
「…嫌ぁなぁ、犬でも近付けんか。」
「はい、珈琲です。」
ぶっきら棒にカップを渡し、もう一つのカップをテーブルに置くと、ソファに沈む彼を揺すった。
「珈琲、入りましたよ。」
「…うん。」
起き上がった彼はカップを傾け、一息付くと何故に先生が此処に居るか判らないと云った顔で私を見、風呂入って来る、と壁を伝った。其の前後に賺さず彼等が張り付き、風呂場迄誘導する、そして監視をする。
何故そんな事をするか。酔った彼が中々風呂から出て来ず、シャワーの音が長々と続いたので何してるんだろうと覗いたら、シャワー出しっ放しに椅子に座った儘寝ていた。そうもあれば、脱衣所で寝ていたり……彼が酔うと、一番苦労強いられるのは彼等だったりする。
我が家は中庭があるのだが(中庭を囲むように設計されている)、二階のテラスから、其処に落ちようとした時もある。硝子の手摺から上体出し、其の背中を二匹が必死に引っ張っていた。
兎に角、酔った彼は自由気儘に、何故か死に向かって居るのである、気が気じゃない。
「相変わらず生活感無い、モデルルームみたいな家やな。ええ家なのに。」
ソファから立った先生は其の儘中テラスに出、中庭を見下ろした。窓から、冷気が入る。
「元は、貴方の家でしょう。」
「あっはっは、そぉでした。慰謝料でやったんやったわ、あはは。現金なんか要らん、此の家寄越せ、やもんなぁ、ひっどい男。」
手摺に両肘乗せた先生は顎を反らし、カラカラ笑う。
「世谷の此処に此れ程の家…、嘸、掛かったでしょう…?」
私の皮肉に先生は顎を引き、垂れた目でじっと見ると、胸から笑い声を迫り出し、仰け反った。
「なぁんでいっつも、喧嘩吹っかけて来るんですかねぇ、貴方は。」
「……此れは失礼、そんな積もりは無いんですよ。」
「あ、そう。」
近付いた気配に私は視線を落とした、一匹がじっと私を見、呼んでる、と教えてくれた。
「一寸失礼。」
「んー。」
「……さ…ん、如何されました?」
「バスローブ、何処だ…」
「バスローブ…?あり……嗚呼…!…此れは失礼を…。今お持ちしますね。」
何時もは、バスローブとタオルを脱衣所にセットし、準備が出来た後彼は入るのだが、今日はうっかり先生に掴まり、すっかり用意を忘れた。
此れは、失態である…。
バスローブとタオルを持つ私に先生は視線を向けるだけ、彼にきちんと渡し、戻ると、あんたアホやろ、と云われた。
彼の要望で、脱衣所に洗濯機が見えると生活感漂って美しくない、と洗濯機は隠してある。丁度、キッチンの横にあり、木目のアコーディオンカーテンを開き、濡れたタオルを洗濯機に入れた。
「…喧嘩、売ってます?」
「御前、其れ、旦那やのぉて、執事と違うか。」
「何とでも。」
カーテンを引き、其の儘私はキッチンに向いた。先生は其れをテラスから眺める。
「何を作ってるんですかね、貴方は。さっきからちょこちょこ動いて。」
「温めた無調整豆乳にきな粉と黒糖を入れた物です。」
「何?其の女子力高い飲み物…」
「彼の方が飲まれるんです。私じゃない。」
タイミング良く彼がキッチンの横に立った、私は先生を見た儘彼に渡し、飲んだ彼は鼻で笑うと空のカップをシンクに置いた。
「此奴、なんで居るんだ?」
「そうですね、早く帰します。」
「邪魔だよ、帰れ。」
テラスに出た彼は其の儘ウッドチェアに座り、びったりと彼等を横に付けた。
「いやいや、俺、貴方の運転手ですよ?」
「ふぅん。じゃあ、尚の事帰れよ。」
なんで運転手が家の中に居るんだ、と彼は私を見、グラスをテーブルに置いた私は、さあ、と首とスパークリングワインの小さなボトルを傾けた。
フルートグラスの中で浮上する泡は、彼に見えた。ふわふわとした、美しさ。
「図々しいんですよ、此の方は。」
「嗚呼な、知ってた。」
「未だ飲むんか、御前…」
「喧しいな、早く帰れよ。」
「珈琲、もう一杯お持ちしましょうね、貴方。」
「そうだそうだ、お代わり要るか?要るんだろう?ん?」
「いいえ、結構ですぅ。」
不機嫌な顔でリビングに入る先生に彼はくつくつ笑い、グラスを傾ける。
「おや、今持って来ますよ?」
「長居しました、大きに。」
「送って来ますね。大人しく飲んでらっしゃるんですよ。」
私の言葉に先生は一瞬嫌な顔をしたが、私は見なかったように薄く笑い、玄関迄送った。
靴を履く先生は、次の攻撃はなんだ、と構えていた。
「…彼奴のバイク、署にあるからな。」
「はい、伝えておきます。」
「ほんなら…お休…」
「…………菅原さん。」
ほら来よった…、と先生は握っていたドアーノブから手を離し、無言で項垂れた。ごちん、と額をドアーに付けて。
「……なんでしょ…」
「許して、ませんから、私。」
「はい、はい…本当に申し訳無かったと…」
丁度一年前、彼と先生は数年振りに再会した。引き離せない二人は、矢張り如何やっても巡り会う結果で、一年前もそうだった、其処から彼の熱情が噴いた。
先生が目の前に再び現れた瞬間から私は、こうなると判っていたが、黙って見ていた、何時彼の熱が冷えるかと。したら案外長くて、大丈夫だろうか……思った矢先、案の定彼が堕ちた。楽園と云う、地獄に。
此の方は本当に。
愛情を求める程堕ちてしまうのだから。
「返して頂けたので、良かったですけど。」
私は爪を眺め乍ら答えた。
「俺が云えたアレやないけど、管理して…?貴方、番犬でしょ…?」
「私がきちんと管理してても、貴方がセキュリティ解除するじゃないですか。」
楽しかったか?あの半年は……。
爪に息を吹き掛けた私は視線だけ動かし、先生を見た。ざり、ざり、と掌を爪で撫で、ゆっくり瞬きを繰り返した。
「…慰謝料、払ろたら、ええの…?五百万位…」
「彼の方の愛情を金で解決出来ると思うなよ。そして、安い。そんな端た金で許されるか。」
「あ…、結構上乗せた金額言うた積もりなんやけど…、あかんかったか…?」
「如何云う計算なんだ。」
「あの二年間の慰謝料が、此の家やろ?そっからなんか、計算した。」
「…此の家、二千万、なのか……?やっす…、崩壊しないか?え?大丈夫か?」
「な訳あるか。億掛かってるわ。土地で五千万は行ってるわ。」
「ほらな、五百万位なんて計算、おかしいだろうが。」
「あー、しくった。言うてしもたわぁ。」
先生は戯けた表情で口を塞ぐ。そして、真顔になり、私の肩を叩いた。
「此れで本当に終わるよ。もう年だしな。最後に楽しかったよ、有難う。俺の負け。俺が最後に、負けたよ。人生、二束三文で売り飛ばして、来たんだけどな。」
耳元で囁かれた言葉。
先生はゆっくり身体を離し、静かにドアーを閉めた。
私達は、何処迄彼に翻弄されたら良いのうだろう、何処に行き着いてしまうのだろう。
先生の云った“負けた”は、私にでは無く、彼に――最後の最後に、俺は御前に惚れて、捨てられたよ、そういう意味である。私は端からお呼びでない。
一つの林檎の実、私達は此れを奪い合った訳ではない、林檎を食べる先生を眺める私に先生は、食べたいの?、と其の残りを渡しただけ。殆ど芯しか残らぬ其の林檎を、私は受け取った、芯に絡み付く蜜に舌を這わせた、其れが至高の物だと、錯覚させられて。不敵に笑う先生の口元に気付かず。
本当に美味しい場所は、先生、貴方が食べ尽くしたのに。
私は忘れない、初めて知った林檎の味を。
「……遅い。」
「済みません。寒くないですか?」
「寝よう。」
「はい。」
「歩けん、運べ。」
「……はい。」
彼を抱える私を見る彼等は、軽い足取りで後に着く。
「あ、そうです。完全に忘れてました。」
ベッドに座らせた時、いや…彼の部屋に漂う香りに思い出した私は机から箱を取り、布団に潜り込む彼に渡した。
「美麗からです。」
箱からでも判る、其の白檀の香り。鼻に付けた彼はゆっくり吸い込み、満足すると私に渡した。
「お休みなさい。」
「今日は一緒に寝る。」
「そうですか。」
私は、間違えてワインを渡したか?何時も通りのワインだった筈。
なのに、何だ、此の味は。
此の味は、そうだ。

俺を出口の無い楽園に突き落とした味――。

「愛してます、本当に……」
赤い舌を覗かす彼の唇から、林檎の味がした。




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