金糸の睫毛

 七月の昼下がり、蝉の声をかき消すように、品のないインターホンが一回、二回、……三回。
こんな風に無遠慮に来訪を教えてくるやつは一人しか知らない。少なくとも、僕の知り合いにはあいつしか。

 畳に敷いたせんべい布団を片付けもせずに、「よっこらせ」なんて年寄りめいたつぶやきとともに立ち上がる。
 窓も戸も隙間なく閉め切ったこの部屋は、ずいぶんと涼しくて快適だ。でも、きっと、外は目眩がするほど暑いんだろう。窓越しに立ち上る蜃気楼がその証拠だ。めったにテレビを見ない僕は、今日の最高気温なんか知っちゃいないけれど、猛暑日にちがいない。


「ユキー、ユキヤー、おーい、いるんだろ? あっちぃんだよ、早く開けてくれー」


 相変わらずせっかちなやつだ。インターホンを鳴らしてから、まだ三十秒も経っていない。
壁の薄いこのアパートで大声を出すのは、はばかられるので、代わりにわざとらしく廊下を踏み鳴らしながら玄関へ急いだ。

 錆びついたチェーンを外して、勢いよくドアノブをひねる。ドアを押し開けると、いやに甲高い音がして、不快さに眉根を寄せていると、両手で大げさに耳を塞ぐあいつがいた。首や額にいくつも汗の玉を浮かべている。


「……手ぶらかよ、クソ良太」

「今日くらいガマンしろよ、暑いんだって、本当に。あとクソってなんだ、クソって」

「石田のおばちゃんのたいやきが食べたいなー」

「無視か。そう言うと思ってたよ。でも残念、たいやきは夏休み中だとさ」


 なるほど。年にしてはしわの少ない顔で、軽快に笑う姿が目に浮かんだ。
この暑さではたいやきだって逃げ出したくもなるだろう。一昔前に、そんな歌がヒットしたことを思い出した。

 少し立ち話をしているだけでじんわりと汗がにじむこの暑さに、僕自身も耐え兼ねて、仕方なしに良太を家に上げる。二人分の体重で軋む床の音が、まるで悲鳴みたいだと思った。


 部屋のドアを開けると、十分すぎるほど冷やされた空気が足元に絡みつく。汗で湿った肌に居心地悪く馴染んでいく感覚が、やけに吐き気を誘った。
 だから夏は嫌いなんだ。身体中のありとあらゆる感覚が過敏になって、そのくせ心は麻痺したみたいにうまく機能しない。

 うだるような暑さから解放されて、ばかみたいにはしゃぐ良太は、きっとそんなこと考えもしないんだろう。あいつはそういうやつだ。繊細さなんてどこにも見当たらなくて、いつも身軽そうだ。そういうところを少しでもうらやましいと思ってしまったことは、墓場まで持っていく、予定。

 良太がそこら辺に投げてあったうちわを手に取り、粗雑に置かれた座椅子に座った。紺色に染められた麻布のカバーを、手触りがいいと母がいたく気に入って購入したものだったが、思いのほか座り心地が悪かった。うちで使う人はいないので、あれは良太専用になってしまっている。

 人の家で堂々とくつろぎ始めた良太を横目で確認して、お茶くらいは出してやろうかと台所へ向かう。食器棚からなるべく綺麗なコップを二つ取り出し、水道水で軽くすすぐ。おざなりに水気をはらって、二、三個氷を落とせば、ガラスとぶつかって、からんといくつか音が鳴った。束の間の涼を感じながら、年季の入った冷蔵庫からパック麦茶のボトルを取り出してみれば、残りはもう一杯分しかなかったので、ため息交じりに水道の蛇口をひねる。もちろん麦茶が僕の分で、水道水は良太の分だ。

 まだ暑い暑いと言いながらうちわを忙しなく仰ぐ良太に、水の入った方のコップを差し出すと、嫌な顔を隠そうともせず、かと言って手ぶらで押し掛けた負い目があるのか、唇を尖らせながら黙って受け取る。
 そんなことしてもかわいくねーよ、と思ったがこんなのはわざわざ口を開いて言わなくたっていい。食いついてきて面倒なだけだ。たばこと同じ、百害あって一利なしってところだろう。

 敷きっぱなしだったせんべい布団を足で蹴飛ばしてスペースを作る。壁に立てかけてあるちゃぶ台を組み立てて良太の前に置き、その向かい側に僕も腰を下ろした。僕の尻が完全に床に付くを見計らってから、良太がそういえば、と切り出す。


「おばさんは? 今日はいねえの?」

「昨日夜勤だったみたいだから。泊まり込みでそのまま出勤してるんじゃない」

「看護師って大変なんだな、やっぱ。テレビだけじゃよくわかんねえもん、そういうの」

「そうかな。大変じゃない仕事なんかないだろ」


 そうだけどさー、と水道水を一息に煽る。その勢いで気管に入ったのか、げほげほとむせながら右の拳で胸の辺りを叩く。その一連の流れを、僕は呆れながら見ていた。こいつには明らかに落ち着きというものが欠けている。

 ようやく楽になったのか、大きく息を吐き出した。


「……ユキはさ、高校どこにいくの」


 やたらと唐突だと思ったが、あいにくなことにそれに返すだけの言葉を持ち合わせていなかった。
決めかねていたのだ。特筆するほど僕の成績は良くなかったし、良太の成績もきっと同じようなものだろう。行くところがないほど悪くはないし、このままでも十分進学先はある。頑張ればもっといいところに行けるかもしれない。中途半端は世間が思うより楽じゃなかった。

 そのなかで一つはっきり言えることは、母子家庭の僕に私立高校に行くという選択肢はないことだった。
庶民と呼ぶには裕福な家庭に生まれた良太には、もっとたくさんの選択肢がある。塾に通えば進学率の高い私立高校にだって行かせてもらえる。良太がそれを望むなら、手放しで与えられる選択肢だ。
 僕は良太が当たり前にもっているそれを、欲しいとは思わない。ただ、僕になくて良太にあるものを比べては、湧き上がる心悲しさに身を焼かれていた。二人の間にある決定的な違いを、僕にはどうすることもできないのが、もっと苦しかった。

 返答に詰まった僕を、黙秘と捉えた良太が「俺はまだ全然決めてなくてさ」と隠すように笑い飛ばす。その言葉に可愛げのない悪態を返すことで、この話をなかったことにしたかった。

 限られた選択肢で狭い世界を生きる僕と、無数の可能性の中で広い世界を生きられる良太が道を分かつ日は、もうすぐ傍までやってきていた。たった十五年しか生きていない子供に引き留めておくほどの力はなかったし、かと言って泣き落とすほど子供にもなりきれない。

 これ以上良太の目の前に座っていたくなくて、先ほど蹴飛ばしたせんべい布団の上に寝転がって頭からタオルケットを被った。小まめに洗濯をしているおかげか、やさしく香る柔軟剤に胸がすかれた。


 そのままうとうとと目を閉じかけたとき、誰かが上に乗ってきた。良太だ。突然の衝撃に睡魔もどこかへ吹き飛び、文句でも言ってやろうと顔を出す前に、タオルケット越しに耳元で低く名前を囁かれる。見覚えのある状況に体を固くしていると、被っていたタオルケットをはがされた。身体をよじらせて見上げれば、熱っぽい瞳が切なく揺れている。

飲みかけの麦茶の氷がからん、と音を立てたのを合図に、すべるように唇が下りてくる。

流されるように、僕は静かに目を閉じた。



*




 西陽の眩しさに、ふと目が覚める。あれから大分時間が経ってしまっていた。壁掛け時計の短い針は六時をゆうに回っている。
 特有の倦怠感から動く気がしなくて、ため息をこぼしたのは無意識なんかじゃなかった。隣では半身が畳にはみ出しているというのに、未だぐっすりと眠りこむ良太がいる。


 夏休みは、こうして二人で耽ることが多かった。
良太が気まぐれに家を訪れては、なにかに急かされるように事に及ぶ。

 この行為には意味も価値も何一つなかった。生産性もない。これは駄々をこねる子供のわがままだ。
僕も良太も、このやり場のない思いを、文字通りどこにもやる宛てがなかった。お互いに押し付け合うことでしか伝えることができない。

 見上げれば、冷房の送風口が規則的に動く様子が目に留まる。少し前に買い替えた最新型のエアコンは、この古いアパートには過ぎた代物だった。いかにも清潔そうな白いボディには汚れひとつなく、黄ばんだ天井から不自然なくらい浮いている。

 重たい身体を起こし、そこら辺に投げてあったリモコンを拾い上げて消した。さっきまで休みなく動いていた送風口が緩慢に閉じていくのを確認してから、ぴったりと閉め切っていた窓を開ける。途端に湿気をはらんだ暑い空気がなだれ込んできた。ついでに部屋のドアも開けて風の通り道を作ってやるが、空気はこもるばかりだ。


「……あつい…………」


快適に眠っていた良太が、眉間にしわを寄せながらつぶやく。


「起きろよ、もう夕方だ」

「……まぶしい……カーテン閉めて………」

「こもるからヤだよ。ガマンして」


 少しずつ意識がはっきりしてきたのか、のそのそと身体を起こす。うなりながら大きく背伸びをすると、肩なのか背中なのか、ぼきぼきと小気味の良い音がした。Tシャツの胸元でひとしきりあおぎ、またせんべい布団に倒れこむ。


「おい、だから起きろって言ってるだろ、」


僕がそう言い終える瞬間、食い気味に強い力で腕を引っ張られた。不意をつかれて抵抗もままならず、僕まで布団に寝転がるはめになる。


「良太、いい加減に……」

「ユキ、俺はさみしいよ」


どくりと心臓がひときわ大きく跳ねた。握られたままの腕がきりきりと痛む。


「……俺はさ、多分ユキと同じ高校には通わない。無責任に離れても一番の友だちだ、とかも言えない。それでもお前を手放したくない」


さみしいんだよ、ともう一度すがるように言った。ぎゅうぎゅうと僕の体を抱きしめる。

 どこか遠い異国の人が、ボキャブラリーが感情を凌駕することは永遠にない、と言った。それでも僕は、この気持ちに名前をつけて教えてしまいたかった。みっともなく揺れる感情を、知っていてほしかった。


「……あついよ、良太」

「…………うん」


「――このまま時間が止まっちゃえばいいのに」


 この街の時計だけ止めてしまえればよかった。都会の喧騒も、虫の声音も、何もかも置き去りにして、この街は夏に取り残されてしまえばいいんだ。

 それがあり得ないということを、僕も良太もちゃんとわかっている。西陽はいまにも地平線の向こうに沈もうとしているし、時計の針だって止まったりはしない。

 それでも、明日も明後日もその次の日も、ずっとこのうだるような暑い日が続けばいいと思う。暑いのは嫌いだし、蝉の声も、もううんざりするほど聴いた。エアコンの風には飽き飽きしているし、日の長さにも夜の短さにも、特別に心が動くことはない。けれども、この時間の尊さを失わないためならば、そのどれも我慢できるだろうと思うのだ。

 そうして永遠にこの夏が終わってほしくないと思う反心、明日には風が冷たく吹きすさぶ真冬がやってくるような気がしてならなかった。背反する気持ちに踏ん切りをつける方法を、僕は忘れてしまった。


 ふっとやわらかな風が吹いて、どこからか幽かに梔子の香りを連れてくる。むせかえるほど甘いこのにおいが、僕は存外好きだった。

 薄い壁越しには、売れないロックミュージシャンが今日も安っぽいギターの弦を爪弾いている。

 ゆっくりと目を閉じた良太は、隣から漏れ聞こえるへたくそな旋律を、とかく気に入ったようだ。ギターの音に合わせ、途切れ途切れに鼻歌を合わせる。静かな呼吸とともに、陽の光に照らされた睫毛が揺れた。


「良太」

「ん?」

「なんでもない」

「なんだそれ」



時代の流れに取り残されたこの古ぼけたアパートで、僕らは確かに夏のなかにいた。

2014.09.17
2017.07.23 加筆修正