01

 足音が聞こえる。……悍ましい、足音。自分を恨む大人たちの足音と、それから、親しい友人の足音。
 ……そのはずだ。そのはずなのに、今の美咲にとってその事実は恐怖にしかならない。

 どうして、どうして、と、己の中に疑問が渦巻く。どうしてあの子がそちらにいるの、どうしてわたしを追いかけているの。
 その自問に自答は非ず、事実は彼に聞くほか無いということは齢十三の彼女にも容易く理解できることだった。それでもその理解を超え、疑問はただひたすらに美咲を飲み込んでいく。
 やがてその疑問は美咲を追い込む。どうしてという疑問すら浮かばず、口を押し広げるのは別の感情だった。


「……助けて、美翔……」


 ぽつり、と懇願が零れる。零したところで答えは返ってこず、それどころかこの状況はきっと彼──美翔が原因で引き起こされたものだろう、ということはわかっていた。それでも、美咲にとっての美翔は自分の心の拠り所だ。他に縋る場所があろうとも、その名が一番に口をつくのは仕方なかった。たとえ誰に理解されずとも、その名を呼ぶのは美咲にとっては呼吸と同じくらいに必然のことだった。
 それでも、どれだけ希っても、彼は自分に救いの手を眼前に差し出すことはない。彼と自分は、絶対に同時に存在しえないのだから。もしも彼がこちらを救ってくれるのだとしても、それは惨いほどに一方的で独善的に、奪うように救うしかないのだけれど。

 その代わり、とでもいうように。目の前に差し出される手があった。
 美咲はその手を見て、それからその手の持ち主の顔を見る。知った顔だ。


「大丈夫か、美咲」
「……耀太」
「ああ、耀太だ」


 義兄──という扱いにしている──の赤い髪が太陽に透けている。黄金の瞳はこちらを心配するように見つめていて、ああ、自分は申し訳のないことをしている、と思った。だからその手を取って、彼を心配した詫びをしなければならない。 ……頭ではそう思っていた、本当に。だが、どうしても手が伸びてくれない。見えない闇の底に溺れて動けなくなってしまっているような体の重さが、美咲の行動の邪魔をする。
 耀太が不思議そうにこちらを見ていた。手を、取らなければ。なんとか自分を奮い立たせ、その手を取ろうと手を動かしかけて──、彼の方から手を引っ込められる。


「え、」
「あ? ああ、いや。無理して取るような手でもねえ、お前弱ってそうだしな」
「……ごめん」
「なんで謝る」


 そこはありがとうでいいだろ、と呆れを込めたようなため息が吐き出される。それがどうしようもないくらいに申し訳なくなって縮こまると、耀太も自分のため息がそうさせたことに気が付いたらしい。
 悪い、という小さな声で謝罪が降ってきて、それから一瞬後に雑に頭を撫でられた。髪の毛がくしゃくしゃにされてしまったが、今は気にならない。


「なあ、美咲」
「ん」
「どこまでわかってる?」
「……李緒が、あっちにいることとか。……あの人たちが、賭博場の人、ってこととか……」


 『自分』は李緒以外の人間たちとは面識がなかった。もしかしたら『彼』は知っているのかもしれないが、返事が来ない以上それを確かめる術はない。
 それに、美咲にとっては彼らがどういう人物なのかは正直なところどうでもよかった。美咲がどうであれ向こうはこちらを認識し、敵として追っているのだから、逃げる理由としては十分すぎるほどだ。
 だから美咲は逃げていた。人気のない場所を通り、自分の安寧が少しでも齎されるはずの部屋へと逃げ込んだ。きっと外では、まだ自分を探す足音が聞こえているのだろう。


「それ以外は?」
「それ以外って?」
「……ほー、あのクソ野郎、俺に全部説明を投げたな?」


 ははーん、やりやがったなあのクソ野郎。独り言のようにそうつぶやく耀太の額に青筋が浮かんでいるのを見たが、あえて触れないようにした。そういう顔をしている時の耀太に迂闊に触れると──じゃれあいの範囲ではあるので嫌ではないのだが──巻き添えを食らうことになる。
 どうしたの、というような目で耀太を見つめる。その意図は耀太にも伝わったようで、視線に気づいた彼はひとつ咳払いを落として美咲に向き直る。


「……俺は、お前の意思を尊重したいが」
「……?」
「同時にお前の身の安全も優先したい」


 その声音はいつになく真剣なものだった。遠く遠く、遥か昔に聞いたことがあるかもしれないような、それでも美咲自身は聞いたことがないような、堅い声だった。それが真面目な話であって、それから美咲の今後に関わるような内容の話だということは嫌でも察してしまう。

 昔から、美咲は察しが良すぎると言われて育ってきた。そうならざるを得なかった。
 母は自分が生まれたその後僅かで亡くなったらしい。父の行方は知らない。生まれたばかりの美咲を引き取り、育てた義父は大企業の社長で、美咲は養子ではあるが社長令嬢だった。だから大人たちと関わる機会は同年代の子のそれと比べて多かった。また、美咲自身が自分で選び、身を置いた環境というのもまた、大人と子供が入り混じる世界だった。
 そんな環境で育ってきた美咲は大人の顔色を伺う力が付き、察する力が付き、それから、自分を抑える術も知った。子供らしくない、と言われることもあったし、今の状況もそんな自分の一面が少なからず関与しているのだろうなと思う。
 故に、耀太が今言いにくそうにしていることを理解してしまった。……それに大人しく従うべきだということも。


「……サテライトに、逃げようか」
「……サテライト」


 その言葉は聞いたことがある。このネオ童実野シティで生きる人間ならば、否応なしに一度は耳に入れる単語だ。

 美咲が住んでいるネオ童実野シティは階級社会で、大まかに三つの地域に区分けされている。
 一つ目は、今美咲が住んでいる「トップス」。ネオ童実野シティの最上層で、シティの中心部にある高層ビルの屋上に構築されている。富裕層が住み、セキュリティのエリートによ警護が為されている、まさしくセレブの住処という様相の地区。
 二つ目は「シティ」。ネオ童実野シティの大半を占める地域で上層部である。中心部には高層ビルが立ち並び、トップスまでとは言わずとも人々は裕福に暮らしているという。

 そして三つ目が、今耀太の口によって語られた「サテライト」だった。
 サテライトはこのネオ童実野シティにおける最下層で、シティやトップスとは海で隔たれている。身分の低いものが住むその土地はシティのごみが届き、シティの住人の快適な暮らしのためにサテライトの住人が処理を行っている、と資料で読んだことがある。
 また、犯罪者もこの町に連れていかれるらしい。勿論、トップス暮らしの美咲には縁の遠い話ではあったが、トップスの住人たちがサテライトの住人のことを「クズ」と言っているのを聞いたことを思い出した。

 逃げる。サテライトへ。


「……勿論、俺はあっちのことは知らねえし、犯罪者が飛ばされる場所だから、何があるかもわからねえし……、荒廃してるって話も聞いたことがある。だから、無理に行く……とは言わない。言いたくねえ。
 だが……、あそこに行けば、もうここのやつらに追われることはなくなる。……トップスの連中は、あんなとこ寄り付かねえからな」
「……うん」
「だから、お前の意思に任せる」


 彼は責任を放棄したわけではない、と美咲は解釈していた。彼が美咲のことでそんなことをするとは思っていないし、きっと美咲がサテライトに行きたくないかもしれない、というかもしれないと考えていったのだろう。サテライトのいい噂は聞いたことがないし、自分が聞き分けの悪い人間だったらそういっただろうなとすら思う。
 だが、美咲は『いい子』だった。なりたくてなったわけじゃない。だが、そうすることが美咲にとっては自然だというだけの話で。

 答えは、決まっていた。


「……どうやっていくの?」
「……養父(あいつ)がヘリを用意してくれる」
「そっか」


 重い体を、底から無理やり引き上げる。相変わらず、水を吸ってしまったかのように重たかったが、いつまでもそうしているわけにもいかない。
 怖くないのか、と聞かれれば怖いよ、と答えるだろう。本当は行きたくないのかもしれない。それでも、美咲に存在している選択肢は「怖いけど行く」か「行かずにおびえ続ける」のどちらかなのだから、それならば、と前者を選ぶしかないのだ。


「服の、用意は……」
青嵐(せいらん)がしてくれてる」
「……ん」


 耀太も、青嵐も、もう一人の義兄も。きっと美咲がこれを選ぶだろうと予測していたのだろう。自分の思いを利用されたとは思わない。彼らは美咲のことをよく理解してくれているだけだ。自分はそれに応えただけだという話。

 ふと、声が聞こえて猛烈な眠気に襲われる。
 今日はいろんなことがあったなあ、ぼんやりそんなことを考えると、この眠気も仕方ないのかもしれない。ただの眠気でないことは、美咲がよく知っていた。
 そのまま、美咲は意識を手放して──しかし、その体が倒れることはない。


「出発は?」


 美咲の口が、美咲の意思と関係なく開く。少し低くなったその声に耀太は眉を顰めたが、それ以上追及することなくただ「すぐにでも」と答えた。
 そうか、と一言呟いて、美咲は耀太を見上げる。本来あるはずのアクアマリン色をした目は、どうしてかルビー色に変わっている。
 そのまま、美咲はその齢に、性格に見合わぬ薄い笑みを浮かべ。


「じゃあ、行こうか耀太」


 耀太の耳をぞわりと撫でるような声音で、その『悪魔』は囁いた。

僕らが生きた世界。